2002年7月15日
黒柳「今日から3日間お送りする追悼の方ですが菊地あき子さん。歌手でいらっしゃいましてレコーディングなさいました曲は700曲以上です。中でも「星の流れに」、「岸壁の母」が大ヒットしました。その菊地あき子さんのお孫さんが音楽家でいらっしゃるんですが浜崎あゆみさんやエブリリトルシングのみなさんに曲を提供されているような音楽家で日本レコード大賞作曲賞も受賞されている菊地カズヒトさんです。かずひとさんはあき子さんがお亡くなりになられましたときに棺のところで手を合わせて”おばあちゃんを追い抜くような音楽家になります”と誓ったそうです。喜んでらっしゃると思うんですが、あれだけの歌手なのにとてもフランクなお優しい方でした。それでは菊地あき子さんからどうぞ」
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1988年11月25日放送
黒柳「戦後最大の大ヒット。リンゴの歌もそうですけどもリンゴの歌というのは明るいね」
菊地≪可愛い歌≫
「闇市なんかであの歌がながれてすさんだみんなの心が軽くなって。でも”星の流れに”は全然違った曲で」
≪悲しい歌で。怒ってるみたいで、なんか訴えてるみたいで。≫
「でもそういう曲をね22,3のお嬢さんが歌詞をおもらいになった時にねどんなだったですか?」
≪あまり抵抗無く、夜の女の人の歌だとかね思わなかったの≫
「こんな女に誰がしたっていう曲だと思ったら題は”星の流れに”言うんだそうだけども元々は」
≪”こんな女に誰がした”っていう題名だったの。そしたら進駐軍の法からそういう題はダメだと≫
「生々しすぎるって。」
≪昭和22年に”星の流れに”に変えて出たんです。≫
「じゃあレコーディングなさったのは戦争が終った次の年ぐらいになりますか。戦争反対というか本当は戦争をしたくなかったのにっていう女の人の気持ちの歌」
≪怒って歌う歌≫
「ただ初めはああいうような曲ではなくてブギみたいな曲だったんですって?」
≪そう。だからもっと弾んじゃって。なんだかはしゃいで歌ってるみたいな感じがしたのね。ブルースで歌いたくてアレンジをブルースに変えて。≫
「これは利根一郎さん作曲、清水ミノルさんが作詞。14歳から歌ってらっしゃるから発言権があってこれはブギじゃなくてブルースで歌いたいというと変えてくださるという。そしたら大ヒットして、街の女の火が”ありがとう”って。きっと代弁して歌ってくださってると思ったんでしょうね。」
≪そうです≫
「大ヒットの”星の流れに”が出て、兵隊さんが復員してくる頃に”岸壁の母”といういつまでもあそこのところにたっていてね。最近亡くなりになられましたお母様はずっと待ってらしたのね。実際にそのお母さんにもお会いになって話をお聞きになったんですって?」
≪私が新しいレコードを出すとねお母さんは飛行機に乗った事が無いから一緒にいくって≫
「そして中国残留日本人孤児の方が日本にいらっしゃる時に”絆”という歌を歌ってらっしゃるんですが。突然話は変わりますが赤ちゃんができた時にご主人が出征になっちゃうとか。菊地さんにとっても戦争って言うのは本当に大きい出来事が次々とある」
≪そうですね≫
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黒柳「次はボードビリアンの坊屋三郎さんです。とってもいつもしゃれた方でした。坊屋さんは(柳家)小さんさんおお葬式のほんの斜め前に座ってらして私を見て(※柳家小さんさんも今年亡くなられました。黒柳さんは坊屋さんとお葬式で会われた)「おう!」なんておっしゃってたんですけどもそれから数日後にお亡くなりになったんです。それも清川虹子さんのお通夜にいらっしゃるといてお家をおでになってその途中でお倒れになってお亡くなりになったということなんですけども。お若いときは大変なボードビリアンであきれたボーイズというのをやってらしたんです。そういう話もしてくださったんですが徹子の部屋に来てくださった時は後年ギャンブルで大借金をされてそれの返済が大変だということも珍しくお話して下さってます。ではご覧下さい坊屋三郎さんです」
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1980年2月14日
黒柳「今楽器を触ってらしたんですけどもこれが助けてくださったんですよって不遇時代におっしゃってましたけども」
