2002年5月16日
黒柳「よくいらしてくださいました。日本を代表する作曲家でいらっしゃいましてシンフォニーもオペラもたくさん作曲されているんですけども大河ドラマも作曲されています。”国取り物語”、”花神”、”山河燃ゆ”。シンドウカネタ監督の作品「裸の島で」1961年ですがモスクワ映画祭で音楽賞を受賞されています。30歳の時ですがこのときはずいぶんうれしくてらしたんじゃないですか?」
林≪うれしいというかそういうこと(受賞すること)が起こらないと思ってやってるわけでしょう。楽しかった。あの時はフランスなんかに喜ばれてシャンソンになんかなったりして歌詞がついて非常に不思議なものでしたよ≫
「また”裸の島”っていう内容が地味っていえば地味で」
≪ただ言葉がなくて・・・住んでるから・・・≫
「わかったんでしょうね。それと”午後の遺言状”というこれもシンドウカネタ監督がお作りになたんですけどもこのテーマ(曲)はとってもみなさんお好きだと思うんで聞いていただきます。~流れる~このときは音羽信子(映画に出演された)さんは体が悪くて?」
≪体が悪いというんでどうしてもシンドウさんが撮っておこうということで撮ったんですね。僕たちは全然知らなかったです≫
「でも本当に綺麗な音楽でしたね。今の笛の音は何の楽器なんですか?」
≪オーボエ≫
「オーボエというのはすごい不思議な効果のある」
≪これは”裸の島”よりも30年後の映画音楽ですからね。やっぱり最初は音楽でも映画を表そう表そうとするわけね。そういうことをあらわさないで映画の外というか内というかそこに唯あるという音楽をかけたいと思って。それがね少しやっとできたかなっていう≫
「私大昔に主題歌をNHK時代に歌わせていただいたことがあるんですけどね」
≪それが徹子さんとの初仕事で童話の連続ドラマの主題歌で。それのテーマソングを誰にしましょう?っていうから「徹子さんで」って見事に(決まった)。あの時本当に徹子さんは音程のいい歌を歌うって≫
「そう!。父は音程が悪いってしょっちゅう言ってましたけどねえ」
≪声楽がどうとかではなくてピタッと。すごく気に入ってあれはよかったですね≫
「(林さんは)恐いって評判でしたからね」
≪そうですか。恐かったですか?≫
「いえいえ私は叱られなかったんでよかったですけども。歌詞をよく読んでいる人音程がいい人は美空ひばりさんとエノケン(榎本健一)さんだっていつも思ってるんですって?」
≪僕は日本でこれまで存在した一番音程のいい人はエノケンさんと美空ひばりさんだと思っています。それに匹敵するというかそれを思わせる歌だった≫
「私が!あれからあまり歌ってないのですが。それでお父様はのどの有名なお医者様でオペラの方や俳優さんが」
≪明日本番なのに声が出ないとか言うとうちの親父のところにきましてね。また親父がほっとけば治るってすぐに言うからね。患者さんというのは何かゆってもらいたいというのがあるでしょ。なのにほっとけば治るって。≫
「お優しい方で私も何回も見ていただきましたけども。それとフルートの林リリコさんと言う方がお亡くなりになりましたけどもお姉さまじゃないんですってねえ。みんなお姉さまって」
≪あれはねえうちの母の兄弟の娘なんですよ。でも母親が早く死んだものだから家にずっと≫
「だからみんな光るさんのお父様の娘さんだと思ってたんですね。光(ひかる)っていうのはご本名でしょ?」
≪そうです。男の子では珍しかったですね≫
「やっぱり光り輝く男の子になるようにとく」
≪うちの母が聖書を読んでいて教会に少し通っていたんだね。そこにその字(光)という字があったていう。本当かどうかは分からないけども≫
「でもどうして林さんて恐いって言うけども音楽家の人たちが。恐い時は恐い?」
≪いやあ自分ではそういうつもりはないけど全然≫
「皮肉とかいったりする?」
≪いやあ(笑)言う人はもっと他にいるもの(笑)。つまりすごく良いよとか余計に言わないからかな。よければ黙ってるし。≫
「ちやほやされなとだめなのかなって思ってる人の場合恐いって思う」
≪でもねえいろいろちやほやするのはダメだからそういうって自分では思ってる。黙ってる時はこれでいいんだなって思ってくれればいいと思ってる≫
