2002年8月6日
黒柳「ノーベル賞作家でございますがついこないだフランス政府からレジオンドヌール勲章をもらいになった。その中でも最高の位のものをおもらいになったんでどうもおめでとうございます」
大江≪最高っていうんじゃないんですよ。フランスの友達からFAXが来て「君はいつ大臣になったのか?」とか「君は天皇家と関係があるのか?」とかが来ましたけどもレジオンドヌールは5段階あって一番上が首相とか国の元首にもらうのがあってそれに順ずるのが2つあります。それじゃないんです。私がもらったのは人民がもらう中でいい賞です。≫
「新聞には最高のって書いてあったんで最高のだなって思ってたんですけども。はじめシラクさんの核実験に反対してらっしゃたんで」
≪そうです私7年前にシラクさんが当選されてすぐに核実験をしました。それに対して私は反対しましてフランスで呼ばれている文学会をボイコットしました。ニューヨークで大きいテロがあって、アフガニスタンへの空爆がありました。アメリカが中心になってイギリスが協力して。それから核兵器のことを見てみますとアメリカはイギリスもそうですけども核兵器を実際に使えるものとしてちゃんと使えるように整備する。あたらしいプルトニウム爆弾も製造できるように進んでいて、私は核兵器が使われる恐れがあると思いますね。でも実際にヨーロッパを見てあのこのま前の核実験をした時も反対が強かったし、フランスは核兵器を使うという方向で考えてないと思います。ヨーロッパでフランスのはたす役割を期待しています。≫
「じゃあそこでレジオンドヌールをお受けになったというのに、大江さんはいちいち理由をお考えになってくんしょうをおもらいになったりする方なんですけどもでも本当におめでとうございました。賞をもらうとき日本語でもですけどもフランス語でもスピーチをなさいましてあれは珍しい事で・・・ああノーベル賞の時も」
≪英語で。僕は外国でやる時にねフランス語でやっても英語でやっても僕の四国のなまりが良く聞き取れるそうなんですよ。それで私の母なんかも非常に良く分かったと≫
「お母様が。」
≪あの授賞式の時も私の”光(大江さんの息子さんの名前。ひかりさん)”も一緒に行きまして黒柳さんに初めて・・2度目にお目にかかったんですか≫
「そうです。文通はちょっとしてるんですけども」
≪すぐに発見しましてね≫
「光さんが私を見て「ああ」といって立ち上がってね。私の方へ歩いてきてくださって私が「こんにちは」っていったら「こんにちは」っていってくださって。」
≪光は今年の正月に黒柳さんがおもらいになった賞についてお返しを言うようですけどもその賞について私ども家族はすごく喜んで、光はあの黒柳さんにお祝いの作曲をするというので作曲をしてその題名が”早口”という≫
「そうなんですってね。途中までになっていて続きはまた光から送りますていう風になっていたんですね。黒柳さんのしゃべり方はアデレトモデラートだったなっていう風に言ってらしてなんか終わりまで出来たんですって?」
≪あの今度お送りいたします≫
「個人で光さんから曲をもらった方はいないと思うんでうれしく思います」
≪彼の母親と黒柳さんだけだと思います。それでねその時に私は黒柳さんのお祝いの会があると思ったんです。そこへいって話すとまた大江が演説するってみんながいやでしょうから童話を1つ書いてね黒柳さんが主人公。≫
「童話というものを初めてお書きになって、それを朗読してくださるんですけども”窓際のトットちゃん”をお読みになった方だとすぐに分かると思うんですけども大江健三郎さんは”自分の木下で”というみんながとっても分かりやすい。大江さんの本は難しいという方が多かったんだけどもこんなに分かりやすい本はないということでお出しになったんですけども奥様が挿絵をお書きになったんで。チン問屋さんが出てくるんで」
≪ちんどんやさんの絵を書くのに資料を集めて1週間ぐらい悩みますからね。≫
「私が退学になった小学校の窓から見たチン問屋さんの扮装だわと思ってうれしかったんですけども。大江さんがはじめてお書きになった童話を朗読してくださるそうなんでおききいただきたいんですけども。私もはじめて聞くんですけども」
