2002年8月8日
黒柳「夏になると徳島の阿波踊りですけども”えらいやっちゃ、えらいやっちゃ”って日本中から集まって大変なんですけどもあの歌を世に広めた方が今日のお客様なんです。レコーディングなさったのが昭和6年といいますから今から71年も前にレコーディングをコロンビアでなさった多田小餘綾(こゆるぎ)さん今日のお客様なんですけども、現在95歳でいらっしゃいます。本日徳島から飛行機でいらっしゃったという非常にお元気な方です。良くいらしてくださいました。なんでも東京は37年ぶり?」
多田≪そうなんですよ。姪の結婚式に参りましてそれから参りませんから≫
「37年っていうのはすごいですけどもそれから東京は変わりましたか?」
≪もうねえ飛行機で着きまして広いのにビックリしました。街に出ますとビルですか、私はあれは洋館と思ってました。大木のがたくさん建ちましたですね。それに車の多いこと、びっくりしてしもてあちらこちらに≫
「ヨウカンって言っても食べる羊羹じゃないですよ。ビルの洋館。昔は洋館っていってたんですか」
≪言っておりました≫
「それで今日のお召し物は芸者さんの時代も今も”お鯉(こい)さん”と呼ばれてらっしゃるそうで、鯉ですお魚の(着物に鯉があしらわれている)。まあなんと言っても95歳と簡単にもうしますけども飛行機に乗ってちゃっちゃっちゃっときてくださったのはすごいんですけども芸者さんでいらっしゃった時は今もそうなんですけども本当にお綺麗な方で、お背えが大きな方で当時としては大女と」
≪そうなんですよ。≫
「165センチぐらいおありで今も大きくいらっしゃるんですけども。タケハラハンさんと同じ小学校でいらっしゃって」
≪そうなんです。≫
「どれだけお鯉さんが人気だったって言うかたくさんの画家の方がお鯉さんを描いてらっしゃるんですね。感動したのは棟方志功さんが。それはお料理屋さんをやってらっしゃった時に」
≪そうでございました。≫
「3枚も」
≪ちょうど幹事さんの人が先生はお酒がお好きでそれも熱燗がお好きだから女将それを心得ていてと言われてそれを心得ておりましたものですから≫
「これはもう立派な作品ですよね。この字が”わが胸の想ひのごとに舞いめぐる土佐の白鷺けわししらさぎ”と書いてあるんですけども、土佐と思ってら下みたいで」
※徳島の阿波を土佐(高知)と勘違いした
≪ちょうどひっついてますから≫
「また絵も描いてらして。ずいぶん気に入って」
≪そうなんです先生はお酒がお好きだったでしょう。だからおすすめしもって先生がいい気持ちになった時に徳島の言葉で言うと”へらこい”。ちょっと申し上げて先生一筆をというと心よう描いて下さりまして≫
「今の”へらこい”というのはどういう意味なんですか?」
≪まあ人様を追いのけてという意味で≫
「なんといっても土佐の白鷺というのはお鯉さんのことなんですから。それから北野ツネトミさんという日本画家」
≪有名なね。≫
「お父様も画家でいらしたのね」
≪私の父はビラ絵描きと申しまして紙をつなぎあわしましてそれに輪郭をして牡丹の絵とかお酒の絵を描いて。≫
「すごくお上手な方で。なにかお祝い事の時にご祝儀袋にもお描きになって。」
≪そうなんですよ。浄瑠璃の会とか開店祝いとかそんなのに髪を張り詰めて≫
「鯛とかも描いてらして」
≪鯛がすごく好きでした。鳴門鯛ともうしまして≫
「小餘綾(こゆるぎ)さんというお名前もずいぶん珍しい」
≪そうなんですよ。小さいときはそれがはずかしくございました。みなさんが中々言うてくれなくて≫
「また字にすると難しくて」
≪これは地名でね鎌倉のところですか。大磯の小餘綾の磯。また父が結婚したのも遅うございまして私が生まれたのが50の歳で磯子とつけたかったそうですけども、でもそれは平凡だということで小餘綾の磯の小餘綾を取ろうということでそれで≫
「磯の枕詞で小餘綾と、小さく揺れるという意味で」
≪でしょうかね。≫
「小餘綾さんはお鯉さんという名前で芸者さんとしてでてらしてその後お料理屋さんを始めになったんですけどもなんといっても6歳から三味線を」