「ご覧のように優しい方です」
≪黙ってて恐いと思われない方法はないかしらねえ?≫
「そうですねえ・・・・・・天気がいいねっておっしゃっても変ですよね。でも本当は自由であるはずの学校の自由学園にいらっしゃって」
≪そうですね小学生の6年の真ん中へんまでいて疎開のときに1人で田舎に疎開したからそれで自由学園とは縁が切れた≫
※疎開=空襲、火災などの被害を少なくするため、都市などに密集している建造物や住民を分散させること
「ああその後慶応にずっといらっしゃいましたね」
≪そう≫
「小さい時にそこで音楽を習って?」
≪ピアニストのソノダタカヒロさんのお父さんのソノダキヨヒデさんで。自分はピアニス志望だったんだけどもあの頃の人は遅く始めるからあきらめて自分の子供の世代にもっと早くから音楽の教育をしたいって思った方が大勢いたんでねその中の一人がソノダさんで。自由学園の羽仁説子さんとお知り合いでそこで小さなグループを作って。うちに母がちょうど自由学園の卒業生でその子供たちが自たくさん由学園に行って。早気から音楽を学ばせる音楽グループがあってその中に一番みそっかすで入った≫
「そこでソノダタカヒロさんのお父様からピアノを習いになった?」
≪そう。ただピアノが上手く引けるんじゃなくて今(現在)あっちこっちのピアノ教室でやっているような音を聞くことを覚えたりもちろん引くことを覚えたり楽譜を書くことを覚えたりそういうシステムの走りだったんですね≫
「普通技術とかを教えたりすることが多いのにねえ。そこで音楽を」
≪そこで本当にみそっかすで僕は3つ半だったらしいです。他は5、6つだったんだけどね。そこでいろいろな珍談があったんですけどね。ピアノを叩いてドミソとかを当てる訓練でしょ?≫
「ええ」
≪それの発表会というのがあってそれを自由学園でやったわけね。一番小さいのが僕で。お辞儀をする時に”ターン、ターン、ターン”というのがあるじゃない。でも僕は前の日に風邪を引いて(その音でお辞儀をすることを)知らなかったの。でぼくだけその音が鳴ったときに「ドミソ」って言ったの(笑)満場爆笑になったんだけどもそれであれはやらせじゃなくて本当やってるんだって分かったわけ≫
「3歳でもって分かった」
≪そういうみそっかすでした。≫
「それからいろいろな人にであうんだけどもその間に戦争というものがあってね」
≪疎開もしたしね。僕が受けた教育っていうのは絶対音感という訓練でね。ドがなればドだって分かる訓練で。でも僕は疎開先の小学校のピアノを借りて弾いたものだからその疎開先のピアノは半音低かった≫
「あら!」
≪それに付き合って弾いていたものだから僕はその絶対音感というものをなくしたんですよ。≫
「あらーー半音違ってたんですね」
≪そうそう(笑)≫
黒柳「今テレビを見ている人の中にも自分の子供を音楽家にさせようと思っている方もいると思うのね。子供たちにはどういうことが必要かとうかがってるとね技術もそうだけども音楽そのものを勉強することが大事だって。それでオダカタダアキさんていう指揮者がいらっしゃいますけどもこの方のお父様とウィーンでお会いになったら」
林≪(オダカさんのお父さんが)ウィーンにいましてね。内の親父がウィーンに留学していましてそれでうちの子供がこういうことをしているんだって言ったらじゃあ俺帰ったら教えようって。≫
「すぐに決まったんですか」
≪それだけじゃなくて僕のためにピアノのショウヒンを2曲作曲して送りつけて来た。≫
「あらあらあら」
≪すごい方ですからおっちょこちょいですよね(笑)。難しくて弾けなかったんですがそういうせっかちなところがありました≫
「教えてあげましょうということになってオダカさんの家に行くことになってそこで弦楽四重奏を聞くことになって」
≪そこにいろんな友達が集まっていてそこに弦楽四重奏団というのが来たんですよ。僕は目の前で見てびっくりしたんです。その第一バイオリンを弾いていたのが黒柳モリツナさんという方でした。徹子さんの弟さんでした≫
「N饗のピックアップのメンバーだったんですけども。あのころ父は本当に弦楽四重奏が好きで私の家で練習している時はね芥川ヤスシさんがねキップを買うお金がなかったんですって。で家が近かったんで家の応接間の下でしゃがんでいつも演奏を聞いていたって」
