本日の徹子の部屋ゲストは羽田澄子さん

2002年4月22日

黒柳「羽田澄子さんでございます。よくいらしてくださいました。関わった作品が90本、監督なさったものが60本。関わったというのは脚本とか?」

羽田≪そうです。編集とか自分が演出したのではなくて関わったものです≫

「それにしてもご自分で監督された作品が60本というんですからそれは大変なものだと思います。少ないですものねえ女性の映画監督は」

≪そうですね日本がまだ追いついていないというのかもしれません。でも今はずいぶん若い方が≫

「そうですね。評価されたものを作ってらっしゃる方もね。そういう女の方で監督をされている方がうまくいってるとうれしいですか?」

≪今までがんばってきて良かったなあっていう感じがありますねえ≫

「16年前にお撮りになった”痴呆性老人の世界”という映画がずいぶんたくさんの賞をお取りになったんですけど、この映画を見てたくさんの方が痴呆性老人について関心を持ったということでしたけどねえ」

≪そうなんですよまだ痴呆性老人という言葉が無かったんですよ。ボケ老人ってみんな言ってましたよね。その(痴呆性老人の)知識が医学に無かったしもちろん一般にも無かったですから、これはたまたま医学の学術映画を作ったのがきっかけで学術映画だとお医者さんしか見ないですから一般の人にも見ていただいたほうがいいということで私が勤めていた岩波映画制作所というところが結局自主映画で作ったんですね≫

「ええ」

≪そうしましたらすごい勢いで多くの方に見ていただきまして作った私がびっくりしたんですね≫

「映画の感想も気になったんだけどみんなが痴呆性老人というものに接して(映画を見て)ショックを受けたのが多かったんですって」

≪私は映画を作る方ですから試写などが終った後にどういう反応があったかが気になるんですね。でどういう評価を受けるかなって私は試写室の前で待ってるんですね。でもシーンとしてるんですね。何も言わないんですよ。私はどうしたのかなと思って。みんなは映画がどうということより人間が痴呆になるということに驚いてしまうんですね。そういう情報が全然無い時代でしたから≫

「俳優さんが痴呆性老人を演じたものはあったにしても本当の痴呆性老人が(演じたものではない)こういう風に生活しているとかね。デンマークやなんかに行かれてずいぶん研究なさったそうですけども」

≪ええ。映画を作った後に行って≫

「後にいらしたんですか。でもその後にずいぶんたくさん映画を作ってらっしゃるんですけども”安心して老いるために”、”住民が選択した町の福祉”、”北欧の老人のケアシステム”。こういた映画をたくさん撮ってらしてるんですけどもやはり”痴呆性老人の世界”をお撮りになってからでしょうか?」

≪リアクションの大きさに驚いたっていう事ですね。それと問題の大きさに気がついて老人福祉の問題の映画を作るようになった≫

「撮ってらしても明らかに老人の顔が変わっていくんですって?」

≪そう介護の仕方によってね痴呆老人ていうとみんなどうしていか分からなくなって適切な介護ができないんですけどもお年寄りの気持ちを大切にした介護をしていくと痴呆は治らないんですけども精神状態が落ち着いてくるんですね。そうなることによって非常におだやかに暮らせるようになっていくんです≫

「この間まで本当にしゃっきりした方が突然そういう風になっちゃうということがねえ。突然ではないんでしょうけど」

≪突然ではないんですね変だなって思ってる内にあんなにしっかりしてたお母さんが変なこと言い出すようになると「しっかりして頂戴!!」とか文句ばっかし言うようになるんですね。そするとそれがストレスになってかえってよくないんですね。≫

「穏やかに付き合う人がいると安定してくる。それが大事なんですね」

≪とっても大事なことですね。もうだめだと思っていても介護に仕方によって本当に良くなってくるんですね≫

「(介護に仕方によって)自分で生活できるぐらいになってくる違いがある。ショックを受けるのは自分たちもいずれ年を取っていくとこうなるのかもしれないというのがあるんですね」

