2001年10月15日
黒柳『しばらくでございます。みなさんは舞台俳優だと思ってらっしゃいますけど映画俳優でもいらっしゃいまして主演なさったものも多いんですけど128本も出演されてる』
仲代「自慢できないですね。外国の俳優さんと比べるとだから100本超えてると自慢できないですよ」
『しかも舞台にでながらっていう人はまずいないですよね』
「50年ですからよく働いたなって思います」
『そうですよねよくお働きになった。面白い話があるんですけど新幹線にお乗りになった時の話。どうなりました』
「いやこれは実名だしていいか分からないんですけど10年前ぐらい前に京都へいくんで新幹線に乗った時隣の人が”あなたの舞台よく見てますよ”っていうんですよ」
『男の人?』
「男の人が言うんでありがとうございますってなこと言ったら”いや~すごかったな女の一生は、杉村春子さんていう方はどういう方ですか?”と来るんですよ。それでこれは誰かと間違えてるなっと思ったけど僕は面倒くさがりやですから仲代ですと言わずにいたら”ねえ北村(和夫)さん”とくるんですよ。困ったなと思ったけどその話で寝た振りも出来ず京都まで」
『北村和夫さんのまま』
「まま」
『その方見てらしたらびっくりしてますよ。』
「ときどきありますよねそういうことが。あの時のあなたはすごかったって言われて北村さんの変わりにありがとうございましたと言っておきました。3時間連続でしたよ」
『ええそんなに大変でしたね』
「実は・・・と言えなくなってしまって」
『どうしてその方は北村さんと間違えちゃったのかしら』
「多少年代は北村さんの上ですが」
『北村さんも喜んでると思いますよ』
「今日初めてて話したんですけど」
『仲代さんは北村さんみたいなハンサムな方と間違えられてうれしかったと思いますよ。それもまあ面白いんだけどお母様が面白い方なんですって?お背えが昔としては大きい方で160センチ』
「ええ5年前に亡くなったんですけど、実を申しますと私父を7歳の時に亡くしまして」
『お父様は病気で亡くなられたの?戦死とかじゃなくて』
「ええ当時難病と言われた結核でなくなりまして。すいぶん寝込んで寝てる親父しか記憶にないんですよ。」
『舞台とか仲代さんの舞台にお母様がいらした日って』
「私がですね俳優座養成所という所に役者になるんだと、当時はですね俳優になるんだと言ったら親は反対したものですよ。それが手をたたきまして”お前はいい男だからきっと成功するよ”と”うんとお金を稼いで私に贈れよ”と。不思議な母親でしたね」
『そうね役者になってお金になるとは思わないのに。息子をいい男だと認めてらっしゃるじゃありませんか。それで見にいらっしゃる時はすぐに分かっちゃうんですって。』
「あの僕の芝居を見に来てなんかざわめいているんですよね。お袋がきていて周りにいる知らない人に、知らない人にですよ”ちょうちょう、あれは私の息子なんですよ”っていうんですよ。ありがた迷惑ですよね。」
『いらっしゃるのがわかる?』
「分かるんですよ。困ったなあと思って」
『しかも長男ですよね。あれは長男ですとかもおっしゃるんですって』
「そうそう。それで僕の弟はシャンソン歌手をやってるんですけど。ホールに見に行ったときもまたその調子なんですよ」
『シャンソンて静かじゃありません』
「はい。”あれは次男、次男、歌上手いでしょ”って。それで終わったあと主催者の方が”どうも申し訳ありません。うるさい客が今日はいて”って言うんですよ」
『いいませんよね。そういうお母様。オープンな方っていうのかしら』
「すごい女でしたね。当時は貧乏で育ったんですけど学校なんかいかなくていいと親父が無理して死んだものですから健康第一で、母は若い頃喘息もちで食事の支度から妹たちの世話から僕と弟がやってたんですけど」
『それほどお母様はお体が悪かった。いつごろからお強くなったの』
「60ぐらいから。不思議な母親でした。」
『疎開してらしたんでしょ』
「ええ青山の学校にいまして大東亜戦争末期の時に集団疎開をしました」
