本日の徹子の部屋ゲストは石川文洋さん

2002年11月5日

黒柳「どうもうしばらくでございました。ご活躍で写真家でいらっしゃいます報道写真家でいらっしゃいまして先程ご紹介申し上げましたようにベトナム戦争の時ベトナムに住むようにして本当にあそこ、何年もずいぶんいらしたんですね。あの時ベトナムには

石川≪そうですね。まる4年住んでいました。

「ベトナム戦争中ですからねあの写真を撮りになったのは。まあ1965年から68年ぐらいまで

≪そうですね68年

「ほとんど住んでいることになって。大変なんですけども。

≪はい

「さっきの写真なんですけども1番最初に皆さんに見ていただいた写真、これはやっぱりベトナム戦争と関係あるんですか。もともと沖縄のご出身でいらっしゃる石川文洋さんなんですけども。特にそういうお気持ちが強いんだと思うんですけども。この写真なんですけども、これ普通のバス?

≪そうですね。今の言われる1号道路と言っていましたけども沖縄のメーン道路ですよね。そこはベトナムの爆撃機のB 52が飛んでいくと

「大きいですね。B 52という爆撃機。嘉手納基地からベトナムに向けてこういう写真をおとりになるときに写真家の方はいつもここ通っているからそういうふうになるかもしれないと、それとも偶然なんですかこの写真は?

≪家やっぱりその日の風によってですねこちら飛んでいったりあちらを飛んでいったりしますからね。今日はまあこちらから向かい風が飛んでくるからこっちで待っていようということで待っていた

「なるほど。

≪まあこの偶然バスがですね

「偶然バスが来た。まあそうでしょうね。報道写真家の方の写真手で瞬間をおとりになるんだから

≪待ってますからね粘りますからね。

「粘り強さにかけては本当に粘り強くなければ報道写真家にはなれないというふうに思うんですけども。数多くの写真を撮っていらっしゃるんです。それで今年は沖縄復帰30周年

≪30年ですね

「30年ということで特に思い入れがおありだと思うんですけども。あのお日アメリカの基地のそれからヘリコプターの中とかそういうものも随分とらしておもらいになった

≪そうですねぇベトナム戦争中ですねたまたま私はベトナムから帰って行ってまたベトナムに戻る予定だったんですけども、その時に69年の2月4日にですね大ゼネスト嘉手納包囲をして沖縄最大のゼネストをしようということでそれを取材に行ったんです。そしたら私はベトナムのプレスカード持っていたからをそれでいろんなものを撮影できました。

「だからこれなんかはヘリコプターなんですか?

≪ヘリコプターですね。当時はやっぱり基地の上を飛ぶヘリコプターに乗るということはかなり難しかったんですけどもねぇ

「そうですよね。兵隊さんと同じ立場でお乗りになるわけですから。アメリカの。それから基地の中の当時の基地の中も撮らしておもらいになった。

≪はい。やっぱり中でベトナムに行く前の兵士がですねいろんな訓練を受けていたりですね、帰ってきた兵士。

「そうですねで今年の2月ごろにはアフガニスタンに行っていらっしゃった。

≪はい。アフガニスタンに

「はい私も2月に行ってたんですよ。ちょっと日が暮れると寒いですね。

≪そうですね。あそこは1,800メートルぐらいあるでしょう。都市そのものがね寒いですよ。特に私の泊まったホテルは冷房、暖房もない(笑)

「電気がない。私もそうだった。ユニセフの寮みたいなところにいましたけどもね。こういうはもちろん出ないですし、電気もしょっちゅうしょうちゅうあの消えちゃうんでまあこういうところにいらっしゃってまあカブール、ジャララバードとかにいらっしゃって。あそこもまだ定まらない感じでね

≪そうですね。あそこの都市の破壊というものはすさまじいですね。

「バーミヤンにいらっしゃったって。私たちは初めてタリバンという名前を聞いたのはバーミヤンの仏像が壊されたときだったんですけども。このとにかくこれでカブールの街の中ですよね?

