2002年6月5日
黒柳「海老一染之助さんです。本当にいつも”おめでとうございます”ご兄弟で。57年間どんな席でも、どんな寄席でもお兄様と一緒に”おめでとうございます”。お兄様70歳だそうですが2月2日に・・・お誕生日が2月1日だそうですが次の日にちょうど70歳になった1日目にお亡くなりになったそうですが。でも今お1人でやってらっしゃるのはどういうものですか?」
※染之助さんは実のお兄さんである染太郎さんと一緒に伝統芸能である太神楽をやられていた
海老一≪はい、今までより倍力が要りまして。はい≫
「お兄様は何も芸をおやりにならなくて「この人(染太郎)は楽なんです」といつもおっしゃってたんですけども楽ではなかったんですね。お兄様がいらっしゃる事でずいぶん」
≪ですからねいつも汗びっしょりかいてやってくれてました。私どものパロディをタモリさんもやってくれましたし割合有名なタレントさんがやってくれて脇についてる染太郎の役もやってくださったんですけども何にもやんないのに息切れがするとかみなさんとってもこぼされていて(笑)≫
「あなたは1人で出演料全部もらえてうれしいとおっしゃっているんですけども。うれしそうにやってらっしゃるのを私は涙を流しながら拝見しているんですけどもこのお正月にも(仕事を)やってらしてその時お兄様は胃がんだったんですね。元旦にはお兄様が仕事を取る係りだったんですね」
≪はい、そうです。元日は32年続いて出していただいて≫
「どんなことがあってもお兄様は元日にはでようと。手術なさったのが去年の10月?」
≪10月の下旬だったと思います≫
「10月の末に検査で胃がんであることが分かって11月に手術なさったんで元旦におでになること(※仕事すること)は大変だったと思うんですけども」
≪すごく病気に打ち勝つ気力のある人で病気だと言わないし具合悪いとも言わなかったからこうなったと思うんですけども≫
「元気そうに見えましたけどね。やせてらっしゃるけど元気な人って」
≪浅草の演芸ホールから(1月)2日から寄席中継がございまして。去年は土瓶をやらせていただいたから(※今年は)乾杯でコップにビールをついで私が飲もうとすると横からスッと取って飲むのがあるんですけども「あれをやる」っていうから11月の下旬に切って飲めるわけ無いじゃないのって言ったんですけども「飲む」って。それぐらい気力があって負けずやっていうか。≫
「芸人はお正月から仕事が無いのは良くないって昔から言われている事で、元旦から仕事に出られて2日は寄席に出られて3日はお休みだったそうですが4日は山形での営業があった」
≪もうねえずいぶん反対しましたけども中々言う事を聞かないんです。≫
「おやりになるとおっしゃって。それで最後のステージが1月の20日。これは亡くなる2週間足らず前?」
≪はい、最近は都内のお仕事が少なくて地方へ新幹線乗っていったり飛行機で行きますけども20日はたまたな半蔵門の近くのホテルでやらしていただいて浅草の方のお客様でこれは都内だからやらしていただこうかと私も賛成して≫
「しかもお兄様がご自分でお取りになったお仕事ということで行かして頂くということになったんですけどもあの時たまたま(仕事先の)誰かがビデオを撮ってたんですよね」
≪全然気付かなかったんですが≫
「お兄様は元気にやってらしたんですが後ろの方で転んだりされてたんですが、私もたまたまそれ(ビデオ)を拝見したんですが(※染太郎さんが)転んだりしてもそれが芸(わざと)なんだって笑ったりして」
≪「あなたはあちらで休んでなさい」というとお客様はネタだと思って笑ってくれて(笑)≫
「最後まで「おめでとうございます」もおやりになって、ただその(※仕事から)お帰りになる途中車の中でですか?」
≪あと9日間お仕事が無くて2月からまたお仕事があったんですが「ああ、これで全てが終ったね」って寂しそうに言いましたから嫌だなっと思いましたがもう1回言いまして「全て終った~」って。その時初めて僕は嫌な気分になっちゃって。もしかしたらと思っちゃって≫
「手術をなすったんだからこれで全て上手くいってると思ってたんだけども、それで新宿のところを通ったらネオンを見て」
≪そうなんですよ。その時は兄の長女が運転してくれてましたけども「きれいだね~」って今更そんな毎日通っているところを(笑顔)。これん時もちょっと変な気持ちになりました≫
「あのVTRをみると本当に命がけでやってらしたというのも後で分かったと思うんですけども」
≪それで(最後の仕事が)終りまして、あとで表彰するのを頼まれましてそれは僕だけで良いですよあなたは先に控え室に行って下さいっていいましたら後でVTRを見ますと堂々と引き揚げてるんです。まさにこれが最後なんだなっと。花道を行くみたいに。なんとも言えないものが≫