坊屋≪何で食ってやろうかという時にねつまりキャバレーやクラブで稼ぐしかしょうがないので全国をこれと一緒に回ったんですよ≫
「映画に何百本とお出になって」
≪100本程度ですよ≫
「大変な収入があった時にギャンブルにお使いになって。競馬競輪に」
≪競馬やりました。競輪はあまり好きじゃないから。競馬には凝りましたね。≫
「初めから予想はされてました?キャバレーをお歩きになることは」
≪大変だって言う事が初めはわかんなかったですけども段々分かってきましたよ。売るもの買うものっていうスタイルですねあくまでも。こっち(客)はおまえを買ってるんだから上手くやれよという風にね。司会者も坊屋三郎のことは知らないんですよ。(坊屋さんの)略歴をおっしゃって下さいって言われてね≫
「昔すごい人気だったんですってね”あきれたぼういず”って。今でいうと当てはまらないくらいの」
≪ねえ当てはまらない位って言うのが正しいかもしれませんねえ。かつてのロックの連中・・・・あれ以上だったなあ。しゃれてましてギャグが非常に新しく新鮮であるという。浅草の花月劇場吉本ショーというところで出てきたんです。≫
「楽器をおやりになりながら」
≪いろんな風刺をきかしたりね。≫
「そしてお持ちの楽器も」
≪映画も白黒時代にねアメリカの黒人のデキシーランドの古いニュースをみましてそれからヒントを得て作ったんです。≫
「アメリカにもいらした事があるんですか?」
≪はい昭和26年ですかホノルルにコッキョウ青年会というのがありましてこれの招聘で行きました時にこれをもっていきました≫
「坊屋三郎さんという大変な人気があった方がキャバレーや何かを周ってねえつらい思いを」
≪つらいというか芸能界とまた違うところなんですね。不思議なところでね。煙草は吸うわ、酒はあるわ、女は居るわのところでやるんですからねえ≫
「坊屋さんは打ちのめされちゃう方じゃないんですか?」
≪割合そういう苦しさをなんとも思わないほうですね。苦にしないというと嘘になるけどもあまり苦にしないで必ずいいことがあると信じてましたね。≫
1994年2月22日放送
黒柳「何しろ昭和13年にデビュー版として収録されたものが残っていたということでちょっとその一部なんですけども聞かせていただきたいと思います。~再生~ああそれにしても56年前の皆さんがおやりになったものがよく残ってましたね」
坊屋≪そうですね。出していただいたって言う事に我々は感謝してます。これは非常に文化的な仕事ではないかと思う≫
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黒柳「今日の最後は元NHKのアナウンサーで高橋圭三さんです。当時アナウンサーの方が自分の言葉で話すということは珍しかったんですがテレビが始まった当時ご自分の言葉で話す司会者として本当に有名になった方です。東北出身ということでそれを隠すためにずいぶんご苦労もあったそうですけども「どうも、どうも圭三です」という言葉で皆さんに親しく大変な人気の方になりました。高橋敬三さんです」
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1989年11月20日放送
黒柳「」
高橋≪岩手県で日本放送協会(NHK)なんてのは当時まったく縁の無いところですからね。どうして神様のいいいたずらっていうかばれないで受かっちゃったて言うねえ。岩手弁がばれないでね≫
「当時は今では考えられませんけども3代続いた江戸っ子ぐらいしかNHKのアナウンサーには受からないとか、なまりがあるとすぐに地方に飛ばされちゃったりして」
≪アクセントがちょっとでもおかしければダメなわけ。”い”と”え”がどちらか分からないしね(笑)。飛行機なんて東北では子供はいわないからね”しこうち”だからね≫
「”ひこうき”ていうのを岩手県では”しこうち”。しこうち飛んでるっていう感じですか?」
≪しこうち飛んできたって言うんだからね。それがアナウンサーの試験に受かるわけが無い≫
「でもよく試験に受けてみようと思いになりましたね?」
≪あさはか。うかつなんだな僕は何にもわかんない。気分良さそうだなって思ったの。≫
「それはラジオでアナウンサーというものを聞いてらして」
≪そうそうそう。試験の時にはねえラジオのアナウンサーの調子があるでしょ。熱心に聞いたわけじゃなくて残っている感じで、その感じで試験を受けちゃったんですよ。和田シンケンさんがお分かりにならなかったんでしょうね試験の間≫
「当時アナウンサーの神様のような方ですよねえ。その方が気が付かなかった」