≪ええ

「街の中でもこれは家なんですね皆さん。家というふうには思えないですよね。

≪そうですね

「なにか砂漠の中にいたみたいですけども。町中

≪これは一部分だけをとったわけではないんですよ。もあちこちがですねこういう破壊されている。

「土みたいにして作ってある家だったりするからそれが壊れてまた雨が降ったりするから本当に廃虚というか。私もずっと町の中を通って行くときにアフガニスタンのユニセフの職員の人にあれはだれが壊したの?王宮とか全部そういうところも、あれはだれが壊したのって聞くでしょう、そうするとねぇあなたね20年以上もね内戦があってで敵はどんどん変わるんですからねだれが壊したっていいちいちいえませんよっておっしゃってましたけども。とにかく首都のさっきもご覧になったのは首都ですからねあれが首都だとはちょっと思えない。さっき私がバーミヤンていたからこれはバーミヤンだと思ってらっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。これはカブールの街の中ですから首都でしかもアレですよねぇ東京なんかは割と早く復興したんですけどもはこの間までタリバンがいたところもありますけどもなかなか復興は難しそうな感じがしますね。でもずいぶんソマリアだとか、サラエボとかいろんな所を回りになって廃虚と化したところをご覧になったけどもこのアフガニスタンほどひどいところはご覧になったことないんですって

≪そうですねあの戦争中のねサイゴン、今のホーチミン市に住んでいましたけどもこれほどやっぱりひどくないですね1部は破壊されていましたけども。それからあの北ベトナム当時のハノイ。ハノイもそんなにひどくなかったですね地方へ行くと見事に壊されていましたけどね。それからはソマリア、サラエボ、特に私の見た世界の戦争の中ではこのアフガニスタンのカブールが1番ひどいですね。

「なるほどねえ。地雷がたくさんあるということでアフガニスタンは有名で一千万個約あると言われてるんですけども、これはどういう状況でお通りになったんですか?

≪あの向こうでは今8つのNGOですけども入っていて、その人たちがグループで各地で地雷を撤去してるんですね。ですからこれはあのとにかくバーミヤンに行く道の途中ですけどももあってずっと除去作業していて道路の横にですね赤い石とか旗を立ててですね

「そうですね石に赤いペンキを塗ってあるんですね、そういうところは危ないということで。ただでこれじゃちょっと見分けがつかないという感じがするんですね。あそこに石が点々とありますけども

≪ずっと並んでいるんです

「赤いペンキがぬってあってここから先は地雷があるから危ないと言って赤い旗が立っているんですけども被害はもうたえないですね。

≪これはもう戦争中も被害に遭っているそれからは現時点でも毎日のように被害に遭っている。これからもずっと被害に遭う。

「そうなんですよね。まあ随分被害を受けた人たちも写真に撮ってらっしゃるんですけども子供ですよねぇやっぱり。

≪あのアフガニスタンの子供というのは本当に明るいでしょう

「かわいい

≪可愛いです。この被害を受けた子供たちの表情を見ると本当につらいですよね。

「そうですよね。でもここに連れてこられて一応義足とかつけてもらったり治療をしてもらった子供は幸せで、そうでない子供が多いわけですから。

≪そうですよねここへ来るということはまた生命があるわけですからね。犠牲になった人も多いわけですからね。やっぱり子供のような弱い人たちにねしわ寄せがいく

「本当にそういう写真もたくさん撮ってらっしゃるんですね。その後地雷の被害を受けた子供たちの写真とか、ただあの去年からタリバンがいなくなったんで女の子たちが小学校に、学校に行ってもいいといわれてそれから外で仕事をしてはいけない女の人たち先生やなんかが学校に戻ってきた。そういうのがやっぱり

≪これは見ているとですねみんなの勉強できる喜び、社会で仕事ができる喜びというのは非常に強いものがありますね

「いかにも机もイスもないコンクリートのところにちょっと何かを引いて座って勉強しているぐらいなんですけども。

≪そうなんですよ。机もイスも全部盗まれちゃってそれからこの学校だけじゃないですよ。

「全部ですよねほとんどですね。

≪でもここはまだ学校が教室があるからいいですよね。

「そうそうそうそう。ここは何かタリバンが占領していたかのこれは学校じゃないかしらと思うんですけども。タリバンがやっぱり寒いものだからずいぶん燃やしたって言っていました。机やなんかをね。まあそういう略奪やなんかがあったんですけども。あの子どもたちの笑顔とかそういうものが石川さんが写真に撮るときにとてもうれしくていらっしゃると思うんですけども。女の人とか

≪またですでこのアフガニスタンの人たちというのは本当に写真が好きなんですよね。

「そうなんですか

≪私は他でですね写真を撮っていたらですねタクシーがこうパッと止まったんですよ。何かなと思ったら運転手が窓を開けて俺の顔を撮れと。写真に撮ったですねありがとうと言って取ってもらって写真が欲しいというわけではないですね。

