2002年10月21日
黒柳「五木寛之さんですよくいらしてくださいました。なんか古希お祝いを
五木寛之≪そうなんですよ(笑)自分でびっくりしてねぇ(笑)えーとか言って
「そうなんです9月30日が誕生日がそうで古希ってお分かりですよね皆さん80歳じゃないですよ(笑)70歳なんですけどもなにか出版社の方がやってくれたそうですけども
≪昭和7年生まれなんですね。昔は花の7年組みと言って石原慎太郎さん、大島渚さん、小田誠さん、青島幸よさん、岩城ひろゆきさん、白土三平さんもう山のようにねいらして大活躍していたんですけどもこのところちょっとねぇあれですね(笑)
「でもそれにしてもお母様がお亡くなりになったのは41歳。
≪はい
「だからそのときは目標は50歳だったんですって。そこまで生きられれば
≪まあ最初は母より長く、それから父が50代の半ばで死にましたので2番目の目標は父よりも長くということ。ですから両親の年齢を越えたときは本当にほっとしましたね。これで親孝行できたって。ああ
「そう。例えばなくなっていたとしても喜んでいてくれるだろうということでしょうか。
≪まあ2人がねぇ生き残した分をこう自分がかわって生きている。だから珍しいものを見たり旅行したりするたびに代わりにやってやってるよっていうふうに思いながら旅しているんですけどもね
「でもすごいんですよ70歳にちなんでですねまあいろんなことがあるんですけども日刊現代でずっと書いてらっしゃるコラムなんですけどもこれが26年。すごいでしょう皆さん日刊現代に書いてらっしゃるこれは毎週?
≪毎日
「あれ毎日なんですか!!
≪土日を除いて毎日書いています
「じゃ徹子の部屋も27年目ですから丸でいうと26年ということでほとんど同じ
≪27年もすごいですよね。
「いやでも毎日書いてらっしゃる。
≪ストック無し(書いて貯めておく事はない)でね新聞というものは新しくなくちゃいけない。
「そうなんですよね。
≪きょうの夜中の12時までに原稿入れる、それが翌日のお昼過ぎには駅のキオスクへ出ると
「だから今日の今日といっても今日は録画なんですけどもあの徹子さんのところへ行く徹子の部屋に出る。というのがちゃんと今日は新聞で出ているということです。それからTBSのラジオ五木寛の夜というのも24年目だそうです
≪はい入りました
「これは日曜日の夜。
≪11時半から
「1週間に1回
≪1回分とったり2回分取ったりしますけども。とにかく永遠とね続いていて本当に不思議だと思っているんですよ。自分が健康なだけじゃ続きませんからねぇこういう番組というのは
「そうですそうです。それは局の意向とかいろんなことが全部あってで聞いてくださる方見てくださる方がいますけどもそれが相まってなんか長くできるというのは幸せと行ったら幸せですけどもそれにしてもすごいなと思うんですよ。毎日書いてらっしゃる日刊現代の26年、TBSのラジオを1週間やってらっしゃる24年、そして金沢で泉鏡花文学賞というのお作りになってらっしゃるそれがもう30年。
≪はい今年30周年です。
「その他にに連載を5本持ってらっしゃる
≪(笑)
「そして後旅をしてらっしゃる。しょっちゅう。1週間の半分は旅をしてらっしゃる
≪そうです3日から4日くらいはもあちこち回ってますね。
「単行本は今年になって13冊もお出しになって
≪恥ずかしい
「この後もまだ年内に2冊出る。これはやっぱり毎日をお書きになっているものとか週に1回書いてらっしゃるものをまとめて
≪そういうものもありますし
「まぁそのために、本のためにお書きになったものも。目標は青春の門のうち12部のう9部シベリアまで書いてらっしゃるのでこれを完成させること
≪なんとか(笑)あと三部ですけどもはい
