本日の徹子の部屋ゲストは本島等さん

2002年8月9日

黒柳「本島等さん長崎の市長を4期16年お勤めなった方でいらっしゃいます。今日は長崎に原爆が落とされて57年目ということでござます。それから市長をなさったということもあるんですがこれからの日本ということをずっと考えてられるというんでそういう話も伺いたくおいでいただいたんですが。不屈の方で今もガンと戦ってられるという事で、なんかお薬の成果でおふとりになられたんですって」

本島≪女性ホルモンのせいかなんかで≫

「おふとりにもなられたんですが、ずいぶん毛も減ったというお話でしたが。それからお元気で12年前には戦争責任の発言でピストルに撃たれて、でも命は助かったという方です。あのご出身は長崎県ですけども五島列島の中の」

≪北の方ですけども非常に田舎ですね小学校は全校生徒で125人。全部が隠れキリシタンで校長の娘を除いては全部隠れキリシタン。≫

※隠れキリシタン=表面は仏教徒を装い、内心では祖先代々受け継いだキリシタン信仰を保持した人々

「キリシタンの末裔ということで戦争中はスパイの嫌疑をかけられて大変だったとか?」

≪はい。それがね家の母が結婚せずに私を生んだものですからカトリックの中ではそういう面の中での差別もありましたし、外に出るとキリスト・カトリックようの差別もありましてですね。例えば先生が汚れているから風呂に入って来いというんだけども30軒か35軒の集落では水は炊事用か洗濯用にしかないんですよ。風呂に入るようの水はないんですね。そういうところで育ったんですね。≫

「周りが海ですのでね水で苦労なさってるとは思わないんですけども。お母さんはおっしゃったようにお父様がどういうかか、ほかの方と結婚なさったものですから」

≪祖父母に育てられましたね。それから小学校を出て大陸に九州に渡りましてね佐世保や長崎にいろいろな人のお世話になったわけです≫

「印刷所の活字広いというのもなさったそうですが、中学は夜間中学をおでになったそうですが夕暮れ時になってみんなの夕飯を食べてる姿を見て家庭ってあんなふうなものなのかなっておもう少年時代をお過ごしになったそうなんですが、京都大学にいってらっしゃる時にその前に兵隊にもいってらっしゃるんですが長崎の原爆の事があったんですがその時はそういう爆弾が落とされたことは聞かされていたんですか?」

≪いえいえずっと前にあの熊本の兵隊におりましたからそこを止める時に知ったわけなんです。≫

「ああそうなんですかその頃なんですか。」

≪原爆の話はね≫

「原爆ってみんな分かってなかった時代で」

≪そのころは国をあげて陸軍も海軍も原爆を大きく扱わなかったからね。その頃はソビエトが侵略してくる事が陸軍にとって大きなことではなかったかと思いますね≫

「まあ8月9日というのはロシアが参戦してきた日でもありますね」

≪昭和20年は全国の国立大学は試験は出来なかったんですよ。あの食料がなくて若い者はほとんど兵隊に行ってましたからだから私の下にも学校からどうするかって昔の旧制高等学校のときに2年間兵隊に行ってましたからあの好きなところにみんな行ったわけですよ。私は東京は空襲がひどいところは行きたくないから京都ぐらいでいいだろうということで京都に行ったわけなんですよ≫

「試験がなかった時代でまあ今だったら大変ですけども。工学部にお入りになってその後高校にお入りになって東洋史とか歴史を教えてらしたんですけども専門の数学を教えようということで10年間教師生活を」

≪いえいえ5年くらいですよ。≫

「24年ぐらいからでしたか。そのあと県議会議員に立候補されて。その時はなんで立候補しようと思ったんですか?」

≪いやいや遅れてね高等学校、大学に行って大学を卒業したのは27歳ですからあの仕事があるのはいいんだけども2,3年経つとなんであの男は僕よりも若いのに給料が高いんだと不平が出てまいります。世の中では給料が変わらないのが政治家なんですね≫