「何かうつりたいという感じ。今のは水汲み場のところなんでしょうかね。子供たちが集まっているんですけども。やっぱり水というのはいい水飲み水がないですから、ユニセフなんかも一生懸命掘っているんですけどもね。でもこういう夕方になると零下10何度というところになるところで子供たちは裸足でいる子がいっぱいいましたでしょう

≪そうですね。話でもあるし

「ここは雪も積もってないし氷もないからわからないですけども本当に寒いいてつくようなという感じなんですよね。みそいうところ裸足で歩いている子がいっぱいいて

≪冬は寒いし夏は暑いし

「去年は7月に行ったら50度ありましたから。日こんなに差のあるところってないと思うんですけども。ただアレなんですってでこれは(写真)かわいいんですけども弾痕のあったところ

≪ここは破壊されたところの地域の1部ですね

「女の子はかわいいですけども弾の跡がどこにでもある。それから石川さんはとっても気にしてらっしゃることは子供たちの絵

≪絵ですね。去年は沖縄で今年は京都でベトナムの子供たちが描いた絵の展示会というものをですねえ私の写真展と一緒にしたことがあるんですけども。で今度は向こうへ行ってですね道路で働いている子供たちを収容しているところがあるんですね

「それはアフガニスタンの

≪アフガニスタンのカブールの中にですね。それでその中で書いてあった絵ですね。

「ずいぶん空爆。

*戦争をテーマにした絵がたくさんある

≪空爆や戦争で。ベトナムの場合はもう戦争が終わって27年たちますから昔の記憶や写真、両親の記録や写真を見て書いている。アフガニスタンの子供たちは自分の記憶で書いているんですね。

「またタリバンが銃を持っているところとかね。やっぱりこの飛行機があんな大きな飛行機はきっと見たこともなかったんでをとても印象に残っている。今の現在の子供たちの絵ですもので。

≪そうですね。やっぱりこの子供たちはこういった状況を心の傷として将来背負っていくと言えますね。

「何かは戦争の絵ばっかりなんだそうですけども。でもこれはですね私はボスニア・ヘルツェゴビナでもコソボでもみんなそうでしたね。子供たちは黒い色ばっかり使うのね。赤いのとから黄色いのとか使えばっていうと「嫌い」と言ってただ黒いのばっかりでぬっていましたね。心の傷がねぇやっぱり

≪色に出てくるでしょうね。

「そうなんですね。やはり写真を撮りになるときに1番やっぱりうれしいのは子供の笑顔女性のやはり

≪そうですね。傷ついた子供たちが暗くてその他の人たちは本当に繰り返すようですけども本当に明るい。あれはやっぱり救いですよねぇ。

「そうですよね。

≪やっぱりいい国だなと思いますね。

「なにかクリーンを復興させるのはこの笑顔だって。

≪そうです

「いつもお思いになるそうですけども。まあ男の人は集まるとやっぱり戦争とかつらい話をするんだけども女の人たちはわりと明るく。それはどこの国もそうでしょうか?

≪そうですね日本も日を女性の力というのは強いいいですけども、アフガニスタンを復興させていくためにはですねぇ女性の力というものはとても必要になると思いますね。

「そうですねぇ今までずっと家の中に置かれて外に出て働けなかったからその力はきっとすごいと思いますね。ものね何人

≪まあいろんな有識者の座談会にも行きましたけどもやっぱり優秀な女性というのは本当に多いですね。

「多いんですね。特にアフガニスタンは多いんですね。

≪あの人たちを見ていると安心しますよね。

「そうですね

≪将来安心というか力強く感じる。

「教養のある人そしてやはり頭のいい人、知的な人とかがああいう中でねそれを育てていったのかと思いますね20年も戦争をしてたのにね、内戦してたのにって思いますけども。石川文洋さんのアフガニスタンの写真を今ご紹介しましたけども本当はあの沖縄の方でいらっしゃるんで沖縄の写真ベトナムの写真をなぜこんなに命をかけてお取りになったのかというのはコマーシャルをはさみまして石川文洋さんの生い立ちというか沖縄のご出身ということにあると思うんですけどもそこをちょっとお話ししていただきたいと思いますちょっとコマーシャルです

黒柳「石川文洋さんは報道写真家でいらっしゃるからもちろんそういったそういうものを皆さんにお伝え私たちに伝えて下さるために写真を撮りになるんですけども特にこのベトナム戦争の時それから沖縄のこととってもあの考えてらっしゃるということは沖縄出身なんですけどもいつも自分の中にこの負い目みたいなものがあるって