「70歳代で完結したいと思っていらっしゃるそうですけども。シベリアからフランスへ行ってまた外人部隊に入ってまた最後
≪筑穂へ
「筑穂へ
≪29歳で戻ろうと、主人公が。
「すごいですね29歳で戻ってくる。
≪で青春の門が終わると。
「だから青春の門なんですね。
≪そうなんですね。その後は中年の門とか、老年の門とか(笑)続きますから
「本当に老年の門も書いていただきたいんですけども(笑)それにしてもびっくりしたんですけどもいろいろなとこが疲れて腰痛とかいろいろなことがあるそうですけども1回も病院というところにいらっしゃらないんですって
≪縁がなくてね
「すごい
≪嫌いじゃないんですよ。本当に医学関係の本を読んだりするのが好きでね。新しい論文なんかをまめに読んでいますけども。なかなかお世話になるきっかけが。健康保険をずっと払い続けてきて1回も使ってないというのも僕のボランティアなんですよ。
「でもすごいですねぇ。私なんかも行ってないようでなんだかんだといって行くんですけども。それで健康法なんですけども不健康な感じの状態がいいんですって(笑)それが変なんですけどもって
≪人間というのは生まれつき病気であると、こういうふうに考えるわけですね。だから健康というものをことさら追求しない
「だから健康に良い物と人から言われてもすぐにそういうものを食べたりはしない
≪人間というものは一人ひとり違うように健康法も一人一人違うと思うんですね。でも今の医学は人間はみな同じという形で治療をするわけですからそれはとても無理があると。
「それはそうですよね。
≪ある人にとっては薬でもある人にとっては毒かもしれない。こういうことがありますから僕は絶対に人には勧めませんね。自分にとっていいということ。
「そうかもねそういうことありますね確かにね。本当にいつもダンディーでいらしていつお目にかかってもすてきだと思っていたんですけども何か歯は磨かない、なるべくお風呂には入らない
≪そんなこと(笑)
「すごいんですよ皆さん前にもそういう方はいらっしゃいましたけども。なるべく歯は磨かないお風呂にも入らない
≪髪の毛を洗わないとかね
「そうですってね髪の毛を洗わない。薬は飲まないただ声を出して本を読む
≪えとかですねむよくあるとかいろんなことがありますよ。あの取り合えずこまめに立ったり座ったりするとか
「ただカラオケにいらっしゃるんですって
≪カラオケは人の批評をするために行きます
「(笑)自分が歌うんじゃなくて
≪自分で歌ったことはありませんいまだに。
「ああそうでも歌謡曲の作詞をなすったんですって。
≪そうですあんまり歌謡曲が元気がないんでね僕はの歌謡曲が大好きなもんですから森羅のワサンの頃からきっと続いている音楽だと思っていますから元気を出せというふうに思うんですけども一向にそういう声が上がらないんでもこうなったら自分が恥じをかいてもいたずらしてやろうと。女人高野というお寺の話を
「田川トシミさんがお歌いになるという
≪お寺の歌謡曲って珍しいでしょう
「そうですね
≪ご詠歌のような
「ご詠歌のような(笑)女人高野というので10月にお出しになるそうですけども。
≪そういえば永さんに京都大原三千院というのがありましたね
「そうなんですよねあれもヒットしましたからね。
≪寺というとみんなびっくりするんですけどもだれが歌うんだといいうけどもねいくんじゃないですかね寺に。
「それで毎日の生活ですからを旅にそうやって1週間の半分はででいらっしゃってそして奥様とは携帯でしょっちゅうお話しになる
≪携帯電話使わないんですよ。普通の電話で(笑)
「おおすごいそうなんですか。私も携帯電話持ってないんですけども今時珍しいといわれますが。それから奥様はお医者さまだったんですがお辞めになって今は
≪ペ-パードクターといいます
「どういうんですかペーパードクターって?