≪もちろんステージに行って遠くから聞くことはあったけども目の前でチェロやバイオリンがゴウゴウと塗ってある松脂が飛ぶようなねそういう経験は強烈でしたね≫
「じゃあこういうものを作る人(作曲家)になろうって?」
≪そのときはそこまで思わなかったですけどね。でそのときに聞いたのが師匠が前の日に書き上げた弦楽四重奏でそれをオダカ夫人がパート譜を書いて≫
「でそうこうしている内に戦争がひどくなってお父様のオダカさんは戦争に行くようになって何かがあったら(戦死するようなことがあったら)モロイヒデオさんとサイトウヒデオさんのところに行くようにと」
≪とイケノウチモリオさんと。3人のどっかへ行けと遺言みたいにしては出征していくんだけども毎回帰ってくるわけ。何とかして帰ってこようと思ってお醤油を飲んだり(体調を悪く)して帰ってくるんだけども毎回いとおうそういうことをいわれてたのね≫
「結局はオダカさんは早くにお亡くなりになるんだけども芸大に入って」
≪それまでにも一応やってはいたんだけども師匠がいなくなりましたから自分の力で何とかしなくてはいけないって考えるようになりました≫
「芸大にお入りになったんだけども林光さんは芸大中退です。ちょっとCMに」
≪≫
黒柳「芸大を中退なさったのはどういうわけですか?」
林≪うん、あのいろんな事情があってある時イケノウチトモヒロ先生がもう1人でやったほうがいいよと。それはある種の厄介払いだっのかもしれないけれど。多少問題を起こしたから≫
「そうなの」
≪そういうことを言われた。でも実際はイエノウチさんに何かいてるのって言われて始まりでいいから見せなさいと言われて見せると「ああこれでいいから書いてゆきなさい」と言われるような関係でしたから。前から俳優座の仕事もしてましたから実際の仕事をすることが好きになっていたんです。≫
「中退なさったんですけども6年いて中退なさったのがイワキヒロユキさんなんですけども。当時同期生で。そのあと1956年なんですけどもオーケストラのための変奏曲で第4回オオタカ賞をお取りになりました。それからも賞をお取りになったんですけどもそこで”森は生きている”という俳優座の公演で音楽が付く」
≪そうですねこれはオオタカ賞を取る前でね≫
「私見ました。これは当時としては本当に斬新なものでね。~その音楽を再生~これを見てすごいものがあるなって。でもこのときに(公演が)3時間もあるものなのに子供たちが退屈するかと思ったら全然退屈しなかったんですって?」
≪うん。帰りもしなかった。その今の”燃えろ♪燃えろ♪”ていう歌を歌いながら帰っていった。これは駆け出しの音楽家にとってはものすごい激励でしょ。それが作曲家をやっていくというのの大きい押し出しになった。そのころ町で声をかけられて”森は生きている”を見ましたって言ってくれる。≫
「そーう」
≪である時にうちの母が見ましたって声をかけられるようになった(笑)。今にうちの祖母が見ましたって言ってくれる様になるんじゃないかって。≫
「それでずいぶん”オコン浄瑠璃”とか日本のオペラを一杯書いてらっしゃるんですけども。”我輩は猫である””イイハトーブー””ダイエイ音楽会”それから”カフカのヘンシンザ”とか宮沢賢治の”セロ弾きゴーシュ”とかをオペラにしてらっしゃるんですけども」
≪そう昔からオペラは書きたかったんですけども日本にはオペラ劇場がない。ヨーロッパの作曲家って子供の頃からオペラ劇場でオペラを見てそれで家で兄弟を集めてオペラごっこというのをやったりしてそういうのをやって音楽家になってオペラを書くでしょ。そういう流れがないでしょ。自分の力で作り出さないと。≫
黒柳「とても簡単にご覧になれるオペラです。5月22日から26日までなんですけども世田谷パブリックシアターで三軒茶屋のところにある。井上ひさしさん原作の”イヌの仇討ち。吉良の決断”という話でどういう話しなんでしょうか。これの音楽をお書きになったんですけども。どういうところが面白いですか?」
林≪忠臣蔵を吉良の側から書いたものでみんなで討論しながら。≫
「まあおもしろいですね。今のお話聞いただけでもねえ知的な内容ですよね」
≪笑える≫
「本当にありがとうございました」