石川≪そうですね私を38年の生まれなんですけども沖縄戦の時はですね本土に来ていたんですね。

「地上戦があったときはこっちに。

≪こっちにいた。ですからと沖縄戦を体験していないということがですねまあコンプレックスのように残っているんですね。というのは沖縄に帰るとそれを体験をしていた人たちが同じ年代でいるんですね。そうするとよくあれも生き残っていて私は本土にいて

「まぁ小さかったですねまた

≪それは子供のころですね。5歳のときですから

「それにしても島民の方は随分たくさんあの時なくなったんですね

≪そうですね。もう本当に4人に1人、3人に1人

「122,000人。と言われていますけどももっとかもしれませんけども。でお父様は小説家でいらっしゃった

≪はい。沖縄で歴史小説を書いていました。

「歴史小説を。で大阪にいらしてそれから今度東京の近辺で船橋にそこで少年時代を

≪そうです。

「その時沖縄って呼ばれていたんですって

≪そういう点では私の小学校八坂小学校というんですけども1番有名だったですね。2つ点があるんですね1つは沖縄、もうひとつは父が入学の時に赤いカバンを買ってきたですね。赤いカバンといわれて。赤いカバンの沖縄といったら

「石川さんと分かってしまう。

≪特に私はアサドウと言っていたものですから中学校までは

「石川さんじゃなくて

≪アサドウという名前が非常に珍しくて先生がちゃんと読める人が先生がいなくてみんなアンリとかヤスザトとかですね。

「じゃ皆と字が違うということで。それで初めて沖縄にいらしたときは何歳の時?

≪高校を卒業してですね私は定時制の高校にいったので18歳です。

「初めていらっしゃった沖縄はどういう

≪5歳からですね13年ぶりですからね、で私の心の中には故郷小さいころのイメージがまだ残っているわけです。その小さいときのイメージと沖縄が戦争で破壊されたと基地になっているというイメージがあってそれで船で行きましたからね当時は。近づいてくると故郷とはどういったものだろうかということで本当に胸がドキドキしました

「まだパスポートが必要だった

≪パスポートが必要だったです。はい。で今はですね他の港につくんですけども当時は那覇軍港のこっち側についていたんです。港ですから基地が見えるわけですね。今の軍港は今は静かですけども当時はもいろんなものが動いていましたからね。そこでやっぱり基地の島なんだということが強く印象に残りましたね

「それからラジオで聞いていらしたら幕普段日本にいるときは聞くことのないコマーシャル何ですかで向こうのいろんな歯磨きの名前とかチューインガムの名前とか

≪私は首里なんですね。那覇の港からタクシーに乗ったときにタクシーのコマーシャルでコルゲートとかありましたでしょう。そういうのがどんどん流れてきてやはり本土と違うなと思いましたね。

「でもそのころまだ焼け野原にバラックが。

≪そうですね。またあの時は私のいた首里なんかでもそういうかやぶきの家もありましたし、トタン屋根もありましたですね

「東京は割と復興が早かったんですけども、それでもずいぶん長いことなど考えてみたらあれですね私も音楽の大学に行っているときにまた池袋の方はヤミ市みたいなのバラックがありましたですね東京でもねぇ。

≪結局昭和32年ですからまだ戦争が終わってで7年しかたっていませんからね。

「それはそうかもしれませんね。でそういうことがあったのでその後毎日映画社というところにお入りになって大人になってですけども。それでよく沖縄にもいらっしゃってそれで写真を撮っていらっしゃったんですがベトナム戦争が始まってそして沖縄から

≪沖縄から行きました

「ベトナムに飛行機が出ていったのさっきもを取りになったのがいっぱいあったんですけども。でも今年30周年になるんですけども沖縄復帰その復帰の時の写真も撮っていらっしゃるんですね復帰の日の

≪復帰の日ですね。1972年5月15日ですね。午前0時から24時間ですね1日もありました。復帰の日の1日は

「みんなの顔が違っていましたかその時は?

≪そうですね復帰に対する期待というのが非常に大きかったですから、当時の沖縄というのは復帰にて一丸となってですねって運動に参加しましたから。

「沖縄には国際通りというところがあるんですって、その国際通り(写真)これですか

≪ええ

「これで私よく見てみると右側通行なんですね。当時はね

≪当時はそうですね

「今はもう左側になっていますけどもこの当時はアメリカのように右側通行なんですね。で左側のが向こうから来て右側のがこっちから行くという形になっているんですけども。みんなここで持って大変なお祭りをやっていたんですか?