「本当にご病気には見えなかったしお兄様らしく堂々とさってらして。それが最後だったんですね。ただ(染太郎さんが)お亡くなりになったときはあなたはお仕事をしてらして?」
≪ええちょっと打ち合わせがありまして9時に自宅に着きましたら9時5分に電話がありまして兄の長男から「永眠いたしました」と。長男の人はお医者さんから聞かされる度に泣いてましてねその度に泣いちゃいけないんだって僕も絶対治るって思ってましたから(笑顔)さすがにびっくりしました≫
「お葬式には思っても見ない有名な方がたくさんいらしてくださったそうでね。ビートたけしさん、タモリさん、鶴瓶さん、とんねるずの石橋さん。(有名人の中に染之助・染太郎さんから芸を)習ってらっしゃる方もいらっしゃたんですか?」
≪まあ、テレビの番組なんでお教えしただけであれなんですけども。ただ亡くなりましてから兄は非常に芸に向いてないと気が付きまして本当は学問の方に行きたい人が芸の方をさせていただきましたけども、こんなにお忙しい人が弔問に来てくださって(兄に)見せてあげたかったですよ(笑顔)。「ほらほら、あの方も来てるよ」って見せてあげたかったですよ。今でもありがたいと思ってます≫
「この番組に5年前なんですけども元気に出ていただいて私が変なものを傘の上で回してくれとか頼んだのを見ていただきます」
~5年前のVTR再生~
≪ハハハハハ(笑)≫
「5年前の事でお兄様もお元気でね、お兄様は何もやってらっしゃらないとおっしゃってますけどもお兄様の掛け声とかお兄様のお渡しくださるものとかああいうものがずいぶん、今は1人で腹話術をやってるような感じなんですって」
≪そうです、そうです、はい(笑)。で芸は1パターンですけども兄が(染之助さんが芸をしている)前を通りましてですねその日によって雰囲気を変えていくというやり方をさせていただいていたのでそれこそ心のそこから邪魔だってどなったり≫
「本当に笑ってらっしゃるっけどもお辛いと思いますがちょっとコマーシャルに」
≪はい≫
黒柳「今のVTRをご覧になってたまねぎはとっても難しかったと、いきなりだったんで」
※黒柳さんが”たまねぎ”を回して欲しいと5年前に出演された時に頼まれた
染之助≪はい、初めてだったんでね。ああいうのはお稽古しないで本番でやるようにしてますから≫
「でも私がなぜ四角い舛がまわって丸いものが回らないんですかって言ってるんですがたまねぎの上の出っ張りみたいなのが難しい?」
≪はい、バランスが崩れていくのかもしれません≫
「お2人で57年間もずっと一緒にやってらしたんですからそれは長い芸歴だと思います。それと伝統芸を大衆芸になすったという本当に大変なお二人のお仕事があったんですけどもお母様は三味線をなさる方でお父様は落語家」
≪はい。≫
「ちゃんと食べるんだったら(生活していくんだったら)太神楽(だいかぐら)がいいんじゃないかということで兄弟で」
≪はい≫
「最初の頃のお写真があるんでお持ちいただいたんですけども。※写真登場この時もあなたがやってらしてお兄様はやってらっしゃいませんけど初めはお兄様があの芸をやってらしたんですって?」
≪最初父は家の祖母に「マサ坊(染太郎さん)を芸人にするよ」と言ったらおばあさんは大反対なんですね。あんた(父)1人で結構だって。落語家であんまり売れなかったからものすごい貧乏してたみたいで。それでも強引に海老蔵師匠のところに≫
※太鼓や三味線を練習している写真が登場
「これは師匠?」
≪いやこれは父です。落語で食べられなかったんで笛が上手かったんで。晩年は歌舞伎に行って笛を吹いたり。望月のお名前もいただいて。≫
「なにか最初はお兄様は不器用だったんですって?」
≪あの最初は兄の方が覚えが良くて。頭の回転がいい人ですから。最初は兄の方が上手かったんですね。うまいと言うより覚えちゃうんですね。私の方が遅かったんですがずっとやって20年位経ったときに「私は芸に向いてない」「なにをやってもだめなんだ」というようなことを僕にじかに言わないで間接的に芸が嫌いだと聞いたんですよ。≫
「びっくりなさったでしょ?」
≪ええ、嫌いじゃしょうがないから私が1人でやるようになってシテとアドがありますと兄にアドの方をそれをやるようになっていったんですね。≫
「なんか学者になりたいっていうような(夢があって)」
≪勉強の方ができて30年くらい経ってこれからは海外に進出したいから僕が芸を担当してるんだからあなたは英語の勉強をしに学校へ行ってくださいといって学校に行ってたんです。それは海外に出たいがために≫
「でも初めの頃は戦争が終ってすぐの時は駐留軍とかですとか外国のテレビにおでになったこともありましたよね?」