≪運転しない免許証。(笑)
「そうかそれと同じでねぇペーパードクターはお医者さまのあれは持ってらっしゃるんですけどもそのかわり何か版画をやってらっしゃる。
≪15年ぐらい前からちょうど女性が更年期症状で大変な時期にぶつかりますよね。そのときに本当に彼女も大変だったんです。そしても傍で見てられないぐらいいろんな乗り越えなければいけないものが多くてね不整脈が出るわ心臓の具合いも良くなくなるそういうときに学生のころから非常に好きだった絵とめぐりあってそうだって自分の天職は絵だとこんなふうにどういう訳が突然目覚めてうそれからもうほとんど寝食を忘れて、僕もほとんど自分のお茶は自分で入れていますから。
「自分のお茶は自分で入れているぐらい奥様は
≪部屋中が版画の木屑でねぇいに足の踏み場もないという感じなんですけどもすごくそれで乗り切っていきいきとして仕事をしていますんでいやすばらしい幸運に巡り合ったと思っていますね。
「そうですねお医者さまでいらっしゃるんですけどもそれで普通はいいじゃないかと思うんですけども奥様におなりになってしばらくしてとてもすてきな方なんですけどもお目にかかったことも何度かあるんですけどもすてきな方で。個性的な方でいらっしゃるんですね。
≪個性的ですよ(笑)
「見るからにでああこういうお医者さまもいらっしゃるんだなと思ったんですけども今はそういう版画をおやりになるということで。まあそうするともうひとつですね五木さんの特技だと思うんですけども(笑)読書をなさるというのがすごいんですけども1日に30冊ぐらいをお読みになるって。1日に30冊ですよ皆さん。なんか早く読む
≪それはもう非常に恥ずかしいことでね最近遅読の薦めという本の推薦文を書いたんですけどもゆっくり読まなければだめだという。だから早く読むものは早く読むゆっくり読む物は本当にじっくりと暗記するぐらいに読む
「早く読むって斜めに読むってよくいますけどもそれだって1日30冊もなかなか読めないですよね
≪ページで読むというかブロックで読むというか
「ああそのページの面白いところを読むと
≪全体をパッと読みますよ。頭の中に字がスクリーンにパッとうつるんですよ。昔新聞小説を書いていたころに海外に行っているでしょうで海外で新聞社に直しますよね。で下の段の右から6行目の丸はバツになっているけども点になっているけどもそれを丸に変えてくださいというと手元にゲラがあるんですかと聞かれるんですけども将棋や碁を打つ方がこうきれいに見えてるようにが頭にうつっているですよ。
「昔はファクスがなかったですからねそのころは。
≪そうですねだから右から3行目の段落のところというふうには言えますから1いうことは画面に映るんです。それを見てスクロールしていくということですね。
「まぁ土日で150冊ぐらいお読みになったこともあるそうですけども。でも今は遅読の進めを皆さんに進めていらっしゃるそうですから(笑)
≪内容超えて1冊の本をゆっくり読もうとそういう感じになりました。
「さてまぁたくさん本を出してらっしゃる中で”運命の足音”という本をお出しになったんですけどもその帯にですね”これを言ってしまわなければ私は死ねないとずっと思っていた”と書いてあります。ちなみにこの表紙の装丁といいますかこれは奥様の版画だそうで。そこに大きなものもお持ちいただいたものがあるんで。まあ今まで何度も内容についていろいろお書きになってみようと思ったけどもやっぱり失敗したそうでいらっしゃってって私も特にこの中ではいろんなことを書いてらっしゃるんですがお母様が亡くなったときのこと、亡くなる前のことそのこと書いていらっしゃるんですね。それがやっぱりそれを書くために40年書いてたんじゃないかという風にお思いになったそうですけども。
≪あの何度も毎年夏になるとだいたい命日が近づくとあの小説の形にして書こうとか寓話の形にして書こうとかいろんなことで試してみたんですけどもどうしてもうまくいかなくていやはりダメかなというふうに毎年毎年思っていたんですけども今年は不思議にねぇすらすらとかけたんですよ。やっぱり何かあったんじゃないかと思いますけどね。戦後57年というだけではなくて昨年の9月の同時テロに以来の世界のこととかおまえこれ書けという声が聞こえたような気がして思い切って書くことができたんですか
「つらいお話しなんですがちょっとコマーシャルをはさましていただいてそのことをうかがわしていただきます。もう何度もあの引き上げの時の話朝鮮半島から引き上げてらっしゃるときのお話しとかお父様のこととかいろいろとうかがってはきたんですけども本当にあのどうだったのかということをお書きになってらっしゃるのでちょっとうかがわしていただきたいと思いますがちょっとコマーシャルございますのでコマーシャルです。
