2002年8月23日
黒柳「さて今日のお客様は写真家でいらっしゃって藤井秀樹さん。本当にファッションとかお美しい女優さんをお撮りになるいわゆる広告写真ということですごく有名な方だったんですね。あの作品展の中からモノクロなんですけどもちょっと紹介したいと思います。ずいぶんたくさんそういうものをお撮りになられましたよね。」
藤井≪そうですね今まではファッションの世界でずっと仕事をしてきたものですからほとんどの女優さんも取らせていただきましたしコマーシャルもやらせていただいて。婦人科といわれて≫
「広告写真家としてはすごい有名で基盤を作ったとまで言われる方なんですけども本当に綺麗な写真をお撮りになってるんですね。(※写真登場)これも随分前の(写真で)新しいもののように思えますけども」
≪もう30年ぐらい前の写真で≫
「前にこんな写真を撮っていたわけでいかに藤井さんの美意識が高いかということが皆さんにごらにただいてるんですけども。こういう写真をご覧いただいてるのは今度全然違う写真を取り始めたからなんですけども。この方はモデルなんですか?」
≪ええマックスファクターの夏のキャンペンだったと思うんですけども。ニューヨークのトップモデルですねこの頃は。時代がよかったんでしょうかいいモデルさんもいました。≫
「そうですね。今でいうスーパーモデルですね。日本の方もたくさん、女優さんはほとんど撮ってらっしゃいますけども、こんな風にきれいに撮ってらっしゃる方なんですね。多岐川裕美さんですね。本当に綺麗、みなさん女優さんだからお綺麗なんですけども本当におきれいですね。」
≪歌手さんのレコードジャケットなんかもずいぶん撮らせていただきましたし八代さんとか川中くんのほとんどのヒット曲のジャケットも撮らせていただいて。≫
「それでなんと言っても先ほど婦人科とおっしゃいましたけども、当時女優とかモデルとかを撮っていた方は婦人科と呼ばれていたんですけどもアキヤマショウタロウさんとハヤシサダヒコさんとスギヤマアキラさん。この3人が先生にあたるみたいなんですか?」
≪僕はあの学生の頃にアキヤマショウタロウ先生の助手になりまして23歳の時でしたかね、その頃ハヤシ先生スギヤマ先生アキヤマ先生が事務所を持ってまして≫
「3人で」
≪日生ビルの地下でございまして。そこに丁稚奉公で入りましたのが写真家になったきっかけでございます。≫
「アキヤマ先生はお元気ですけどもハヤシさんもスギヤマさんもお亡くなりになられましてとても寂しそうな感じがしますものね。」
≪そうですねうちのお師匠さんも82になったんですけどもまだ元気で花を撮ってらしゃる。≫
「このごろは女優さんや文豪や作家の顔を撮ってらしたんですけども突然アキヤマショウタロウ先生も花をお撮りに。それで藤井さんはいろんなものに焼き付けるという事もやってらしてタイルに」
≪なんで写真って印画紙だけなんだろうっていうことが疑問になりまして自分で独特の具剤を開発しましてそれで和紙とかタイルとかキャンパスにも焼いてエフグラと読んでるんですがそれを作ることを50何年やって。≫
「あとキャンパスに焼き付けたものを本当に絵としか思えないものをねいろいろやってらしてとにかくそういう美しいものをさんざんやってらしたんですけどもここのところ報道写真をお撮りになったんですけどもそもそもこれを撮ろうとしたきっかけは?」
≪そうですね僕は実は4年になりますかマレーシアで熱帯雨林で蘭を撮影しておりまして、あのこれのきっかけのときに東京でイズケンロウ君というこの新聞記事なんですけども朝日の”日本の写真家が資金を集めまして地雷で犠牲の子供たちに病院を”と。いうのを読みましてイズ君がぜひ僕に会いたいということでこの話を伺いました。その1写真家が1億2千万のプロジェクトでこの病院を立ち上げるなんて話としては感動したけども納得しなかった。ちょうど99年の2月ですかねえあの仮オープンするということで僕はマレーシアへいたので自分の目で(本当に病院が出来たのか)確かめたかったもんですからじゃあよるよということでクアラルンプールから初めてカンボジアに入りました。≫
「首都のプノンペンじゃないんですねこの病院は」
