2002年7月17日
黒柳「まず村田英雄さんです。申し上げるまでもなく偉大な歌手でした。ご両親が浪曲師で5歳の時から村田英雄さんも浪曲師として舞台を踏んでいらっしゃいました。ここにいらっしゃった時はそのお話と突然起こったムッチーブームというのがございました。あの方は面白いといういことで大体20年ぐらい前のことでございますがそのお話をしてくださるところから見ていただきたいと思います」
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1978年9月25日放送
黒柳「当時文芸浪曲では酒井雲先生という方は本当に雲の上の方で当時お弟子さんが300人もいたそうですけども」
村田≪ええもうすごかったですね≫
「その中で当時10歳のあなたがお入りになってどんなものですか?」
≪64番目の弟子なんです。兄弟子とかは全部大きいでしょ。とにかくこずかれてこずかれて、先生に「坊主、坊主」って可愛がられるものですから兄弟子とかにねたみそねみが多くてですね。それでとにかく修行の3年間は苦しいもので、とにかくももひきなんかは履かせてくれないし≫
「はだしで」
≪絣の着物をきまして先生に付いてたんですが「今に見てやがれ、足袋位履いてやるからな」って(笑)。その当時は足袋もはかしてくれませんし。便所掃除やったり風呂掃除やったりしてこんなにきついものかなって。≫
「それでも浪曲はお好きだったんですか?」
≪好きだったんです。とにかくなんとしても自分というものを見つけ出さないといけない。また影で母が言ってたんですけどもいくら上手くても物真似じゃだめだ。ですから自分のものを握らないと、おまえの芸を見つけなさいと言われたことがありますけどね。≫
「それは大変な事ですよね。個性って言う事ですよね」
≪ですから今の歌謡曲みたいにレコードに針を落としてシールをみないで「ああ!!これは誰の曲だ」といわれなくてはいけない。≫
1982年4月28日放送
黒柳「ご自分ではムッチーと呼ばれてムッチーブームと言うのはどうなんですか?」
村田≪初めは抵抗というよりも我々の言葉で言う恥ずかしさというねえ。どうして子供たちに言われるんだろうとねえ。≫
「それの1部を紹介するといろんなのがあるんでしょうけどもビートたけしさんがお作りになったのと一般の人がお作りになったのがあるんですって?」
≪それもあるんですね。子供たちがね≫
「例えばこういうのがあるんです”「おい村田だ。ボルトだ。」店員が、え!といったら「まだ水商売浅いな。ボルトだよボルト」”ボトルの事とかね。それから村田先生は喫茶店で運ばれて来たコーヒーに砂糖とミルクをバンバン入れてそして一言こういった「やっぱりコーヒーはブラックに限る」(村田・黒柳笑)。それからディレクターから番組の詳細な説明を受けた村田先生はムッとした顔で「バカヤロウ俺は芸歴何十年だぞ。ブスの素人じゃないんだぞ」。こういうことをみんながどんどん局に送り(笑)ビートたけしさんが紹介なさってバンバンおっしゃって知らないところである日ムッチーブームが起きてたと(笑)」
≪ですから私はたけしにも言ったんですけども自分が台本を書いてどうやろうかというんじゃなくて、子供さんたちがハガキに書いてくるものが放送されるんであればこれは許せるんじゃないかと。ですから台本を書く人が必ずいると思うんですけども台本書きやさんがこれを書いたんじゃ僕は許さないと。ずーと募集してじゃあ村田さんの事を書こうじゃないかと。あいつは頭でっかちだとか、脚が短いとか言われても私はかまわないと≫
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黒柳「先ほどの楽しいお話から15年経って村田英雄さんは糖尿病から片足を切断という事になりました。それでも絶対歌うんだという情熱を持って見事に復帰なさいました。ちょうど≪でてくださったのは舞台で復帰して歌ってらした頃です」
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1997年2月10日放送
黒柳「もう決まってはいてもご自分のおみ足を切らなければいけないというのはずいぶんな苦しみがあったと思うんですね」
村田≪この決断というのは男というのは強いようで弱いですけども自分の足を切るといわれたとき本当に頭の中が真っ白でした。どう考えてどうしたらいいだろう。自分が大衆の前にたって唄が歌えるんだろうか。それが一番心配だったですね≫
「膝まである?」
≪ちょうどこっから12センチですね(膝から下)。(義足をはめて脚を曲げるリハビリについて)リハビリが初め曲がらなかったんです。伸ばすのも大変だったんです。それを毎日毎日、そして朝起きて2キロのバーベルをあげてこれを30分くらいやる。そして起き上がってギブスをはめてそして歩くんですね手すりをつかみながら。これを繰り返すんですね。フーと息を吐くんですねこれが自分の歩いた感覚の喜び。これならのりきれるかな≫
「ちょっと話が変わって恐縮なんですが頭をそってらっしゃるのはいつ頃から?」