≪”いつも窓際に立ってちんどんやの行列が来るのを待ち、やってきたらすぐ教室で勉強している仲間たちに教えようと考えていた女の子。黒柳さんのトットちゃんのことを覚えている方も多いと思います、小説家の習慣から読んだ物語を記憶の中で自分の形に作りかえることのある私は女のこのその後をこうそうぞうしていました。女の子はチンドン屋を待って窓際に立っている。学校に来る限りいつも、いつまでもたって待っている。チンドン屋は中々やってこない。それでも女の子はけして待つことを止めない。窓際に立ち尽くして今来るか今来るかと真剣に待っている。とうとうチンドン屋がやってきた。皆さんには余り馴染みのないチンドン屋ですが3人か4人の鐘と太鼓を組み合わせたリズム楽器に三味線やクラリネットの楽士たちが時代物の扮装で町を練り歩きます。一昔前の宣伝タイの親しみのこもった呼び名でした。ついにやってきたチンドン屋のことを教室の仲間に知らせるとみんな窓際に集まりました。さらにこれまでになかったことが起こりました。いつもは授業中にチンドン屋に気を取られれば先生に叱られたのに、それよりもチンドン屋を見張る事を大切に思っていた少女の事はもう担任の先生もあきらめていたのです。なにも言われなかったばかりか先生も楽しそうに見物しています。子供たちが教室を抜け出してチンドン屋の行進に付いて歩き始めると女の子が先頭に立っていたことは言うまでもないでしょう。学校中の子供たちがブレーメンの民話のように参加しました。先生も驚いた事に校長先生までもチンドン屋の行進をしたのです。子供たちがまた先生たちがこんなに楽しいことがあるだろうかと思ったに違いありません。しかし夕暮れが迫ってきます、これが人生というものです。子供も行進から次々に離れて先生たちも家に帰ってゆきました。ところがあの女の子だけはチンドン屋と別れて家に帰ることをしなかったのです。いつまでもどこまでも歩き続けます。そのうち仲間にしてもらうことになり顔には小さい付け髭をかざって将軍というあだ名がつけられました。クラリネットを習いながらチンドン屋の仕事をしています。そしてあの女の子を大切なメンバーにするチンドン屋はもうアフリカ大陸までに足を伸ばしているのです。子供たちの病院の中庭へとチンチンドンドン演奏しながら入っていきます。アフガニスタンの難民たちのテントで無くした片足に義足をつけて歩く練習をし、戦争が終れば自分の羊の世話をしに村へ戻るつもりだという子供の話を聞き彼を励ます音楽をチンチンドンドンとやる。将軍はクラリネットの名手になっています。”そういうものなんですけども。≫
「私のことを将軍と。戦争が嫌いな大江さんですけども私のことを将軍とおっしゃるのは御自分が何かをなさろうとする時に人が注目するといい事であっても躊躇してしまうのに、あなたは子供を助けとようと思ったら将軍のように先頭に立っていくんですねといつかお手紙を下さって。その将軍でしょうきっと。だから今は光栄に思っています。でもまあ大江さんの初めてお書きになった童話の主人公にさせていただいて。でもこの後に子供をきずつけてはいけないということをお書きになりたくて」
≪僕は子供の事を書く本はこの前1冊書いて、もう1冊かくと書くことがありませんからね。書きたいと思うことをまとめて正面から言おうと思っているんです。≫
「さて今年は広島に原爆が落とされてから57年経つんですけども広島ノートと言う本を書いてらっしゃるんですけども戦後20年たってからなんですがお書きになってちょうど広島にお調べにいかれるときに光さんがちょうど生まれた」
≪そうですね6月13日に生まれた。そして私は6月の終わりには広島にいってました。色々な調査をして書いたんですね。その時に広島原爆病院にシゲトウフミオ先生がいられてその方に話を伺ったんです。その方はですね広島で非常に苦しい事が起こったと。現在でも苦しみは続いているということはありますけどもね、そういうことよりもどのように被爆した人が生きていこうとがんばったか、また原爆症であの苦しんでいる人が生きていこうとしたか、かれが生き延びるためにどのように協力したかを中心にずっとお話になりましてね。私には頭が2つに見えるくらいの障害だったものですから見た目には≫
「光さんが」
≪どうしたらいいだろうと思ってました。それに対して非常に自分と一緒に被爆したお医者さんの仲間でこんなにも苦しんでいる人がいるのに自分は何もすることができないと自殺した青年がいたと。目のお医者さんかな。そのことを僕に話されるんですよ。いくたびに。それはね僕に直接おっしゃらないような人格なんですよ。非常に子供の事で苦しんでいてもそれでひっくり返ってもしかたがないぜっていうことを言おうとされたんだと思いますね。こんなに立派な人がいるということと、世界中に原爆症を直す方法は誰も知らないんですよ。それを患者さんと一緒に考えていった人。それを僕にねニコニコして僕にね「大江さんもがんばってください」といわれればがんばらないといけないなって≫
≪どんな事があっても逃げない先生だそうで、それで光さんをどんな事があっても逃げないで育てていこうと決心なさったのがそのときだそうでございます。≫
黒柳「さっきの待望していた長男が頭が2つあるかと思うぐらいのお子さんだったのでそれからすぐにシゲトウ先生にお会いになったときもどうしていいかわからない状態だったので。その先生も被爆してらっしゃるのね。さっきおっしゃったのは看護婦さんも血だらけになりながらその先生も被爆しながら被爆した人を治そう、何とかしようとそのことを何回も何回もおれをお聞きになって光さんを育てていこうと。それから原爆の日でいつも苦しむのは子供でいつも子供に対していつも不正をはたらいてはいけないといつも大江さんは思ってらっしゃるんですけども。林京子さんこの方は長崎の原爆の」