≪気が付かなかった。そしてアナウンサーだからあまり書類(履歴書)を見ないじゃないですか。そして受かって和田さんがアナウンサー教室の校長になった。そこで履歴書を見るわけですよね。これは何屋の子だとか何男坊だとか。見るわけでしょ。そして見たら僕が岩手県とあるでしょ。真っ青になったそうだ。≫
「言葉1つ1つじゃなくて全体の波が違うんですね(発音が違う。標準語と東北弁)」
≪違うでしょ。イントネーションが違うわけでしょ。アクセントが違って2音節の場合には”そらが、きれい”というわけだ。(太字の部分を強く発音)東北弁とは反対になってるわけですよ。傾向があるわけですよ。≫
「ずいぶん1人でトイレに入ってアクセント辞典で格闘なさったとか聞いたけども」
≪やっぱり大人の中で”カキクケキコキコ”なんてできないでしょ。≫
「今の子供たちはこれだけテレビで情報が入ってるでしょ。どこへいったってどこの人かわからないというぐらいしゃべれるけどもラジオも無い家もあった時代でしょ。それがNHKの和田シンケイさんも騙して入っちゃうっていうねえ」
≪騙してねえ(笑)≫
「耳が良くていらしたんでしょうね」
≪耳っていうのはありますよね。耳がよくなければ矯正もできなかったかもしれない。≫
「とにかく誇りだと思うんです。3代江戸っ子が続かないアナウンサーにはなれないという時代になったんだから。なったのが昭和17年で、戦争でまあ。空襲で」
≪軍管区情報ですよね。≫
「今思い出したわ!ラジオから聞こえたのは圭三さんの声なんですねえ。」
≪すぐB29が来ると夜中全部やらなければいけないでしょ。毎日司令部に行って。私は北部軍管区情報というところに居ましてね。”敵B29およそ30機きんかさんほきょう北上中なり”って。”厳重なる警戒を要す”とこれなんだなあ≫
「まあ不愉快でたまりませんけども。」
≪それでみなさん防空壕に逃げたわけですから≫
「これで防空壕に入ったわけですから」
≪それであなたが現在あるんで≫
「今思うとあの声は圭三さんの声だったんですね」
≪も聞こえたでしょうね。何人かいましたから≫
「蘇ってきますよねあの時の放送の声が。じゃあアナウンサーにおなりになっても戦争が終るまではずっとそういうのをやってらしたんですね。」
≪仕方が無いでしょ。でも戦争がすんだ瞬間にガラッと変わっちゃった。大衆化、民衆化、民主化≫
「そのあとテレビになったでしょ」
≪これがもう大変。徳川無声さんには脅かされますしね。≫
「なんといわれたんですか?」
≪”圭三さんあなたは失業しますよ”と言われたんです。すごみがあるわけ。”失業”というわけですよ。「自分は活動の弁士をやっていた。昭和7年に”マダムと女房”というトーキーがでやがった」というわけですよ。途端に弁士が要らなくなった。オオツジシロウさんから松井スイセイさんからみんな失業しちゃった。自分を含めて。だからテレビが出てくればご覧の通りでアナウンサーはいらない。あなた方は要らないと。悩みましたよ。えらい事になったと思った(笑)≫
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黒柳「本当にいつもお元気な方でした。「あなた失業しますよ」と徳川無声さんという方にいわれてそれをばねに「どうも、どうも圭三です」とお名前を本当に不朽のものとなさいました。”私の秘密”という番組でクイズの番組でした。そこにある秘密を持った素人の方がでてらして、そこに当時のインテリの審査員がズラッと並んでらしてそのインテリの審査員と素人の間に圭三さんがお入りになって実にたくみに面白い番組にお見せになって本当にテレビって面白いんだってみんなに思わせた高橋圭三さんの功績は本当に大きかったです。そしてフリーにおなりになってフリーになっても成功するというのをお見せになった方です。私が昭和33年に最年少の紅白の司会者をさせていただいたときに白組の司会が高橋圭三さんで何もわからない私を本当に親切にしてくださいました。圭三さんが亡くなった時に息子さんがおっしゃってたんですけども宮田輝さんという圭三さんのライバルと呼ばれた方がお亡くなりになった時に「どうかこれからストップウォッチのことは忘れて安らかに寝てください」とおっしゃったそうですけどもそれと同じことを息子さんは圭三さんにおっしゃったそうです。明日は伊藤俊人さん、室田日出男さん、山本直純さんの3人を追悼としてお送りいたします。どうも本当にありがとうございます。どうも明日もご覧いただけたらと思います」