≪やお祭りというよりもでもですね。沖縄は復帰ということで沖縄の人たちは本土並みと基地の縮小も含めてですねそれと核と核抜きとかをのぞんだけどもですね自分たちの思ったような復帰の形にならなかったということで当日ですね5月15日夜にデモしているということで。沖縄処分糾弾と書いてありますね。

「お祭りじゃないですね。

≪はい。沖縄処分というのはいわゆる琉球処分というで前要するに琉球王国が明治政府に吸収されたときも処分と言っていますけども、今度はそれと同じようにですね

「沖縄は本当にそういったことではねぇお気の毒な歴史が繰り返されているところですのでね。まだまだお写真があるんですけどもちょっとコマーシャルです

黒柳「石川文洋さんはお子さんのアサトさんというお名前だったとさっきおっしゃったんですけどもアサトというのはのは確かに珍しい。アサトというのは

石川≪安心の安に里ということです。母方の

「のちに石川さんにおなりになってた。ちょっと写真に戻るんですけどもベトナム戦争の時本当に沖縄が基地だなとつくづく思ったというふうな写真をたくさん取ってらっしゃるんですけどもこれもやっぱり中からおとりになったですか?

≪そうですねベトナムの中でのアメリカ軍の作戦そのものがヘリコプターを使った作戦だったものですから。

「そうですよで映画を見てもそうですから。

≪ありましね黙示録とか。

「そうですそうです大きいびっくりするようだ。

≪この兵士たちはこれからベトナムに行こうとする兵士ですね。沖縄で訓練をして。

「それからこれから行こうとするベトナムに行く兵士たちの中からとったという。それからやっぱり既にデモ隊とアメリカの人たちの声ですごい写真なんですよ皆さんこれは、したがデモ隊

≪はい。これは結局2月4日ですね沖縄の最大のデモをしようというときに要するにみんなB 52が飛んでいってベトナムの人たちをここで爆弾を落として傷つき死んでいきますからですねそれに対して反対をすると。その反対をしている頭上を飛んでいくと。ですからみんな怒っていましたね。

「だから本当に報道写真というのは本当に皆さん、下にキャプションがないとちょっとなんだかわからないかもしれないですけども本当に話をうかがってこの写真を見るとやはり写真てすごいなと思いますね。やはり話を聞くのももちろんですけども写真を見てその話を聞くと本当にすごいと思うんですか。(写真)これは沖縄がどう変わったか同じ所から撮ってあるんですよね。1番上の写真が20年前になるですね。ちょうど。

≪半島がありましてですねこっちにヘンザ島、こっちにミヤギ島こっちにイケ島というふうに3つ島があったんですねぇ。

「橋があるんですね

≪そこにその石油の基地を作ろうということでですねそのミヤギ島では・・・反対運動が起こったんですけども今はですねそこに橋ができて海中道路ですねヘンザとミヤギ島の間は埋め立てて

「1番下の写真に行っていただくと20年前です。これが現在ですかね。

≪そうですね

「埋め立てちゃった

≪向こうに海があってですねわたしはこちらの島にですねトウバル風いうところで校長先生のですね家で向こうを眺めながら海があるころですね

「初めの写真にはあれ海なんですね。

≪海なんです

「1番最初の写真を見せてください。海ですね。これ20年前ですね。で次も海なんですけども3年後ぐらいですから。いや1年後ですか。そして1番下の写真埋め立てちゃってすごいですね。変わりましたね

≪校長先生と海を見ながら泡盛を飲んでキラキラ向こうで光で海を見ながらそういう風景もなくなりましたね。

黒柳「2日さて現在の沖縄なんですけども基地の街はそのまま残されているということで、あの本当にこれもまた象徴的な写真だと思うんですけどもこれはどういう

石川≪これは読谷村ですね。で特殊部隊がパラシュート訓練をしているところ

「下では農村。

≪そうですね

「働いているところ

≪まあ普通に見るとですねなんかこうのんびりしているなと思えるかもしれないけども異様な風景ですよね。あの農村、農場というのは生活の場ですからね。そこでですねパラシュート訓練をしているですからね

「であの来年の3月10日の大空襲の日に65歳におなりになるんで日本縦断北海道から沖縄まで歩くをつもりだそうで

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