大江≪長崎で8月9日にプルトニウム爆弾が落とされた時14歳で会社ではたらいていて、学徒動員というのがありましてね。それでどっかの叔母さんに付いていっているうちに松山城ですね、プルトニウムの放射能の一番強いところまでついいっしまうんですよ。その方が被爆してから24年経ってからずっと考えてきた事を”祭りの場”という素晴らしい短編に書かれまして、それから24年経って・・・一番最初は30年経って44歳になって書いた。それから24年経って20世紀の最後にかかれた本ですけども素晴らしい本です≫
「そうなんですね。林さんが生涯いろんなことがあるんだけども逃げてる最中に薬をくださいというい人がいて、でも自分もそんなことを言われても困るのであの誰かに後で来てもらいますからと言うとその人が「みんなそういうんだよな」って言って人間はあんな状態でも生きようとするものだって書いてらっしゃるんですけども。自分が逃げたことが許せないというようなことも本に書いてらっしゃるんですけども。さっきも素晴らしい本だと、この中にいいとおっしゃってるのは広島長崎に落とす前に実はアメリカが実験したどこの場所にこの方がお立ちになったことが素晴らしいと大江さんはおっしゃってるんですね。ちょっとコマ-シャルを挟みまして短いんですけどもちょっと読ましていただきたいんですけども」
≪≫
黒柳「偶然なんですけども私8月9日生まれなんです。戦前はなんでもない日だったんでお祝いとかもしてもらったんですけども戦争が終ってからは一切そういうことはしてないんですけどもお祈りの日になったんですけども。それから光産は”広島のレイクエム”という音楽も書いてらっしゃるんでちょっとそれもあわせて林さんのところを。これは広島長崎で体験した事を皆さんは書いてらして、林さんは一番最初にニューメキシコにあるトリニティというところのグランドゼロと呼ばれる荒野でそういう実験があったことをご存知だったんだけども、いつも広島長崎のことを考えていたんだけどもそこ(ニューメキシコ)にいらした事を書いてらっしゃるんですが。~黒柳さん朗読中~やっぱりこういうことをみなさなんが書いたりお話したりすることは必要だと」
大江≪僕はそう思うんですね。チンドン屋ということをもう一度言いますけども、僕は外国で話す時は2日あれば1日は広島長崎の事を話してきました。去年もノーベル賞100年祭というのがありましてね文学がこの100年間に何をしたかという主題でした。そこで起こったことを証言するということを主題にしたいと提案しましてね、私はそこで話をしました。あの林さんのお仕事を中心に話したんです。林さんの「空き缶」という素晴らしい短編があるんですけどもそれを含んだ素晴らしい短編集を編集しまして≫
「そういう本が出てるんですか。広島の短篇集が」
≪そういうことをしてきました≫
「あそこの町がめちゃくちゃになっただけと思ってる時に林さんが書いてらっしゃるように孫が生まれる時にその子がどうだろうかと心配する事を外国の人はわかってないって思うんです。だから皆さんが読んでくださる事によって素晴らしい事だと思うんです。」
≪≫
黒柳「さっきチンドン屋さんについておっしゃりかけた」
大江≪はい。僕もチンドン屋さんについて長崎のこと広島の事を話したいと。あの日本には非核三原則というのがあると。核兵器を作らない・持たない・持ち込ませないという。それが少し怪しくなってきて政府がこれを守る場合”国是”っていうんですよ。国是というのは何かというと国家としての方針ということで英語だとナショナルポリシーというんですよね。それでフランス語だとレゾンレタっていうんです。僕はそういうものは政府がまた別のものを決めることがあると思うんですよ。そういう場合にそうじゃなくて国民の方針というんですかね、人間の原理という風に考えるべきだと思うんですね。そういうことをチンドン屋さんのように外国人に言おうと思えば理論で言うことも出来るけども確実に言おうと思えば人間の感情や理性や全てを含みこんだもので非核三原則を守ろうと。広島長崎を忘れないでいこうというためにはね今のように小説を読んでもらうのが一番いいと考えてるんですね。≫
「今度童話をお書きになることを考えたのもさき朗読していただいたんですけども、だけども最終的には原爆のところまでお話はつながっているという大江さんがいつも憂いてらっしゃることを今日は話していただきたくて8月6日ということもございまして話していただいたというわけです。それで光さんの私への曲「おめでとうの早口」が出ましたらまたなにかの形で皆さんに発表させていただけるとうれしいですね。本当にありがとうございました」