≪最初は米軍のキャンプに行きましてその頃は江利チエミさんとかそういう方たちといつもご一緒でいろんなバラエティーショーをやっておりましたけどもおかげさまで小さかったものですから売れて≫
「中学校になったかならないかですものね」
≪小学5年から芸をやってますから中学生の頃はものすごく忙しかったです。朝鮮動乱で仕事はまったくなくなりましたが≫
「でも外国にいらして外国のテレビに出て」
≪寄席に出て日本のお客さんに知ってもらわなければと寄席を中心に出させていただいた時が5年くらいありまして、収入的には米軍のキャンプと寄席では全然違いますけども、そのうちこれは海外に行かなければ行けないなということで兄には英語の学校に行ってもらいましてそんな状態です≫
「しばらく外国にいかれておやりになられたりしたんですよね?」
≪そういう風にしてましたらソ連からお口がかかってしまて≫
「ロシアの人ってサーカスも好きだしああいうのが好きなんですよね」
≪マナーが良くて帽子を取ってみてるんですね。エストラーダっていって寄席みたいなものですけども日本よりは規模が大きくて。そのころは岡田ヨシコさやらがいらしていろいろアドバイスをしてもらいました。それで帰ってきましてそれから5年後にまたアメリカに呼んでもらいまして≫
「日本の伝統芸にはこういうものがあると。他所の国にはこういうものは無いですからね。」
≪ソ連ではボリショイサーカスとかすごいのがありますけども日本のはそこにあるもので家庭的なものでしますからそれがかえってよかったんだと言ってもらいました≫
黒柳「元々お兄様はやせてらっしゃるから気がつかなかったんだけども歯が悪かったんですって?」
染之助≪はい、あの病気にはわりあい驚かないたちの人で歯医者さんに行った方が良いですよと言いましても中々行かなかったんですがとうとう行きましたらもう手遅れで全部抜く状態だったんですが歯医者さんがトレードマークを壊すわけには行かないんで(出っ歯の入れ歯を)作って下さって。僕はそれでやせたんだと思いましてお食事が取れないから。でも4キロやせたって言いましたからちょっと変だなって思いました≫
「お元気に舞台をやってらして」
≪病気を嫌がる人でしたです。整形をするお医者さんに腰が痛いからと言って行きましたけども僕も同じところに行ってるんですけども亡くなってからお医者さんに聞きましたら腰が痛いとこの腰が悪いんだと(※腰を)引っぱたいてるんだそうです。≫
「絶対に(※痛いとか)口には出さない人でご兄弟でも57年もいっしょにやってらっしゃると片一方が病気だと大変な事なんでお兄様は何もおっしゃらないでいつもああいう風にやってらしたと思うんですけどもさっきも言いましたが去年の10月に精密検査で胃がんということが分かりまして11月に手術をされて割と早くに退院されたんですよね?」
≪1週間ぐらいで退院しましてお医者さんはもしかしたら上手くいけば1年ぐらい(は生きられるんじゃないか)とおっしゃたんですが僕はそういうことは信じたくは無いからね。なんとかなるんじゃないかと、絶対弱気を出しちゃだめだと。≫
「それから本当に3ヶ月ちょっとという事でしたのでね。それにしても亡くなられた後でどんなにお兄様がみんなに愛されていたかという事がお分かりになったんですって」
≪亡くなったときもうちの家内は毎日のように兄が車で迎えにきてくれてましたので大変親しく思ってたみたいで大変な落ち込みだったんですけどももうこれからは兄が立派に花が咲くように最後の花を咲かせてあげたいとそれは誓いまして。本当にありがたい事で今回もこうして出さしていただいて本当にありがたい事で≫
「お正月の舞台でもお兄様が何か言うとみんなが笑ってくださってお兄様にとってはそれが本当にね生きる力になってたと思いますものね。」
≪でも一番の救いは自分では(病気のことを)気が付いてなかったみたいなんです≫
「悪いという事を」
≪じつは私どもの”おめでとう”という名前のお酒を売り出しましてそれを送ってきてくださったんです。私達の似顔絵が描いてあって。それを治ったら飲むって楽しみにしてたそうです。≫
黒柳「お葬式の時にたくさんの有名な方が見えたときにお兄さん見えてますかってさっきおっしゃいましたけども、お兄様に何かもうわかってらっしゃると思うんですけどもどっかにいらっしゃると思うんですけどもお兄様におっしゃるとしたらどういうことをおっしゃりたいですか?」
染之助≪やっぱり「お疲れ様」「ありがとうございます」です。もう亡くなるまで年中今日は上手くいったとか下手だったとかそればっかしでしたから≫
「もう今日は終わりですけども私も応援しておりますので最後に”おめでとうございます”を最後に言っていただいて」
≪はい今日はおめでとうございまーす≫
「ありがとうございました(拍手)」
≪ありがとうございました≫