≪これは右足を切断する時に何か切断した後頭の中が真っ白になっちゃって60何年間私を支えてきてくれた足を切る。これは何かをやらなければならない。何か自分で考えなければならない。よし!!頭の毛から切っちゃおう。あした手術台に上がらなければならない。それで決断したんです。頭は生まれたままの姿になって右足を切断する。(切断後の舞台で)司会者がまくが相手村田英雄と紹介されたときにみんなは車イスでステッキをついてそんなものを付いてたんではお客様に申し訳ない。例え苦しくても苦しい顔をせずに私は元気になりましたっていう姿をお客様に見ていただくことが私達の使命ですから。でていたっ時に「え!!~」ってビックリされてありがたかったですね≫
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黒柳「まあこうやって見事にカムバックされてお歌いになっていたんですけども今見ていただいたのが村田英雄さんの最後の録画になってしまったんですけどもこの後両足切断という事になりましてその後は車イスでおでになって情熱を失わずにお歌いになったんです。そしてこういう体になって始めて歌える歌もあるとインタビューなどではおっしゃっていましたけども最後までお歌いになっておられました。ライバルといわれた三波春夫さんが去年お亡くなりになられました。本当に世の中を明るく私達に勇気をつけてくださったこのお2人の歌手がお亡くなりになったことは本当に寂しい事だと思っております。続いて清川虹子さんをお送りいたします。喜劇にてっしられてたかたなんですけども戦前・戦中とおして素晴らしい喜劇俳優の皆様と共演されています。エノケンさんロッパさん徳川無声さんエンタツさんアチャコさん金五郎さん。そして伴ジュンザブロウさんの女房役として大活躍をなさいました。今から20年前の事ですけどもお送りしたいと思います」
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1983年9月7日放送
黒柳「カンヌ映画祭の話ですけどねこの年になってこんなSEXシーンをやるとは思わなかったってさあっきおっしゃってたけども」
清川≪裏方さんと監督さんがどんなに苦心してねえ大変な映画でしたからねえうれしいわねえ。私も最初で最後のSEXシーンでしょ。ある新聞に字母観音のような顔をしてたって。その批評がとってもうれしかった≫
「カンヌの批評家たちはそこでお泣きになったんですって?」
≪日本の人は清川のおっぱいはどんなんだって興味本位で泣いてる人は少なかったんじゃないかな。カンヌでは泣いた人がいたってうれしかったわねえ≫
「日本では左トン平さんと清川さんはご存知なんでね」
≪暑苦しいんでね。私とトン平チャンの事忘れて見ると感動しますよね。あの場面は≫
「今年はカンヌ映画祭は男同士とか全体的にそういう映画が多かったんです。”楢山ブジコウ”ではいわゆる切羽詰ったところの男と女のそういうところが審査員の心を打ったみたいなところがあって。でもご自身だってそういうシーンをやるってことで決心だっていったでしょ?」
≪だから私前はり無しでやろうと思ったぐらいですもの。すっぽんぽんでやろうと思った。この年になって恥ずかしいものは何もない。でも恥ずかしかった。恥じらいが残ってるという事は私も女よ。がんばるわ!!まだまだ(笑)≫
「そうですよ。まだまだ一花ふた花咲かせて。今までもずいぶんお咲かせになったと思いますけども(清川笑)」
≪枯れてませんよ≫
1988年11月28日放送
黒柳「喜劇人協会の副会長でいらっしゃいまして最近俳優さんで集まっている芸団協というのがあるんですがそこから功労賞をもらいになった」
清川≪喜劇女優としてはじめてもらったの。≫
「それえがうれしい?」
≪うれしいですね。普通の女優役者としてもらうよりも喜劇女優としてね。私は喜劇をやってることによってね私の人生が明るくこられた。だから喜劇に対しては恩人ですよ。自分が選んだ道だけどね≫
「芸術団体協議会というところから功労賞、長年喜劇を女性でやっていたというのでね。でも女性で喜劇をやっていると喜劇は悲劇よりも低いものと見られたり」
≪もう日本のはねえほうき振り上げたりおっかない女将さん役をやったりねなんかしてたからねずいぶん下に見られてましたね。だから子供の学校でおまえねえママがそういうことをして友達に言われないかって聞いたら「言わないよ」って。言われたけどもやっぱりねえギャラは少ないしねそういうところではずいぶん戦ったわ。でも喜劇は難しいのよ。難しい事がわかってほしい。本書く方も難しいのよ≫
「外国では喜劇を書く劇作家の人は大変な境遇ですものね」
≪ちょっと話し変えてもいい。戦後ねあれだけの喜劇が全盛でねテレビもないし日本は経済成長で世界で何番という事になったけども戦後すぐの娯楽も何にもない時代にいかに喜劇の人たちが1日の苦労を忘れさせたか。今の人たちはわすれっちゃってるのよ≫
「どうして自分の仕事にお金を使ってでもみんなを笑わせるかっていうことで本当にお金を使っちゃたんですものね」