「そういう理由で?」

≪そればっかりじゃないですけどね。幼い子も持ってますから手取りは年取った議員さんよりもこっちの方が多いという魅力もあったし、それとなんか世の中がなんかおかしいなって本当は別な事を望んで戦争が終ったのにそんでまあ田舎の政治家になったわけなんですよ。長崎に住んで3年で県会議員に当選したんでその票のほとんどはあの長崎のキリシタンの票なんですよ≫

「それも長くお勤めになったんですね」

≪20年≫

「それで市長戦におでになって。その時は無所属でおでになってそれから4期16年お勤めになったんです。毎年長崎の平和宣言をお書きになっていて」

≪毎年自分で書いて起草委員会に提案したんですけども今にしては間違っていた面もあったと思うんです平和宣言に関しては。言っていいですか?最初はアメリカに責任があると考えました。次は日本の15年間の中国からアメリカまでの侵略と加害のすさまじさねこれを知るたびにつくづく日本が悪ったと感じるようになりました。しかし今日の平和宣言は広島長崎の被害だけをいってそれから核兵器廃絶だけをいっていてはいけないんじゃないかと。私達は昭和20年の8月15日に過去の侵略加害の罪を切り捨てて平和の人になって被害だけをいうのは日本にとっていいことではない。アジアを始めとして戦争に参加した人たちがそれだけでは日本を本気に信頼しないという結果が出てきたわけですから、そのことを考えていかなければ長崎は被害者の多くの人が兵器工場に勤めていたわけですから、その兵器工場は日本で使われる魚雷の8割近くを作っていたわけですからそれが真珠湾攻撃のときにも使われていたということですから我々は戦争というものを反省しそういう国々に謝罪をし謝罪よりも贖罪をしなければ今後の日本というのは国々の間に信頼を作り上げる事はできないとそういう風に思ってるわけです≫

「まあ誤解のないようにもう下げますと広島長崎で被害にあわれた方のことを十分にお分かりです。ご自身も長崎の親戚の方を原爆でお亡くしになりましたからそういうことは十分にお分かりの上であの95年に市長をやっておられなくてそれから時間ができたということでお勉強なさったということが随分あったということで、それでその被害ということをずっとゆってらっしゃたんですけども日本が戦後処理ということをずっとしてこなかったということを今こんな風になってるんじゃないかと思い至って日本したことについてもちゃんと考えないといけないんじゃないかと」

≪やっぱり日本のすさまじいアジアに対する加害を特に人を殺すということが世界的な問題になってそこのところをね我々は十分に反省しなくてはいけないというところを私も含めて来てるんです≫

黒柳「本島さんがおっしゃる日本が反省すべき特にアジアに対して行ったことはもちろん中国でサンコウ作戦というものがあった」

本島≪これはね”焼き尽くす・奪い尽くす・殺し尽くす”という3つの光っていうわけで中国がつけた言葉で420万ぐらいの人を殺してるんじゃないかと400万人ぐらいは強制連行でつれさって行方がわからないということでですね、もう1つもんだいがあるんですが日本人の特に男の人が性に関する考え方が低いところにあるんじゃないかと。今日は先生にもお教えしようと思って写真集を持ってきてるんですが長崎の県立女学校を卒業した優秀な女性が被爆者で隣のさしょうに働きにいっていてそこの海軍基地でアメリかの軍人さんと結婚してアメリカに渡ってゆくわけです。いわゆる戦争花嫁としてアメリカにわたった女性は数万人といわれてるわけですが、このナオミちゃんという人が59歳で亡くなっているんですがこの旦那さんは死後に佐世保に来て墓を佐世保に建ててご主人も佐世保にいついて佐世保でなくなったと。しかしフィリピンやインドネシアには日本人を父とした子供がたくさんいるわけなんですよ。それに対して1部の日本人がかりそめにも自分の妻であったそうい人たちを向かえようとかそう思う日本の男たちがいないわけですよ。日本の性の歴史は織田信長や豊臣秀吉の時代からあの性の制度があったわけなんですよ。江戸時代の美術や芸術なんかも非常に高い民族的に感動されるものが生まれてくるんですからね。オオシオショウが妻を離婚するでしょ。そういうことからしましても女性を大切にしないというねやはり日本人が世界のレベルに到達しないといけないと思ってるわけです≫

