2002年7月29日
黒柳「五木ひろしさんですどうもしばらくでございました。もう昔カシミアをお召しになってることで有名でベストテンで「今日もカシミヤ?」って言ったら夏は着ないって言われて。これは麻ですって。でも大変だったんですよねあの頃毎週カシミヤを着なくてはならなくて」
五木≪黒柳さん必ず触られてこれはカシミヤですかって聞かれたんでこれは毎週着なくてはいけないなって思って毎週作って出てましたね≫
「大変でしたね」
≪当時は高かったですからね≫
「あの時は連続で」
≪当時は36週続けて出たんですよ。≫
「ベストテンに36週。それえ記録じゃありません?」
≪当時は記録でした。その後誰かやぶったみたいですけども≫
「1位から10位までの間に36週という事は1年のうちの大部分はベストテンに(出場)」
≪3曲でずっとつながりましたね。≫
「なんとなんとなんと」
≪”おまえと2人”と”幸探して”と”2人に夜明け”。うまいこと幸せ3部作が続いて≫
「東京湾のうき状態というのがありましたが」
≪あれは”長良川演歌”です≫
「あれは長かったですよね。」
≪あれは9位になったり11位になったり≫
「東京湾の浮き状態って。出たり入ったり出たり入ったり」
≪結局ベストテンの総トータルの1位でしたよ≫
「そうでしたよね。」
≪それで長良川のほとりに歌碑を作ったんですよ。≫
「あの時中継しませんでしたか?」
≪中継で一番覚えているのは故郷の我が家の実家の前で。あの実家が新しく作ってですね実家の前から中継したのが一番覚えていますね≫
「覚えています。玄関がすごく綺麗で」
≪それで黒柳さんが「お寺ですか?」って言われて(笑)≫
「失礼いたしました。そんな風に見えたもんですからね。(笑)なにを言ってるんでしょうね。でも毎週いらっしゃる度に最初にふとこれは何の布って言ったら「カシミヤです」って、それで触って次の週から「これもカシミヤって」。考えてみたら夏も通して36週ですから四季の内のほとんどですから大変でしたね」
≪だからたまに中継がありましたから≫
「そこんとこは触んないからね」
≪楽でした(笑)≫
「ですから今日も小学生じゃないんだけどもお会いしたら「カシミヤ?」って。であなたは五木さんですから”5”の数字がお好きで来年はすごくいいんですって?」
≪来年3月で55歳になるんですよ。それで平成15年ですから5というのがラッキーナンバーと同時に15という数字もラッキーナンバーなんですよ。最初に歌手になるときのコンクールが第15回だったんですよ≫
「本当(笑)」
≪昭和39年ですけどもその後は中々上手くいかないで≫
「そのあとご苦労なさって」
≪そのあと五木になって(※芸名を変更された)いただいた”夜空”でいただいたレコード大賞が15回だったんですよ。≫
「ずいぶん偶然ですね」
≪そのあと歌謡大賞というのができたんですけども”長良川演歌”でとったんですけどもその時も15回だったんですよ。そういうことで15というのはラッキーナンバーだなと思っていたら来年は平成15年でなおかつ55歳。来年はがんばろうと≫
「あなたは5がお好きだったからお子さんも5人?って」
≪家族あわせて5人です≫
「お子さん3人に夫婦2人。今年ももちろんですけども来年にかけてるって」
≪そうですね。まあ偶然にもそういう思いでいたらレコード会社を自分で作って≫
「それも5というのが入ってるんですって」
≪ファイブズ・エンタテイメント。それを今年の春にスタートさせまして今まで以上にリスクというのは大変ですけども≫
「今まではレコードがうれないとレコード会社が悪いんじゃないかとか」
≪まあどっちかというと責任の分担というのがありますから≫
「今度は」
≪自分の責任ですから≫
「ご自分のお歌いになったものが自分の会社からでるわけ」
≪最終的な販売はキングレコードさんにやっていただくんですけども販売にいたるまでは自分の会社でやるという。≫
「でも考えてみれば31回連続で紅白歌合戦に出場という事ですからすごい事ですよね。」
≪最初に出た頃は想像もしてませんでしたね。やっと出れたっていう思いでしたからね。その時も5がラッキーナンバーだったんで5年連続は出たいなとかそういう夢は持ってましたね。それがいつのまにか30年越えたということで幸せですね≫
「それにきれいな奥様をもらいになってお子さんも生まれてそれで3人いて上の2人が男の子で3人目が可愛く女の子がポンと。可愛いでしょ?」
≪そうですね女の子がいると違いますね≫
「お母様似だったら可愛いわよね。どっちに?」
≪一応両方とってます(笑)。≫
「一応奥様は私の女学校のうんと後輩なものですからちょっと同窓会でお会いしたものですから」
≪黒柳さんによろしくという事で。≫
「さてそんあ楽しいおはなしの途中ですがお母様が。まだ(お亡くなりになって)2ヶ月ぐらいしか経ってないのですが」