≪そうですね。(映画を)撮りながら私はボケたらどのタイプかなって思ったりして≫

「一番最初に痴呆性老人を撮ろうというのは何かあったんですか?」

≪(医者が見る)学術映画を頼まれたんです。それが最初だったんですね≫

「その学術映画をお撮りになったのは良かったことですねえ」

≪でも撮った時すごいショックでした。それまで人間がボケたらどうなるかって全然知りませんでしたから。穏やかに生活できる歳になってボケてどうしようかと思いました≫

「羽田さんは大連(だいれん・)のご出身というか中国でお育ちになって日本にお帰りになったんですけどもお父様は比較的お口をおききにならない方で」

※中国、遼東半島の南端に近い港湾都市~小学館国語大辞典より~

≪そうですね。無口な父だったんであまり父親と会話っていうのは無かったですね≫

「(その時代の男は)1年に3回も笑えばいいというものでしたから(笑)。旅順にもいらして外国で生活なされたり」

≪外国というか大連と旅順が育った生活が長いということで≫

「当時は行ったり来たり比較的簡単にできましたから。それから自由学園にお入りになって」

≪私の時代は口を開けば女は良妻賢母の時代で他にすることがあるんじゃないかと思ったんですけども学校で教育されるのはそればっかしだったんで羽仁モトコさんの本なんかを読んで自由学園に行くのがいいんじゃないかと≫

「それで自由学園にお入りになってやはり自由学園は良かったですか?」

≪当時の日本の教育の世界ではある意味ユニークだったと思いますね。≫

「私昔の自由学園に行ったんですけどもライトが作ってるんですね建物を。今もあそこは記念の建物になってるんですって?」

※ライト=フランク・ロイド・ライト。アメリカの建築家。20世紀建築の巨匠。旧「帝国ホテル」も建築~小学館国語大辞典より~

≪文化財保護の指定を受けて今とても綺麗になってます。≫

「その建物(自由学園)の中にライトが自分はこれをどういう気持ちで作ったかといのが書いてあるんですけどもそれを読んだ時に胸にぐっと来て帝国ホテルなんかを作ったというのは知ってましたけどこれほどすごい人とはって。ライトに子供が入る学校を作ってって頼んだ羽仁さんという方もすごいですねえ」

≪羽仁さんの話しを聞いて共鳴してあっという間にライトが作ってくれたそうですよ。≫

「羽仁進さんのおばあさまになるわけですかね。で羽仁進さんとは岩波映画で」

≪そうです。最初岩波に入ったときに写真文庫っていう本の編集をしてたんですね。私は羽仁さんの助手をしていてそのうち1本立をしたんですけどもそのうち羽仁さん監督になって私も助監督になってだいぶご一緒に仕事させてもらいました≫

「ご主人は映画プロデューサー何ですけども元々文部省の」

≪役人です。羽仁さんの”教室の子供たち”という映画を作る時の文部省の担当官だったんです。(羽田さんのご主人は)羽仁さんと意気投合して映画の世界に入っちゃたんです。だからちょっと変な人ですけど(笑)≫

「ご主人のご結婚のプロポーズの言葉ですか」

≪まだ知り合った頃で結婚したのはそれから5年ぐらいたった後なんですけど「君の仕事の邪魔は絶対しないから結婚してくれ」と言ったのがプロポーズの言葉でした≫

「お父様はそれをお聞きになって変わったやつだとおっしゃたそうですけども」

≪変わった奴というか変な奴と言ったんですけども(笑)。≫

「変な方で良かったですね」

≪そうです(笑)。普通の人じゃなくて良かったと思います≫

「プロデューサーとして一番大変なことはお金のことでしょ。制作費」

※羽田さんのご主人はプロデューサー

≪そうです。それと私が一番作りたいものに力を貸してくれるわけですから。一緒になるまでは十数年という時間があっておたがい違うことをしてたんですけどもこの十数年一緒に仕事するようになって≫

「その後平塚らいちょうの映画をお作りになるんですけどもそれまでは平塚らいちょうのきちんとした映画は無かったんですかね?」

≪全然無かったですね≫

※黒柳さん羽田さんがしている指輪を見せてくださいという

黒柳「これは個人的なことなんですけどもうんと若いときにNHKである男の方とお会いしたんですよ。その方は平塚らいちょうさんの旦那さんで「僕は今指輪とかを作ってるんだけど家に平塚らいちょういるから遊びに来ない」とかおっしゃたんですね。すぐに伺えばよかったんですけどもグズグズしてる間にそのままになっちゃって。たしか(その男の人が)指輪を作ってる方とおっしゃたんでこれが(羽田さんのしている指輪)そうだと思って。旦那さんは若い方ですよね」