黒柳「」

本島≪従軍慰安婦をしとった人が日本に裁判をしにくるんですよ。しかし完全にすんだ事だといってていよくだめになったり、あるいは中国から強制的に連れてこられた人で長崎で被爆した人がねななとか日本におる被爆者並みの支援をしようとしてもそれもしない≫

「中国の方、朝鮮半島の方日本にいらっしゃって被爆者手帳を持っていらしゃれば日本人と同じ支援を受けられるんですが日本を出て国に帰ってしまえば被爆者手帳を持っていてもなにもしない。あのせんそうがもっと早くに終っていれば死なないで済んだ人がたくさんいる。310万人の国民があの大東亜戦争と呼ばれる戦争で死んだ。」

≪310万人で内地が80万人です。6月23日の沖縄の20万、3月10日の東京大空襲の110万それから原爆で8月6日から年末までで14万の広島市民が、長崎市民が8月9日から年末までで約7万それで約50万人ですよね。だから80万人の内の50万というんですからほとんど最後に日本の内地では死んだわけですね。特に230万の中の外国で死んだ人の中の150万人は餓死と栄養失調死だというんですよ。サイパン辺りでは2万人の玉砕ですからね玉砕をしながらしんでいくというそういう人たちをねなんとしてでも日本人はこの人たちを祭るかどうか。今もそのままになっている。≫

「原爆の被爆者名簿で去年までなんですけども22万1893人なっています。長崎ははじめ7万人とおっしゃっていたのが12万6630人になっているんですが本当はもっと多いと思います。おっしゃったように早くに終っていれば東京大空襲、沖縄、広島、長崎だけで50万人から60万人の人たちが死なないですんだもちろん南方の兵隊さんもそうなんですけどもとにかく遺骨が方々にあるような全ての事に関して何ですけども戦後処理をしてこなかったのが現在の日本をこういう風にしたと今でも思ってらっしゃる」

≪あのこの前イワタニヒロシさんが”日本原爆論体系全7巻”をかいて、その考え方がこれほどたくさんの原爆についての色々な本やエッセーがあるのは大変なもんだといっていますがそれでもこれだけたくさんの被爆者がおって日本政府を何らかの形でも動かした事がないわけですよね。それkぁら1980年代の後半から我々はこのままではいかんぞとアジアや太平洋の人に謝らなければいかんぞという事がコウハイとして起こりましてね、原爆は世界で落としてはならん大変な兵器だと。だから原爆の悩み苦しみも究極において残酷さの極限を越えてる事だからやっぱり全部が助け合って日本のこれからのみせしめとして考えていかなければいかんのじゃないかとそういう所に来ているわけです。だから原爆の問題も原爆原爆というんじゃなくして戦争全体を戦争を起こしてはならんぞと、原爆が言われているから子供たちが日本の戦争は正しかったのかアメリカが正しかったのかわからん人がたくさん日本に出てきたわけですから。そういうことを考える新しい時代ですね、そういうものを我々は立ち上げていかねばならんと思ってるわけです≫

黒柳「本島さんは今年のお正月2日3日5日ですか座り込みを長崎の平和記念像の前でなすったそうですけどもそれはどういうことですか」

本島≪私のとって80年間で一番有意義な正月だったと思いますけども一審で韓国人被爆者が勝ったんで政府が不服として上告してそれに抗議して座り込みをしたんですけども。私は現職の時に約1週間韓国の被爆者のお見舞いに参りましてね、でようするに何で日本人は人間としての事をやらんのだろうか。無理やりに連れてきてその人たちが被爆したのを連絡もしなければ何もしてないというまったく無視した形ですね。サハリンで戦争が終った時に30万人の日本人はさっさと引き揚げてきて4万3千人は今も残してるわけですよ韓国人を。そういうなんともいえん道義以前の日本人をなんとか自分のこととして処理したいと。もう1つは日本の男の子と台湾の男の子と韓国の男の子と北朝鮮の男の子と中国の男の子が仲良くしている中で俺は偉いんだぞ金もってるんだぞと言っても仲良くされませんよね。≫

「学校教育もちゃんといってほしいと」

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