≪はい。これはシェムリアップといって第三の都市なんですけども非常にタイからほんの1時間ぐらいのところでそこへ参りました。あそこにある写真がアンコールワットへ始めて案内されてですねあの写真はなぜか人がいなかったんですけども、行ったときは両側に子供たちとか戦争で手のない人足のない人が物乞いでずっといたんですね。これを見たときにショックでですね夕方家内に電話したんですけども「俺この国合わないよ」と。なんかすごく悲しすぎる、子供たちがかわいそう過ぎる。だから明日病院を見たら日本に帰るよというような電話をしたのを記憶してるんですけども。今は非常に安全になって観光客も増えたんですけども、このときは両側にムシャツカってそういう子供たちがすごく多かったんですね。ものすごく物乞いの子供たちが多くて今までファッションの世界で生きてきた人間としましてはですねなんかすごいショックでして初めて現実を見ましたものですからビックリしました。≫
「でこのイズケンロウさんという写真家の方はあれなんですねえ移籍とかそういうものを撮ってらしたんですけどもカンボジアで写真を撮ってらしたんですけども、こんなに地雷で犠牲になってる子供たちが多いと、その中で写真をとるだけでいいのかと言う風にお思いになられたんですね」
≪僕は彼はすごいなあと思うのはニューヨークに行って30年、プラチナプリントという独特の世界で遺跡を撮っている彼なんですけども。その彼がアンコールへ行ったときに俺は写真を撮るだけでこの国を利用させてもらってるだけじゃないかと。やっぱりGiveというものをしなくてはいけないんじゃないかとていうことでかれは一大決心をしまして自分で4千万円、展覧会で自己資金を作りましてですねそれに協賛して九州の病院の院長もお金を出してくれて、看護婦さん医師も出してくれて立ち上がったわけですね≫
「すごいですね。自分はこの国を飯の種にしてるだけではないかと思ったと。自分に出来る事はないかと自問し続けそれで病院を作ったと。フレンズウィズアウトアポーター=国境のない友達というのをお作りになってそれで資金集めをなさって病院をお作りになったんですけども本当にこの国にとっては必要な事なんですよね」
≪ちょうど案内されたのが私立病院で、そこを案内されたときにビックリしてしまったのはまるで昔のバラックのような病院で。次の日に(イズさんが作った)この病院を始めて訪れた時にあまりに綺麗であまりに立派でこれで気持ちが救われたんですね。ああ彼はいい事をしたなと、僕も何かお手伝いできる事はないだろうかということdえこの病院に通い始めて。今うつってるのがこの病院の第一号の患者さんなんですよ≫
「そうなんですか。」
≪初めの頃は3人か4人だったんだけどもこういう子が病院にきてくれてとてもうれしかったし、国境無き医師団の方々もお手伝いに来てくださって≫
「そうですかみなさんご存知だと思いますけどもポルポトという人がほんとにちょっとの間に300万人殺したといわれてるんですけども、その殺された人が教育を受けた人がほとんどだったためにお医者さんもほとんど残っていなくて政治家とかお坊さんとか学校の先生とかをドンドン殺したんですけども特にお医者さんが居なくてわたしが参りました時にはプノンペンに700人お医者さんがいたのがそれでも30何人になったんですって。歯医者さんが1人ってその時おっしゃってました。そんな中でこの病院は国境無き医師団の先生もいらっしゃってるということですけども先生がお医者さんがずいぶんいらっしゃるんですね」
≪あのおかげさまで5人の国境無き医師団の方々がいろんな国々からオランダからとかからいろんなお医者さんが来てくれましてですね日本の方もナジマさんという方が整形外科ですけどもボランティアでいらしてくださってあの1番大事なのは2000人いたお医者さんを40人までに殺しちゃいましたからこの病院というのは10年経ったらカンボジアの政府に渡す事になってるんです。もう3年経ったんです。それまでにお医者さんを育てるのに10年かかりますので看護婦さんを育てスタッフを育てお医者さんを育てて少しのお金をつけてカンボジアの保健省に渡したいていうのが僕らの願いでだいぶお医者さんも増えてきました≫
「ちょっとまってください2000人っていうのは一番最初の段階でカンボジアにいた人たちを」
≪はい、ポルポトが虐殺を始める前はカンボジア全土に2000人のお医者さんがいたんですけどもそれが40人までに殺されてしまった≫
「プノンペンは首都ですから700人いたんですけども、その2000人のうちの700人だったんでしょう。それが殺されて全部で40人になってしまった。俳優が残った方が1人なんですよね。文化庁長官の方がねあの私は1人残った俳優ですといわれた時には胸が一杯になりましたけどね。で私は文化庁長官で孤児とかそういう子供たちにこの国文化を受け継ぐようにがんばってますけどもあなた(黒柳さんは)は俳優さんですってね言われた時にねみんな殺されてどういう心境だろうと思いましたけどね。本当にカンボジアのポルポトの虐殺って言うのはみなさんご存知だと思いますけどもこれほどとは思いませんでしたものね」
