2002年6月18日
黒柳「よくいらしてくださいました。新垣勉さん今日のお客様です。すばらしいテナーで後でサトウキビ畑を歌っていただきますけども、元々は牧師さんで教会で歌ったり各地を回って歌ってらっしゃるんです。4月の末にはサントリーホールでリサイタルをなさいまして2000人のお客様が満員で本当におめでとうございました」
新垣≪ありがとうございます。私も今日は徹子さんにお会いするのが楽しみで10年程前ですかねお母さまにお会いして本当に素敵なお母さまでお会いするのを楽しみにしてました≫
「そうですかありがとうございます。まず目が不自由になったのはお産婆さんが」
≪私が生まれたのは1952年ですからね戦争が終って7年目で医療事情が悪くて当時はほとんど家で生まれましたからね今では考えられない医療ミスですね。家畜を洗う薬を目に入れたためにですね眼球が焼けてしまって失明したわけです≫
「目薬と思って入れた。お産婆さんには悪気はなかったんでしょうけども失明なさった。それでお父様は沖縄の米軍基地の軍曹だった。メキシコ系のアメリカの方」
≪そうです≫
「それでお母さまは沖縄の方。ところが幼い頃に離婚なさった」
≪そうです。まあ話には聞きますけども私のところに来て会いに来てくれたそうなんですけども記憶にはないんですね。1歳の時にアメリカに帰ったものですからね。≫
「残念な事に離婚なさってお父様はアメリカに帰り、お母さまは地元の方と再婚。とてもおつらい事ですね」
≪そうですが素敵な義理の弟と妹がいましてね。まあたまに沖縄に帰るとあって≫
「(新垣さんは)お母さまのお婆様の方に預けられてその方(お婆さん)をお母さまと思って中学まで育ったんですね。」
≪そうですね。≫
「お母さまの事は?」
≪歳の離れたお姉さんと思って。お姉さんっていつも呼んでたんですね。≫
「とても可愛がってくれるお姉さんだって思ってたと思うんですけども」
≪そうです≫
「人がいろんなことを教えてくれて中学ぐらいの時にはお分かりでしたか?」
≪そうですね。お前がいつもお姉さんって呼んでるのはお母さんで、お母さんって呼んでるのはおばあちゃんだったんですね。≫
「憎しみと言うか自分を失明させたお産婆さん、離婚したお父さん、自分を捨てて再婚したお母さんに憎しみをずいぶんお持ちだったんですね」
≪まあ中学と言う多感な時期ですよね。つまり自分ほど不幸な人間はいないと思ってたんですね。どうして自分だけがこういう悪い星の元に生まれたんだろうって。運命というか。それと中学の時期ですからねアメリカに行って父親を探して殺してやるんだと。そういう気持ちがいつも自分の中にありましたね≫
「読谷村というところでお育ちになった。いじめみたいなものはあまりなかったそうですけどもいじめは無くはなかった」
≪今のような陰湿ないじめではないですけどもね。石を投げられたりね、アメリカ人だとか混血だとかそういう風な言い方でからかわれたりはしましたね≫
「沖縄みたいにたくさん外国の方がいらっしゃってもそうなんですかね。」
≪そうですね今と状況が違いますけどね。≫
「中学2年生の時にその心のよりどころであったお婆様がお亡くなりになってそれでお母さんのご兄弟のところに今度」
≪普段は盲学校の寮で生活してたんですけども休みになるとどっかへ帰らなくてはいけませんよね。みんなは自分の家に帰っていったんですけども、私は親戚の家に行ってたんですね。≫
「そこには子供がたくさんいたんですって」
≪そうですね食べ盛りですからご飯のお代わりをするのも気を使いながらね。まあとても良くしてくださったんですけどもその気を使いながら食べた事は忘れられないですね≫
「自分のうちじゃないと言う事ですよね。」
≪そうです≫
「(親戚の家には)6人子供さんがいらしたそうですけども子供たちはお父さんお母さんに甘えてわがまま言ってたのにあなただけはねえ。まあ中学生になってたんですけどもねえ。それで悲しい事なんですけども高校1年の時に自殺した方がいいって」