≪5月31日に他界いたしました≫
「あなたの最愛のお母様ですからどんあにおつらかったと思いますけども。どうですか?」
≪そうですね1年位前からちょっと何となく心配してたんです。≫
「一緒には住んでなかったんですね」
≪姉がおりますもので姉たちと一緒に福井の実家におりまして。3年程前から少しすることもないしそういうことから痴呆症が出てきましたので家でいるよりもみんなで楽しく話しできるような施設が無いかなって思いましてたまたまいい所がありましてそこに行ったり、調子にいいときには家に帰ってきたりというのをやってたんですが。段々からだが弱っていくというか元々体が大きく無いものですから食べませんし小食ですし運動もしませんでしたし。走行してるうちに衰弱していったんですね。もういつごろまでということもお医者さんから言われてましてそれなりの覚悟はしてたんですけども。でも見舞いに行ったりしててもまだまだ大丈夫だと思ってたんですがそれが5月31日に(お亡くなりになった)。姉たちに聞いたら眠るようにして。お袋にしてみれば眠っているうちにそのままいってしまった。死ぬという思いは全く無くそのまま眠りに入ったらそれで逝ってしまったという感じ。顔を見ましても安らかな顔をしてましたし、今までに無い綺麗な顔をしてましたしもうしわくちゃな顔でしたけどもどういうわけかしわもなくなるぐらい本当に穏やかな綺麗な顔をしてましたのでこれはよかったなと思って。でも僕は6月が舞台でしたものですから31日というのはちょうど通し稽古と最中だたんですよ。それで名古屋でしたので名古屋と福井というのは一番近いんですよ。だからあれが東京だったりもっと遠いところだったら帰れませんでしたし、一番近いところを選んでくれて僕にちゃんとこれるような時に最後の最後まで考えてくれてたのかなって≫
「それもあなたが一番好きな5月31日ってぎりぎり」
≪5月31日っていうのは僕らの結婚記念日なんですよ。10月5日に入籍したんですけどもちょっと延ばして翌年の5月31日に披露宴をあげたんですけども。だから女房と話したんですけどもこの結婚記念日はお袋の命日にしようと。我々の結婚記念日は10月5日にあるからと。ただまあ初日を迎えた時に告別式だったものですからお通夜には帰れたんですけども。舞台で送る事になったということが≫
「でもお客様はみなさまご存知ですから。お母様が亡くなったということがねえ。まあ何日にお葬式というのはご存じなくてもねえ。その時に「お袋の子守唄」は歌わないことにしたってあれは本当なんですか?」
≪ええ、あのちょうど前の年に1回お袋のことを思う歌を歌ってみたいなって思って≫
「それまでは無かったんですかね」
≪アルバムとかではあったんですけどもつんくに歌を作ってもらうときにまあ彼らの年代の世代の人にも分かってもらえる母親というものであり、もちろん僕ら世代のお袋でもありそういう歌を作ってほしいという事でかれと色々と詩についてディスカッションしてそれで「お袋の子守うた」というのが出来上がって。ま、最近ずっと歌っていたんですけども、それが最後にお袋に渡した最後のCDです≫
「お母様お喜びになった?」
≪ええ。それでただ歌の内容がお袋に感謝するという気持ちと長生きしてほしいという気持ちが入ってましたのでお袋が逝ってしまった瞬間この歌は歌えないと。それでお棺の中にそのCDを入れてその歌ともお別れしたと。お墓もこっち(東京)に持ってきてこっちに作ろうと思ったんですよ。でも姉が言うにはもし自分が死んだら葬式はかならず田舎で出してほしいと。お墓も自分の先祖のお墓に入れてほしいという遺言に近いものがありましたのでこないだ49日に田舎に帰りまして法要をしましてそれでお墓に納めましてこれで良かったなっていいながら帰ってきたんですけども≫
黒柳「さっき小柄のお母様とおっしゃったけどもその小柄のお母様が肉体労働をしてあなたのことを特にね育ててくれたっておっしゃいましたよね。」
五木≪歌を好きになったのが親父の影響で親父が歌が好きで家の中でレコードをかけたりしてそれで好きになったんですね。歌手になりたいなっと子供ながらに思ってまして親父も仲間を集めては僕を連れて行ってそこで歌わせたりして≫
「そんなことがあったんですか」
≪本当に歌手になりたいと強く思うようになったのは今度は逆に親父が出て行ってからなんですよ。ちょうど小学校5年の時に出ていきまして≫
「その時も悲しかったでしょう?」
≪ええしかも僕の頭をなでて「元気でな」と言って出て行ったんですよ。その時僕しか家にいなかったものですから≫
「お兄様もお姉さまも大きかったものですから。」
≪あれっとおもったんですけどもお袋が仕事から帰ってきて親父そう言って出て行ったよって。というのが別れだったんですね。それでお袋は良く働いてたんですけどもそれからいっそう働くようになって≫
「肉体労働ですか?」