≪エノケンさんなんか昔だからいつもピストルを持っていていつでも(自分の頭に当てて)引き金を引きたかったって痛くてダッソで。それでも舞台に出ると人を笑わせてたんですもの。私たまんないわ≫
1993年12月6日放送
黒柳「”夕鶴”の山本やすえさんがお亡くなりになった。あの方のおっしゃったことは?」
清川≪私ねえいつもねえ清川さん年を隠すんですかって。あなたの中のいいミヤゲさんでもタンゲさんでもどうどうと自分お年をいいますよって。「待ってください」って言うからね「あの方たちはお芝居を若い娘の役をおやりにならない。」私は子供の役から娘の役からお芝居は喜劇でしょどんどんやると。その時に娘の役であんなに可愛い格好をしても「あいつはいくつだ」と夢を壊したくないからわざと歳を言わないんだと。そしたらやすえさんがその持論でもって堂々と(歳を)お書きになってたでしょ。だから役者には絶対に歳は追求なさらずに若いまんま見ていただきたいわ。≫
「びくりしました。”夕鶴”をつい最近までやってらしたんでしょ。ご覧になったんでしょ?」
≪1000回以上の時にみました。下駄の1本脚で鶴のように立って。もう80過ぎてますよ90近いですよ。≫
「みんなには何歳か分からなかったのね。私もお会いした時にはそんな風だとは思いませんでしたけどもヘーと思って。私80ぐらいと思ってたんですよ。昔から計算して」
≪私も昔から見て72,3かなっと思ってたのとんでもない90近かったのねえ≫
「それでも1本脚でお立ちになってねえ」
≪立派。でも見といてよかったなあって≫
「だけどそれもあの方がおっしゃるように娘の夕鶴をやる時に「あれは90なんだ。90なんだ」ってみんなが言ったらね結局はお出来にならなかったかもしれない」
≪そうよ。歳なんか全然関係ないもの。私なんかずいぶん知れちゃって損しちゃったけどね≫
2000年5月11日放送
黒柳「」
清川≪私3つ隠してたのよ≫
「少なく?多く?」
≪もちろん少なくよ。≫
「大橋巨泉さんみたいに生意気な人は多くいってる人もいるから。」
≪私は本当はねずみ(どし)なのよ。ところが内のマネージャーが清川さんはねずみ似合わないって。寅年だって(笑)。寅年にするとネ牛寅で3つしか隠せないのよ。≫
「若くおっしゃってたの。でもいいじゃありませんか。もう言わない事にしたっておっしゃったから」
≪だけど口惜しい事にドラマの人が決まるでしょ。カメラマン、録音部、照明部みんなが私を見んのよ。この歳で大丈夫かなあの役はって。≫
「ああ役を決める時にみんなが」
≪ゾロゾロくんの。≫
「ちゃとセリフを言えるかどうかって。清川虹子を知らないからカメラの人まで来ちゃう」
≪で私がパパパというでしょ、そしたら大丈夫だっていうんで役が来るのよ≫
「清川さん手て見当がつかないのかしら」
≪でもねえ私は何にもできないのよ他は。お料理もできなければ男性もダメよね。夫婦になろうかというのもダメでしょ。何すんのよ役者しかできないでしょ。≫
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黒柳「本当に楽しい方でいらっしゃいました。あの前のほうですけども外国では喜劇の劇作家は大変ですものねと私が申してますのは大変に厚く遇されてるということでフランスでは今は変わりましたが一番高い紙幣の顔はモリエールという喜劇作家のものでした。外国では喜劇は上等なものと言われてる時代にやはり皆さんと戦ってらっしゃたのは大変だと思いますけども。なんせ古い方で清川さんは川上サダ奴という方の劇団で勉強なさったのが初めだといいますからずいぶん長くやってらっしゃたんです。このあとみなさんも覚えてらっしゃると思いますが大河ドラマの如月という役、これは京都の六波羅探題を管理するという不思議な老女の役でいらっしゃいましてセリフもたくさんあったんですが90歳近くでそれをお元気におやりになって、ビックリしたんですが去年の11月に日韓合作映画で韓国ロケがありまして在日韓国人の母親の役をおやりになったんですね。この秋に公開されるんですがまだ公開されておりません。”夜を賭けて”というのが最後(の作品)になりました。いかにも清川さんらしいのはなくなってずいぶんたってこの秋に公開される映画でそこで元気な清川さんがおでになって皆さんに見てもらえるというのは清川さんらしくて清川さんはうれしかったんじゃないかと思いますが。映画で共演した時に清川さんのことをマーロン・ブランドが大好きでプライベートの電話番号を下さったそうですけども「かけてもいいけども英語ができないから何ていったらいいかわからないじゃないの」ってその時は笑わせてもらったんですけども後でわかったんですがその時は息子さんが危篤状態だったんですね。そういう時でも私達を笑わせてくださって微塵もそういうところを見せなかったんですけどもそういうことでした。今年ここに出てくださって亡くなった方々の追悼を3日間お送り申し上げましたけども本当に深く悲しんでおります。ご家族の皆さんはお元気でお過ごしでしょうか。本当にみなさん心の中を私に話してくださって心から感謝申し上げております。本当にみなさまありがとうございました。ご冥福心からお祈り申し上げとります」