≪ええ、ご近所の子供たちがみなお稽古をしよるものですからひょっと仲間に入れていただいてそれでお稽古しまして≫
「90年近く三味線を弾いてらっしゃるそうですけども」
≪(笑)長いことお世話になっています。≫
「盆踊りとかそういうところでは踊っていたんですが今のように日本中にこの阿波踊りは有名ではなかったんですね」
≪色町の方では踊っていましたがお座敷ではまあ踊っていましたけども今のように表でれんができましたのは最近の事で≫
「ある時お座敷に呼ばれたらコロンビアの方たちが秘密でいらしてたんですって?」
≪そうです呼ばれましてお座敷を勤めましたんですけども≫
「元々これは”えらいやっちゃ、えらいやっちゃ”と言いますけども徳島盆踊り歌っていう」
≪昔は阿波の盆踊りと言っていたんですが、観光客が来まして徳島の芸術に携わっているお人が阿波を多く使うようになりましてそれで”阿波踊り”と≫
「東京でイチマルさんという方で芸者で歌手にお成りになった方がいて東のイチマル、西のお鯉と」
≪いやそれはちょっと(笑)≫
「昭和6年にレコーディングなさいました71年前にレコーディングしたコロンビアのレコードがちゃんと残ってるそうなんでちょっと聞かせていただいて。これでこの歌が日本中に有名になったという。~レコード再生中~いいお声なんですね。今は踊る阿呆に見る阿呆って歌ってますけどもこのときまでは盆踊りということで」
≪そうなんですね。≫
「ではコマーシャルを挟みましてせっかく徳島からおいでいただきましたので三味線を弾きながら今の阿波踊りの歌をちょっとお願いしたいと思います」
≪≫
黒柳「今のように阿波に日本中から人が集まってくるんじゃなくて徳島の方が徳島盆踊り歌という風に歌ってらした歌を今日のお客様が71年前にレコーディングなさいましたときには阿波踊りという風にすでに題名がなっていたそうですけども、この阿波踊りの音楽はすごい昔からあったんですって?」
多田≪ええ、かなり古い頃からありました。芸者衆はお座敷で阿波踊りを踊ってましたんですよ。かならずお開きになるようになるように会の終わりには≫
「400年ぐらい前から」
≪ずっと弾いていたんですよ≫
「そうなんですってね。ではよろしくお願いしたします」
≪~演奏中~(拍手)こんなんです。もう声が出ないんです≫
「いや私は何が難しいって歌ってらっしゃるテンポと、ラッチャラチャラッチャラッチャっていうのをこれを伴奏のように入れてらっしゃるのは近代音楽のようなんですけどもこっち(右手)のリズムと歌ってらしゃるリズムとは全く違うんですね」
≪お三味線は早いのに歌の方は遅くて。それを合わしますんですから≫
「全然きづかなかったですね。全然違うリズムでおもしろい」
≪それを分かっていただきまして≫
「8月の12日、13日、14日、15日と阿波踊りが徳島で行われますので全国の皆様においでいただきたいと」
≪どうぞおこしくださいませ≫
「それからその時に7月20日から8月25日まで徳島城博物館でお鯉さんの展覧会があるそうで」
≪していただきまして≫
「林・・・」
≪林鼓浪(ころう)さんとおっしゃいます≫
「画家の方が」
≪この方がまた器用なお人でございましてね何でも出来るお人でありましたんですよね。≫
「だから阿波踊りにまつわる事とか」
≪阿波踊りの元といっていいぐらい親と言って言いぐらいの人で≫
「さて戦争中は徳島に大空襲があったそうです。8月になりますと8月6日、9日と原爆のあいだにはさまって、そして8月15日の終戦に向かっていくわけなんですけども徳島にも大変な空襲があったそうなんですけどもちょっとコマーシャルをはさみましてそのお話を」
≪≫
黒柳「戦争がはじまりますと芸者さんはお仕事がなくなって」
多田≪もうちりじりばらばらになりましてめいめいの人からお手伝いに行く人もありましたけども≫
「でもそんな芸者さんをしてる人は非国民みたいになって。徳島の大空襲は昭和20年の7月4日にかけて」
≪3日の夜から4日の朝にかけて≫
「それがすごいんですね私も知らなかったですけども、なんと言っても姫路、高松徳島高知とB29が481機もきたそうです。7万人以上の人たちが被災をしたという大変な。徳島市の62%は壊滅したそうです。このとき小餘綾(こゆるぎ)さんはどうしていたんですか?」