≪この病院が出来る前はシェムリアップには小児科の病院がなくて私立病院にあったんですけどもそこはお医者さんが居ない病院でお医者さんは名前だけはあるんですけども給料が安いですから自宅に帰って自宅診療やってしまうんですね。お金持ちは自分所にお医者さんを呼びますし子供たちを見てくれるお医者さんは居ないんですね。でも怪我だとか子供の病気は一杯出てきますのでこの病院ができたお陰で今までに8万人の子供たちが今日もこの病院に来て毎日150人来ますけども≫
「そんなにそうですか。ユニセフもそうですけどもユニセフは大きな病院を作るんじゃなくてね予防注射を子供たちにするっていうことをしているんですけどねこういうところに病院があってみてもらえるということになるとみんなうれしいと思いますよね。ここにくれば安心だという事で。藤井さんがお撮りになった写真がたくさんありますので次のコーナーで見ていただきます。ちょっとコマーシャル」
≪≫
黒柳「まあそういうことで藤井さんはそれまでファッションとか美しい女優さんとかそういう美しいものを撮ってらしたんですけども、まあそういうふなカンボジアに小児病院を作るといっても出来るかなと思ってらしたんですけども実際行ってご覧になってみんながこれを利用しているという事がわかってそして何回も通いになって写真を撮ってらっしゃるんですけども。それで写真集をお出しになったんですけども左側に字が書いてあってそれはこのカンボジアの日本語を習っている子供の文章」
藤井≪はい。あの子供たちと言ってもみんな年齢は18以上でございまして小学生とかはまだ日本語を習うところまではいきませんけどもやっぱりタクシーの運転手さんとかお土産屋さんとかは非常に日本の観光客が増えてきましたのでとても日本語は大事なんですね生きていくためには。通訳してガイドすると1日20ドル30ドルもらえますしね、お巡りさんの給料は月に30ドルくらいですか。ガイドをすると家族を養えるということで朝の5時半から夜の8時半までみんな一生懸命勉強しています。≫
「であのブランコに乗っている子供の写真があるんですね。この子のことを学生のリケアンという方が書いている文章をちょっと読ませていただきます。”ブランコに乗っている子供は生まれた時からテンカンでした。字ははっきり分かりませんがその子はある日燃やした火のせいでひきつけを起こしてしまいました。その後気を失ってしまって火傷のせいで水ぶくれになってしまって生まれた時から病気だったのに火傷でまたただれてしまった結果この子は物乞いをしています。”。この子はこれだけ日本語ができるわけですから日本の観光客のみなさんをいろんな所に連れて行ってるんですね。日本の観光客が火傷した子を見てかわいそうだなと思ってお金を上げたりするんですね。”ただれてしまった子の親は子供を治療に連れて行きたがらないというのです。どうしてだと思いますか?その子が集めたお金がないと生活が出来ないからだそうです。”この子(火傷した子)が外国人からパンをもらったりすると家族が生活をするという”私は同じ女性として”このブランコに乗ってるのは女の子なんですよみなさん”私は同じ女性としてもうそろそろ年頃になるこの子が一生幸せになれないと思うと本当に可愛そうです。”ちょっとなかは略させていただきましたけども”オニヒロミ先生の学生のリケアンより”と本当に上手な綺麗な字で書いてあるんですけども。でもよくこれ文章をお集めになりましたですよね。」
≪はいこの写真を彼女のところに持っていきましてこの写真を見てあなたたちのコメントをちょっと書いてみてくれないかと言いまして書いててもらいましてこういう文章をいただきまして僕はショックでしたね。日本のコピライターというか現地を体験した人でないととてもかける文章じゃないなと思ったので。全部で26人ですけどもこの子供たちに写真を見せて書いてくれないかと。交換条件はエンピツ削りですけども。≫
「そうなんですか」
≪それがギャランティー代わりになるんですけども。やっぱり僕ら平和ボケした日本人には考えられないなんて戦争が好きな人が多いんだよという書き出しの文章を見たときに僕らの年代は終戦直後の日本を知っていただけにその時の子供の時代にそっくりだなと。物のない終戦直後の時代を思い起こしまして少しでも子供たちのお役に立つことが出来ないかということでこの写真集をまとめてみました≫