『どこに?』
「今の”センカワ”って言うところなんですけど」
『じゃあ今の東宝やなんかがあるところじゃないですか』
「そうですもっとも東京に近いところで」
『(写真を見て)今と同じ顔ですねえ。小さくみえますねえ』
「このころは前から数えて3番目ぐらいでしたか」
『ええ!!』
「それで恥をさらすようですけど小学5年生ぐらいになっても寝小便するんですね。お寺に収容されてるんですど気付いたらしてるんですね。みんなが気付かないうちに墓場へ行ってバチが当たるんですが墓石に布団をかけるんですね。そうすると石が倒れていまだに足につぶれたあとがあるんですね。天罰があるんですね」
『あららら、やっぱりお母様に会いたいっていう気分なんですかね』
「それでねうちのお袋は全然来ないんですよ。他の子はお父さんやお母さんが来るんですよ食べ物を持って。あのころは食べ物がないですからね。その頃江良先生という人はえらい人で持ってきたお菓子はみんなに分配して。ただうちのお袋は来なかったですね。」
『千川ってとても近い所でね』
「青山の青年小学校という所なんですけどそこには軍人さんの子息がおおかったんですよ。同級生に山本五十六元帥の息子さんとか終戦のときに責任を取って割腹された阿南大将の息子さんとかいらして未だにその息子さんとお付き合いしてますけどあまり遠くに行かなかったんですね。」
『その山本五十六って方はは亡くなったんですからその時は山本五十六が亡くなったって学校で集まったり』
「国葬みたいな感じで」
『私覚えてます』
「参列しました」
『行かされたんですか?』
「そういう意味ではエリート小学校だったんですね。遠くへはやらない」
『それで戦後家に帰ってらしたらびっくりするようなことが起こってたってコマーシャルの後に』
『集団疎開でおねしょしてたっていうんですからかなりあれですよね』
「弱虫でね。必ず集合写真なんか撮るじゃないですかそうすると必ず1番後ろでね顔半分しか写ってないんですよ」
『さっきの子もそうでしたよねホウ杖ついてあんまり楽しそうじゃなかったですよね』
「暗い子で」
『後に”モヤ”っていうニックネームありましたよね』
「うちのお袋がですね。私本名は”もとひさ”っていうんですよぼくは江戸っ子ですから”ひ”があまりうまく発音できなくて、うちのお袋もうまく発音できなくてね昔お手伝いさんのことを”ねーや”っていいましたね。それを縮めちゃいましてね”モヤ”と。もや~としている子だったんですけど生まれたときは大きな声で泣いたそうですけど泣きもしなきゃ、笑いもしない子で”モヤ”と」
『もや~としているからと思ったら本名からきたんですね』
「うちの弟は”ひでゆき”っていうんですけどこれは”ヒヤ”っていいましてそういう事ではユーモアのあるお袋でした」
『それでやっと疎開先から帰ったらお母様が赤ちゃんを抱いてらした。なんだと思いました』
「おや!親父は亡くなったはずじゃなかったっけなんで弟がいるのかなっと。そしたらうちは面白い家系で僕の親父がまず結婚したんですよ。そして女の子を一人産んでそしてお母さんは亡くなられたんですよ。それでうちのお袋が駆落ち同然で結婚したんですよ」
『上にはお姉さまが』
「そうです腹違いといいますか。それで疎開から帰ってきたらもう1人いるんですよ。おやっと思ったら新しい父親がいるんですよ」
『戦争のドサクサというか』
「だからうちの兄弟は三色アイスクリームっていうんですよ。3種類いるんですよ」
『なにか弁護士事務所の方だそうで(新しい父親のこと)』
「ええ一家中そこの留守番としてお世話になったんですけど。それで2年間疎開したらその方の息子がいたんですね。その義理の父親っていうんですかねその人の子供が4人いたのかな。その後ね」
『お母様が。そりゃ複雑ですわね』
「4人だと思うんですけどねえ」
『どうしたんですか』
「名前が違うんですね。仲代じゃないんですね。今は元気にしてますけど、みんな仲良くしてますけど。だから見事な家系というか、見事な母親でしたけど」