黒柳「運命の足音の中のあとがきにちょっととばさしてもらって申し訳ないですけども今ちょっとおっしゃったんですけどもそのことを書いていらっしゃるので。小説を書き始めて以来何度その出来事を作品に書こうと考えたことだろう、しかし私には母親のこともその他のことも小説という形で作品化するには強い抵抗があって書けなかったのだ。小説としてかくということは作品の構成を工夫することである。文体の洗練も必要であろう。いかに真実を描くといっても当然そこには創作の無意識の技術が働く。私はそれが嫌だった。このことを小説として世に送ることなど許せないことだと感じたのである。という書き出しでちょっと飛ばさしていただきます。私がやっとそのことをかけるようになったのは私の心の変化ではない、もう書いていいのよという母親の声が最近どこからともなく聞こえるようになってきたからである。その声は私を許し父親を許しソ連兵たちを許しすべての人間の悪を悪のままに抱きとめようとする静かな声である。恥辱はいちじょうすでに恥にまみれ果てた自分ではないか、無垢な少年ならともかくこれ以上何を恥じることがあるだろう。このことは書いてからでないと死ねないと長年思い続けてきた。これを最後にしばらくはこの様な文章を書くないだろう。大河の1滴以来ずっと目にとめてきてくださった読者の方には心から感謝したいと思う、というようなあとがきがあります。そしてあのこれはとてもつらいので皆さんには読んでいただくということにしまして私はとってもお母様が・・・平壌ですねいらっしゃってなくなって亡くなったときのことを話してその時どういうふうにしてなくなったかわ話されませんでしたけどもお母様が41歳で亡くなってお母様の体を洗って差し上げた時にこんなにやせてたっていうお話しをなさっていたんですけどもただお父様がも学校の先生でいらっしゃいましたから。それで戦争が終わってもなんか全部お父様が抜けちゃったような抜け殻のようになって中学1年生だった五木さんがまあ弟さんと妹さんの手を引いて日本に帰っていらしたんですね。その時にあの婦人の友社が九州でやっていった引き揚げてきた人たちにやっていたことに対して非常に関心をお持ちだとおっしゃりましたよね
五木≪はい。援護運動をいろいろサポートしていていろんな形で応援をして。
「それはソ連兵によって妊娠とかそういうのさせられた人たちを九州の博多の郊外でソウハ手術とかそういうことをしてとにかく困っている人たちを助けていた状況を中学1年生のときにご覧になっていらっしゃったということを話してくださったんです。そしてそのときにどうしてそういうことに興味を持ったんだろうなということがとても私にはちょっと疑問だったんですがあのまあこの本をちょっとご紹介しますと、軍隊の占領に略奪や暴行レイプはつきものである。そういうものがなかった戦争というものはない。これはそこにソ連兵が入ってきたことを書いていらっしゃるんですが。私もいろんな国を歩いていますと本当におっしゃる通りですよねぇ何もないということはないんです。そしてあのちょっと飛ばさしていただきますけどもちょっとこれはあの私読むのはちょっととてもつらいんで、死んだように目を閉じている母親の浴衣の襟元をブーツの先でこじ開けた、これはソ連兵がですね。彼らは笑いながら母の薄い乳房を靴でグット踏みつけた。そういうことがありましてそして2人がかりでソ連兵が母の寝ている敷布団の端を持ち上げると気勢を発しながら運んでいき両側の縁側から庭へセメント袋を投げるように投げ出した。その時に私はどうしていたんだろう大声で何かを叫んだ記憶があるがそのことは覚えていない。母さんと叫んだがようでもありまたお父さんと叫んだような気もする。自動小銃を突きつけられたまま私の裸の父は、お父様はおふろに入っていらっしゃったので、身動きもせずにそれを見ていた。やがてソ連兵がめぼしいものを根こそぎ持ち去って私と父親母親を抱いて庭から居間へ運んだ。母は一言も言葉を発しなかった。私と父親をうっすらと半眼で見つめただけだった。事件のあった日から母は何も口にしなくなった。全くものもいわず父親がスプーンで粥を進めても無言で目をそらすだけだった。やがて母は死んだ。私と父親とは母の死後ずっと共犯者として後ろめたい思いを抱きながら生きてきた。父が死ぬまで彼とはお互いに目を見つめ合うことが1度もなかったように思う。最後のところですけどもこういうこと本当に書こうとお思いになったのをきっかけとしてお母様のお友達からあなたのお母様ってこういう方だったのってお手紙をいただいたということが始めにあるんですけどもその時に書いてあったお手紙の中の言葉なんですが先生をやってらっしゃったんですね。お母様がオルガンとテニスが上手でとても明るくとても優しい女先生でしたとお友達の・・・つい先ごろ59年後にお母様の教え子からですか
≪写真と
「写真とお母様の。まぁあとはちょっと読んでいただいて。中学1年生ってもうどのくらいのものか私も疎開していましたからよく分かるんですけどもまぁ本当にお書きになれなかったということがでも特に男の人がお母さんのそういうふうにかけなかったというのがねとっても。分かるような気がして