※指輪を見せながら

羽田≪そうですねらいちょうさんよりだいぶ若い方で≫

「(平塚らいちょうさんの)最後のご主人で」

≪さいごというか最初から最後までのご主人で≫

「(平塚さんが)亡くなったのは1971年でまだ徹子の部屋はできてなかったんですね。来ていただきたかったんですけども平塚らいちょうさんはとても美しい方で」

≪綺麗なかたですね≫

「どういう方かというのをちょっと」

≪らいちょうさんのお父様は会計検査委員の官僚だったんですね。お父さんがドイツに仕事に行かれたりして若い頃は鹿鳴館時代の洋装をされたりしてたんですね。だけど成長するとお父さんの官僚臭に彼女は反逆して活動するようになったんですね。それから日本女子大にはいってるんですね。女子大時代から禅の修行に凝るんですね≫

「はい」

≪自分の精神を鍛える修行をしてあまり注目されてはいないんですけどもそれが彼女の精神をささえる元になったんだと思うんですね。まず自分を解放してから有名なのは青踏社を作って”原始女性は太陽だった”という有名な言葉が≫

「創刊号に」

≪それから塩原事件といってモリタソウヘイと塩原に行って心中事件をおこしてるんですね。一番有名になったのは心中未遂事件をおこして世の中に騒動を起こしてたいていの人だったらそれでポシャちゃうところをそれから青踏をだして出すことによって社会に芽が開いていくわけですね。青踏のあと新婦人協会というのを作って女の人が政治運動に参加できる団体を作ったんですね。それも数年で止めて生活協同組合の仕事をやって≫

「(羽田さんが作った平塚らいちょうの映画は)女優さんが動いているというのではなくて記録映画ですので写真やちょっと動いている映像なんかを使って」

≪いやいや全部調べたんですけど動いている映像って十数秒しかないんです。≫

黒柳「戦後は」

羽田≪戦後集中されたのは平和運動だったんですね。女の人の団体を今までバラバラだったのを1つにまとめてやろうということで。戦争体験がらいちょうさんにとては強烈だった。なくなるまでの間いろいろな機会を捕らえて平和運動をなさった≫

「市川房枝さんと一緒に?」

≪そうです新婦人協会の時に市川房枝さんとご一緒に活動されたんですけども結構お2人の仲がギクシャクされたらしいんですねえ。しばらく疎遠になってたんですけども戦後またご一緒に≫

「らいちょうさんはご自分が政治家になるようなことはなかったんですか?」

≪そうなんです。声が出ない方なんです。声帯に障害があって小さな声しか出ない方なんです。ですから演説とかあまりできない方なんです≫

「そうですか。ちょっとお作りになった”平塚らいちょうの生涯”から見せていただきたいんですけど」

~映画再生~

黒柳「その指輪は(平塚らいちょうさんの)旦那さんがくださったんじゃなくて」

羽田≪ええこの画を作ったのをらいちょうさあんの息子さんがご覧になってとても良かったと喜ばれてらいちょうさんの旦那さんが作った指輪をくだすったんです≫

「そうなんですか。この徹子の部屋のわりと初期の頃のプロデューサーで竹下さんという方がいるんですがタモリさんがよくその人の真似をするんです。年末にここに来て。その方の奥様のお母様が小林トミエさんといって」

≪ああ!!らいちょうさんの晩年にご一緒にあれされて≫

「小林さんにここに来て話を伺ったんですけど映画は岩波ホールで6月28日まで上映しているそうですけども羽田さんはこの映画を通してみんなになにを訴えようと」

≪私が一番思ったのは自分の精神を大事にして非常に正直な方だなと思いました。自分が感じたことこうだと思ったことには非常に率直に行動された方だなと思いました≫

「それは当時としてはめずらしい?」

≪そうです塩原事件なんて言うのは大騒動になったんですけども彼女自身は極めてまじめにやってるんですね。世の中が騒いでも彼女自身はそのことによって全然動じないです≫

「私も美しい方だとは伺ってたんですけども作ってらして非常に美しい方だと思いました?」

≪美しい方だったから動く写真が無くてもスチールだけで耐えられたといえるんじゃないですか≫

「彼女の行動に憧れた人も当時多かったでしょうね」

≪はい≫

「ありがとうございました」

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