『だからお母様にしてみれば仲代さんは長男は大事なんですね。弟さんはシャンソンの方は次男っていいますよね』
「自慢は自慢だったんでしょうね」
『仲代さんは自分の中に俳優の血が入ってるって思ってらっしゃらなかったそうですけど、そのお母様からお聞きになられたんですってまたその激しい・・・』
「元々僕は引っ込み思案な子ですから俳優になろうなんてもうとう思ってなかったんですが、小さいときから映画が好きで猛烈に映画を見てたんですけどたまたま俳優になったわけです。まあ俳優になったらこれで食わなきゃならないと思って猛烈に努力したんですが、母親が亡くなる10年前ぐらいにお前には役者の血が流れていると」
『ああちょっとそこまでで。びっくりしたでしょまた違うお父さんがいるのかって』
「ええ」
『ちなみにお母様はお綺麗な方?』
「ええ若い頃は五反田に住んでたんですけど五反田小町といわれてたんですけど若い頃の写真がないもので」
『ええあんまり若くわないんですけど仲代さんと宮崎さんが結婚なされた時のお写真しか手に入らなかったんですけど。仲代さんの隣の男の方のその隣がお母様でふくよかでお綺麗な方ですね。そのお母様があなたの中に俳優の血が入ってる』
「そうですねもう母親が亡くなって6年になりますけど」
『宮崎さんが亡くなった後に』
「そうですその翌年になりますけどお前には役者の血が流れてるんだと。またギョっっとして。私の父親は忠雄というんですけどその母親ですね僕のお婆さん。これはね物証が無いんでわからないんですけど母親の言うことを信じれば出すねうちの父親の郷里が茨城なんですけど当時歌舞伎の旅回りの役者が来て今でいえば不倫ですよね。それで生まれたのが私の父の忠雄だというんです。座長なんですが」
『今と同じじゃありませんが無名塾じゃありませんか』
「びっくりしてですね本当かお袋って聞いたんですね。弟もそれを聞いて。この話は今度僕が書いた本に書いたんですけど。多少暴露という形になるんですけど・・・」
『名前とかわからないんですか?』
「分からないんです。それで北海道の旭川に行ったら当時明治時代に全国を回っているどさ周りですか」
『旅回り』
「俳優さんたちの写真が並べてあるんです」
『写真展』
「写真展。その中にですね親父そっくりな人の写真がありましてね。亡くなった女房の宮崎さんがですね話を聞いてたものですからこのかたがそうじゃないかと」
『不倫の方と思われて』
「思いました。それでつてを使って探したんですけどどうしても分からなかったんですね」
『結局自分の中に俳優の血が入ってたんだと』
「どっちかというと歌舞伎畑のほうの(笑)。それでむかしから言われたんですけどちょっと芝居が大げさだよと新劇のほうで言われて。大げさなところがその人の血が入ってるような気がしてねえ。これはねえお袋がウソをいうわけないしこれは親父から聞いたこと」
『それは本当の事だと思いますよ。』
「だからそれからは俺は役者になっててもいいんだというような自信にはなってきましたけど。それまでは役者は俺にとっては天職じゃないんじゃないかなという気がしてたんですけど」
『それで今お聞きしたようなことを”残し書き”という本をお書きになりました。そういうことをお書きになったんですが今度”ソウシタフ”という小錦ぐらい太らせたんですって』
「肉っていうか肉襦袢っていうか」
『みなさん御覧下さいこれが仲代さんですよ。シェークスピアですけど。大酒のみ、女好き』
「いいかげん、女好き、お金好きっていう人間のあらゆる欲望を・・・」
『それでいて臆病な』
「ぼくの師匠がやったのを僕が俳優座に入った頃に見て」
『ああそう』
「それでいつかはっと思ってたんですけど」
『それで初演がですね能登半島に劇場ができて』
「能登半島に劇場ができて10年ぐらいになりますけど」
『仲代さんがお作りになったんじゃないの』
「僕が監修しまして4日間ロングランするんですけど」
『本当の馬も走るんですって』
「はい」
『その後に東京のサンシャインに3月にお戻りになられますけど。どうも』