≪つまり一番中学生時代のというのはアイデンティティーを追及するというかね、読書が好きだったんですよ点字の太宰治なんかを読んでですね色々読みましてヘッセの”車輪の下に”とか。色々な本を読んで自分の人生を考えて自分なんて子の世の中にいない方がいいやってある意味で自暴自棄と言いますかね≫
「太宰なんてお読みになったらなおの事ですよね。それで井戸に飛び込もうと思ったんだけどもそこへ近所の方が」
≪友達が見つけてくれましてね。ただならぬ私の様子を見てビックリしましてね。そんなつらい時にどこへぶつけていいかわからなかった時にラジオから素敵な音楽が流れてきましてねそれが賛美歌だったんですよ≫
「それまで聞いた事が無い音楽?」
≪いえ何度かは聞いていたんですけども何か光のような気がしてね教会に行きましてね牧師の先生にお会いしましてね明日からキャンプがあるということで4泊5日のキャンプでしたけどね。先生(牧師さん)と話しましてねたまたま自分の思いのたけをぶちまけたんですね。話していると先生がすすり泣きをしているような雰囲気が伝わってきたんですよ。初めて自分のような人間のために涙を流してくれる人間が居るんだなってとてもうれしく思いましてね。今でも忘れる事ができないですね≫
「城間祥介さんという牧師さんにお会いになった。それで自分(牧師さん)の家にいらっしゃいとおっしゃって下さった」
≪普段は寮生活をしていますけどね土曜日曜日になると家庭の暖かさと言いますかね誕生日会をしてくださったりとかねお子さんたちが非常に音楽がお出来になるものですから≫
「お子さんが何人もいらっしゃって」
≪みんなで一緒に合唱なさって≫
「お嬢さんが3人いらっしゃったんですってね」
≪そういうみんなで楽しくすごした経験も今ではいい思い出になっています。≫
「やはりその城間祥介さんという牧師さんにお会いになった事が、もちろんそれまでもみなさん親切にしてくださったんですけどもみんな自分の生活が大変ですからね。それで本当は歌手になりたいとその頃は思ってらしたんでしょ?」
≪私は中学の頃に布施明さん、本当は今日はフセておこうと思ったんですけどもね≫
「ハハハ(笑)ダジャレもおっしゃるんですね。」
≪布施明さんに昨年のNHKの「家族で選ぶ日本の歌」と言うのでお会いしましてねその時に布施さんにもお礼を申し上げたんですけども中学生の時にね”霧の摩周湖”という歌が流行りましてねその歌の声帯模写を毎日やってたんですよ。ああいう風にうたって見たいなって思いまして、それが歌い手になりたいなってほのかな気持ちをもちました≫
「その声楽家になるのは大変でちゃんとした先生にも付かなくてはなんないし大変だと言う事で城間牧師のお導きで牧師さんになろうと」
≪本当は神学部に行ってから音楽学校に行きたかったんですよ。家庭的な状況とかいろいろな事がありましてその神学部の終わりの頃でしたかねイタリアからマリオデルモナコを育てたバランドーニ先生って言うねえボイストレーナーですよね。この先生にオーディションを薦められましてそれで神戸まで行ったんですよ。そこで先生の前でカーロミンを歌ったんですよ。で歌いましたらね、もちろん私はイタリア語ができませんのでね通訳の方がいらして歌いましたらね先生が君の声は日本人離れした声だとおっしゃるんですね。日本人には無いラテン的な明るい声だとおっしゃるんですね。明るい声で1人でも多くの人を明るく勇気付けるために私のところにレッスンにいらっしゃいとおっしゃったんですよ。≫
「マリオデルモナコというのは当時世界的なすごいテナーだったんですね。そうおっしゃってくださった。そうすると自分のお父様がラテン系でアメリカにいらっしゃったのに」
≪そしてそういわれまして自分の心の中にその言葉が響いてたんですね。私は人生は出会いで決まるといつも講演でお話させていただいてるんですけどもいい出会いを持つということの大切さをつくづくその時に思いましたね。暖かい励ましの言葉と言うのは人を活かす言葉だなと思いましたね。(※新垣さんのCDを出す)これを黒柳さんのためにお持ちしました。≫