黒柳「はじめはそんな思いで初めて子供たちに会ったときにここ(カンボジア)は合わないから帰るって奥様にお電話なさったんですけども、あのそこで実際に子供たちの写真をお撮りになっていまやこのカンボジアの子供たちとは離れられなくなったそうで藤井さんの大きな夢があるそうですけどもそれはどういう夢で?」
藤井≪ハハ(笑)あの幾たびにこの子達の眼がとっても綺麗なんですね。昔こういう少女もいたし日本の田舎にはいたと思うんですけどもこういう子供たちを、子供は生まれてくる国を選べませんから(※ハンモックに入っている赤ちゃんの写真登場)この子は捨て子なんです。孤児院の子供で。僕は思ったのは孤児たちは小学校に入る前の孤児何ですね。30人の子供たちをたった1000円で学校に行かせることが出来るんです。それでこの子供たちが学校をでて働けるようになっても働き場所はありませんので。普通の健康な人でさえ仕事がないわけですからこの子達が働ける小さなロッジを作りたいと。きっとその中には数学が得意な子とか洗濯が得意な子とか居るんじゃないかなっと思いますので。絵の上手い子はいるんですね。ですから孤児たちが働けるロッジ。ホテルと言うとちょっとオーバーなんで小さなロッジを一緒になって作ってまあ民芸なんかも教えたいなあと思ってますんで≫
「(※膝の上に子供を乗せている日本人の看護婦さんの写真登場)ちょっとごめんなさいこれは日本の看護婦さんで赤尾和美さんとおっしゃるかたですね」
≪これは孤児院のHIVを見てくださってる赤尾和美さんでこの子は小児HIVなんですけども全部見てくれてます。≫
「この孤児たちが大きくなるとここを出なくてはいけなくなっちゃうのでこの子達が暮らせるロッジのようなものを作りたいと。でもおっしゃったように本当に日本では大したことのないお金でもここでは有効に使えるということですよね。」
≪まあ本当に500円あったら子供が1ヶ月ゆうに暮らせますので、こないだもおじちゃん(日本に)帰るけども今度来る時何か買ってきてあげるから何が欲しいって言ったら学校に行くんでリュックが欲しいと言ったんで今度もって来るねって言ったんですけども、ちょっと気になるんですねあの子待ってるかなって気になったもんですから(カンボジアに)行って、3人の子供を連れてじゃあリュックを買いに行こうってマーケットに行って「どれがいい?」とあのピンクがいいというんでじゃあそれをくださいと言ったら300円なんですね≫
「300円!」
≪それでその3人の子供にスニーカーも買おうねってそうですねえ3人合わせて1200円でしたかね。こんな事をさせてもらって僕が幸せなんですね。≫
「ちょっと待ってくださいさっきからごみがたくさん写ってるところの(※ごみの山に子供たちが写っている写真)写真が出てるんでみなさん何の写真だろうと思ってらっしゃると思うんですけども」
≪これはプノンペンの首都の夢の島ですね。ゴミ捨て場ですね。ここはメタンガスで火が燃えてますし、悪臭がしますし。でもその中でも子供たちは毎日働いていますし分別収集で缶を収集して少しでもお金にしようと。夕方業者が買い取りに来ますので。60円だそうですその缶一杯。あの劣悪の環境の中でこの子達は≫
「働いてるんですよねあんな小さいときからねえ。」
≪もちろん学校には行っていません。でも日本の方がこの外(ゴミ捨て場の外)に作ってくださったと聞いたことがあります。≫
「子供たちはこの劣悪な中で6歳ぐらいから働いているわけですしね」
≪そうですね≫
黒柳「ご存知のようにカンボジアは地雷も多いので足を失った人も非常に多いのですがなかなか義足などはみんなが手に入るところまではいかないのですが、こういった写真集を日本芸術専門学校で売ってるていうちょっと変わってるんですけどもアキヤマショウタロウさんが先生なんですって?」
藤井≪はい。親父が校長先生なんです≫
「そういう写真を通じて実態を知っていただきたいというのが藤井さんのお願いです。この写真の展示会が8月27日に谷中のコミュニティーセンターでございますし講演もあったりします。9月には仙台でもあります。それから病院なんですけども呼吸器官感染症とか下痢・セキ・マラリア・天狗熱・破傷風とかいろんな病気があるんですけど500円1人払うと」
≪はいこの病院は基本的には無料でして一応シュジヒは建前上30円ですけどもお金が高いと子供たちが来ませんのでとにかく病気したり怪我したら病院へいらっしゃいと言う事で基本的には無料です。そのために皆さんに協力してもらって≫
「5500人から会員が増えないそうですのでまた徹子の部屋のほうにご連絡いただければと思います」