≪はい私は山を登りビ山の山を越えましてね母の里へ疎開といいますか逃げたわけなんです。それであの田舎へいたこのもないのに長いこと田舎の方に逃れていたわけなんです。≫
「これはその前に来た事はなくっていきなり空襲は来たんですか?空襲はいきなり?」
≪間間には学校何かを襲っていたわけなんですがB29が来たのはその日の7月なんです。≫
「B29が1機来ただけでもびっくりしますのに481機も来て」
≪私達が山を越えるときには神社の軒なんかに火が残ってまして≫
「焼夷弾?」
≪直撃でね。ありましたですよ≫
「ほとんど徳島市が壊滅状態になったぐらいの大空襲。随分たくさんの方がなくなったんでしょ」
≪あちらこちらに水槽というのがありましてですね。水を汲む。あの中にも死骸があったりしましてね。≫
「少しでも水のほうへ行こうとしますしね。防火用水で燃えたらすぐにそこからバケツに水を汲んであれする水槽がどこの家にも用意されていたんですけども、そういう所に入って助かろうとする人たちがたくさん亡くなっていたんですけども。本当にあれから57年経ちましたけどもね」
≪随分苦労しました≫
「あれから徳島は復興するのに大変だったでしょう」
≪私も里の方へ行きまして1年余りおりましたんですけどもね、ああいうことがあったからこそ田舎の方にいましたし田舎の方もああいうことがあったからこそ来たなというような事でまあ歓迎はしてくださいましたけどもかなり辛い思いをしまして苦渋の思いもしまし≫
「肉親を亡くされた方もいましたしね。でもまあお仕事をしてらしたんでお仕事は全然お出来にならない、戦争が終ってからはいろいろ」
≪ちょうどあちらの方で天皇陛下の≫
「玉音放送が」
≪ありましたでしょ。終戦のご挨拶をラジオで聞きましてねそれから割りに活気付いてみんなが街の方へ帰ってくるようになりましたんでね。私もそれを聞いてから徳島の方で家を建てて帰ってくるような準備をしましたんですけどねその後田舎におります間皆さんに大事にしていただきまして三味線も持っておりましたので≫
「ずいぶん結婚式があって」
≪そうなんですね終戦になったからといってあちらこちらから動員された方が帰ってこられて結婚なさるのにそれをちょうど私にいとるんが婿さんには幸いやというて下さってそしてあちらこちらからいうてくださって。三味線とともに疎開してましたんで三味線のおかげというか≫
「でもまああれほどの大空襲で胸が痛いですね」
≪そうですねお気の毒な人もありまして≫
黒柳「まあほとんど壊滅状態であった徳島の町がだんだん復興していって、もう昭和21年には阿波踊りが始まっていて」
多田≪始まっておりましてですねあちらこちらから申し込みがあって10人20人ぐらいがキャラバンっていうんですかそのような感じででておりました≫
「その時に鯉さんのレコードが活躍してにぎやかに活気付かせたというところがあってね、今は95歳でいらっしゃって三味線を教えてらっしゃる」
≪ええあの阿波踊りを後後まで残したいというのでお稽古にお盆の前が来ましたら奥様がたがお出でになるんですよ。阿波踊りは徳島の誇りと思うておりますんで。どうしても後にも残ってもらいたいと思っておりますんで≫
「私も随分前ですけども40年ぐらい前に”若い季節”というのをやってたときに生放送だったんですけども大胆にもその阿波踊りの中にはいってドラマを続けていくというんで階段の下に座っていてセリフなんかをやっていて私達のレンが来た時にそこにはいっていって踊りながらセリフを言って生放送でドラマだったですかね。すごかったですけども朝早くから音楽が聞こえてね活気付いていいんですけども」
≪あの太鼓の音が聞こえましたらねもうちょっとじっとしてはおれませんのでね≫
「朝も早くから夜の遅くまで音が聞こえてきてていてね、どっかから聞こえてくるんですよね」
≪昔は今と違って時間の制限がございませんでしたのでもうあさの4時5時ぐらいまでねどっかでやっておりました≫
「ご活躍を今年の夏も」