「サトウキビ畑と」
≪これ1つはシングルです。≫
「じゃあこのサトウキビ畑せっかくですから歌っていただく事にします。新垣勉さんがどんなすばらしい声を持つ方かそして今度はこの歌を聴きになってどれだけの方が勇気付けられてるかと思いますけどもコマーシャルの間に用意していただきますけどもよろしいですか」
≪はい≫
黒柳「それではお待ちかねの新垣勉さんに歌っていただきますけどもこれは沖縄のサトウキビ畑アメリカとの地上戦で亡くなった方たちの骨が埋まっているというのを聞いてお作りになった方がいらっしゃって作った歌なんです。この中に”知らないはずの父の手に抱かれた夢を見た”という歌詞があるんですけどもそういうところが今日の歌っていただけるお客様の心の中から出てくるものだと思いますがどうぞみなさんお聞きください」
新垣≪~「さとうきび畑」を歌われています~≫
~大拍手~
黒柳「どうもありがとうございました。本当に素晴らしい歌でよかったです(拍手)。あの目がご不自由だから、歌がお上手だってご紹介する必要は無いんです。歌がお上手なんです。いろいろな事があってこの歌をお歌いになる事になったという事のために色々なことをお話してるんですけども本当に素晴らしくて神様はどうしてこんなにすばらしい声を与えになったんだろうってつくづく思いますね。確かに声の先生がラテン系のいい声してるってこれでみんなの心を慰めるようにしたらいいって。それでお父様の事を許すっていう事があったんですか?」
新垣≪やっぱり非常にコンプレックスと言うのがありましたね。憎しみを変えるには時間がかかりますよね。でもバランドーニ先生の言葉をきっかけにですね、いろんな病気やいろんなことを通してですね私は思ったんですね自分の体の中にはですねラテンの血が流れている。そして沖縄の血が流れている。そしていつの日か父に会えたら父の前で歌ってみたいと。自分の中にラテンの血があると思った時に自分の中にあった憎しみとか恨みとかがですね理屈じゃないんですよね知的には許してるつもりだったんですけどね腹のそこから許す。そして許すどころか感謝をするという気持ちにさせていただいた時にですね、このことでいつか父に会ってまあ生きてるかどうかは分からないけども父の前で歌いたいと。そして僕はもう恨んでないんだと。そういう風に行ってあげたいと。そして対したことはできないんだけども1人でもこの歌を聴いて元気をもらったと言う人がいるというだけで自分は生きててうれしいんだと父の前で話をしたいなあという気持ちを持ってるんですけどねえ≫
「新垣さんはそのご福岡の大学の神学部にいかれまして副牧師におなりになってそのあと武蔵野音大にいらっしゃいまして4年間音楽大学にいらっしゃってそのあと大学院にもいかれまして歌の勉強もされまして全部終って卒業した時には40歳で」
≪一番勉強のできが悪いんですけども名前は勉強の勉なんでせめて名前負けをしないようにと≫
「それでその後に病気をなさって狭心症をなさったです。もうよくお成りになったんですけどもその時入院してらしゃる時に産婆さんの事もお母さまの事もお父様の事は今おっしゃいましたけどもみんなのことを許す気持ちになった」
≪そうですね。本当に自然体で生きるといいましょうかね、あるがままの自分で生きるという気持ちになったんですね。≫
黒柳「お母さまはこれだけ素晴らしい歌手になったら喜んでいらっしゃるでしょう?」
新垣≪ありがたいことにとても喜んでくれます。≫
「お母様は再婚なされてそこにお子さんもいらっしゃるので弟や妹ができて仲良しになって」
≪そうですねありがたいことです≫
「それだけの憎しみを持っていても乗り越えていけるのだということを今日は私達は知ったわけなんですけども、なんと言っても声が素晴らしいので声を大事にしてたくさんの方々を世界中の方々をできたら本当に力づけてくださったらと思います本当にありがとうございました」
≪ありがとうございました≫
「どうもありがとうございました(拍手)」