≪畑とか田んぼやってたんですけどもいわゆる力仕事ですね男の人がするような。一生懸命お金を稼いで。4人兄弟で一番下なんですけども僕が一番近くで見てたんですね。それで僕自身もお袋の手伝いをしなくてはいけないという思いが自然と強くなって学校から帰ってくると風呂を沸かすとか炭をおこすとか自分でやって朝起きるとお袋は仕事に出かけていませんでしたから朝食が置いてあったものですからそれを自分で食べて学校に行くと。その歌手を志してましたけども歌手になってお袋を楽にさせてやりたいという思いがドンドン強くなって本当にプロの歌手の道を目指すようになる≫
「お母様を楽にさせてあげたいという気持ちが強かったですかね」
≪上手くいかない時代もそれがあったから止めれなかったんですよね。帰ったらお袋に心配かけることですし自分の思ったことが結局それで終ってしまいますしなんとかしてお袋を成功して・・・東京に呼びたいと。まあ歌手になるということと、がんばらしてもらったという事がすべてお袋へのそういう思いがありましたので。だから五木ひろしとして上手くいったときも東京へ呼んだときもそれまで何度も名前を変えたときも「今度は大丈夫だから」って安心させるような事をいうんですけども結局いつもだめになってしまって今度こそっていう時に東京に呼んで周りの状況を見て「カズオ今度はうまくいきそうやな」みたいにお袋も感じてくれて五木ひろし”横浜たそがれ”のスタートになって、それで僕の世話をするつもりで東京にきてくれて、そのままずっと一緒に暮らすようになってお袋おために家を建てて孝行したいとか全部その思いでやってこれました≫
※歌手として売れない時代も歌手を辞められなかった理由の1つにお母さんを楽にさせてあげたいという気持ちがあったのでやめなかった
「でもずいぶん親孝行してきましたね。あなたは足りないと思うかもしれないけども」
≪そうですね。だから目的というかそのために(※お母さんに孝行をしたい)という思いがあったからがんばれましたのでね。それはお袋がいたからこそ僕自身がんばってこれましたので感謝するというかそういう気持ちで一杯ですね≫
黒柳「あのお母様が無くなってからテレビやいろんなものでお母様の事をお聞きになった方はたくさんいらしたと思いますけども今までお話なさってなかったんですね」
五木≪あえてまあ取材とか雑誌とかこういう番組にしてもそうですけども語りませんでした。初めて黒柳さんですし、この番組を通していろいろと励ましの言葉もいただきましたしファンの皆さんもそうですけども番組を通しておれいを言いたいなって言う。気持ちを言わせていただきたいなって≫
「あなたにとって最愛のお母さんということはファンの皆様もご存知でしたしどんなにおつらいだろうとまあ良く分かってくださってると思いますけども。私もお母様の話を伺っていたので」
≪話をするとだめなんですよ≫
「寂しくなったりするのはこれから先だと思うんでがんばって。とつぜんですけども新しい会社をお作りになって自分の会社から最初に出す曲もお作りになってでるんでしょ?」
≪いやもう6月26日にでまして。阿久悠先生の詩に、船村徹先生の曲ではじめてお2人の作品をコンビというか歌わせていただいてるんですけども≫
「しかも傘の中じゃないんですよ”傘ん中”」
≪縁があったら傘の中。何かあたら傘の中にお入りというまたとっても暖かいという、いろんなことがあるけどもみんな縁があってそこのフレーズに惹かれまして。まあこれを第一弾で発売して今一生懸命がんばってます。≫
「落書きだって傘を書いて名前をかいたりしますからねえ」
≪この歳になっていろんな人の出会いがあってそのご縁というのを感じるんですね。で人間って1人で生きていけませんし若い頃はそういうことは意識しませんけども年齢を重ねていくとそれは親子であり兄弟であり友達でありまこういう仕事をしてますとスタッフ、ご縁かなと≫
「傘ん中という感じがありますよね」
≪はい≫
黒柳「さてお母さんの死にもめげずにがんないといけない五木さんなんですけども、なんでも一番下の女の子が成人式を迎えるのがずいぶん先のことなんですって?」
五木≪ハハハ(笑)今7才ですから13年後僕が70近くになる頃ですから(笑)。≫
「そんなになりますかね来年が55ですから。そうですか。でもそれが1つの励みになりますよね考えてみたら」
≪そうですね結婚は40でしたからけして早くは無かったですし、ちょど40代に入る頃から目的というか結婚して子供ができたという事でまた目標ができましたんで≫
「でもおかあさまに孫3人見せられたという事がね」
≪それは良かったと思います。≫
「いい息子だったですね。本当にお母さんのご冥福をお祈り申し上げますしねまたお元気でがんばってください」
≪がんばります≫
「お母さんのことも伺えて、お母様もどこかで見ていただいてると思いますけども。ありがとうございました」