≪僕はねぇトットちゃんを読んだときにねなんて幸せな人なんだろうなんて幸せな子供がいたんだろうってちょっと嫉妬しましたよ。
「そうですよねぇ。私も本当にそう思うんです。あのね皆さんのお話しをねここで私が聞いて本当にそうですねっていうふうに同情して私がもし涙を流せるとしたら私がそういう経験をしてないからなんですね。そういうふうにも書いてらっしゃるんですけどもやっぱり本当にそういう経験をした人は何が起こってもそんなのは私のに比べたらたいしたことはないわとそういうふうに思ってなかなかそういうふうな同情をといいますかねそういうふうにできないものだというふうに言った人もいると書いてあります。
≪それはとっても辛いことをなんですね。自分の心が枯れてしまっている。と言うことは人間は苦労しない方がいいなというのが僕の昔からの考えなんです。本当は苦労しない方がいい
黒柳「お父さんは師範学校の先生でお母様をは小学校の先生をあちらでしてらしたんで平壌で。小林千登勢さんが
五木≪ええあの、山手小学校という小学校なんですけどもで彼女が卒業した学校に在学していたのかな学校の教師をしていまして
「まあ千登勢さんも38度線をどんなふうにしてお父様たちと一緒に越えたかということをここで話してくださいましたけどもそれも本当に引き上げてくる時のつらい話だったんですけども。あの・・・まあ・・・
≪ただ自分のことだけをですねぇを考えるというよりはこれは黒柳さんが世界中を歩き回ってつまり戦争というのは黒白をはっきりしていて戦後が大変なんですよ市民にとっては。それで本当の市民の戦争というのは戦争が終わったときから始まる。ですからアフガンにもパレスチナにもあるいはコソボにも僕と同じような12歳の少年がいて同じような母親を救えなかった父親がいてまぁそういうことを考えると自分だけの体験として語るということはできないなという気持ちがどっかにありました。ですから相手まあこういうことを書くということは同じことを自分で自分を責めながら生きている人がいっぱいいると思うんですよ。で例えば今拉致家族の問題でねも心がかきむしられるような気持ちもしますし僕も日本海沿岸に住んでいたものですからひとごとじゃないと思うんですが。自分で自分の赤ん坊を現地の人に託したり預けたり売ったり物と変えてきて帰ってきた人たちがどれだけいるかということはねぇその人たちの口からは言い出せないことだしだれに抗議することもできないです。それを何と言ったらいいかわからないけども僕は放置家族と言わなければいけないかなと思っているんですね。
「残留という言葉ではなくて
≪残留というと自分から望んで残ったように思いますからねではなくてね、そういう方たちが何千何万という数字すらわからないままにねこれから先も歴史の闇の中で忘れさられていくだろう。でもその時の状況の中でその母親たちを責めることはできないです。それは共倒れしていいと考えるのはそれは母親のエゴイズムですよ。やっぱり命があった方がいいと考えるべきですし、自分は死んでも子供は生きていてほしいとどこの国でもとこう思うからでもその人たちは戦後57年間ね1日もねそのことを忘れて暮らすことはできなかったと思いますね。そういう人たちに”いいんだよ”ともういいんだよとそれはあなたたちの責任ではないようと私は言いたいですよ。それはやっぱりが戦争だとか敗戦だとかそういう状況の中でね親鸞が言っているようにね”心の良きにてあらずは悪しきにあらず”っていうね。もしもそういう状況さえなければ本当に幸せに母子で暮らせたかもしれないわけですからとそういう人たちに向かってそれはいいんだよということを、僕もそういうふうにそういう子供を自分で抱えて他人に渡した人間のひとりですからそれを言わなきゃまずいなと。死ねないというのは母親のことよりはむしろねそういうことを言わなければいけないなというふうに思いました
黒柳「まだお話しを伺いたいことかはいっぱいあるんですけどもまた今度。それだけソビエトの兵隊に対して憎しみを持っていらしたのになぜ1番最初の直木賞の青ざめた馬を見ようそのほかはソビエトのことロシアのことをこんなに書いてらっしゃるのかということを伺いたかったんですけどもそれはまたの機会にいたしましてさっき皆さんがご覧になった奥様の木版画
五木≪はい個展が11月の16日から11月いっぱい横浜、新横浜の駅の近くなんですけどもオーエムギャラリー
「オーエムギャラリー
≪というところで版画とか銅版画とか木版画とかたくさんいろいろね(笑)にたくさんありますからぜひご覧になっていただきたいと思います
「じゃこの運命の足音の表紙になったものもその時に
≪そうなんですそれがメインになります
「そうですか。でもアレですよね奥様と全然違うお仕事だったのに初めは。今こんなふうにしてひとつのことを一緒にできるようになったのも
≪そうですね。僕は彼女の絵のファンですからとてもねいい絵をかくというか身内の人間としてではなくてね
「どうもありがとうございました
≪ありがとうございました