2002年11月26日
黒柳「どうもしばらくでございました。今日のお客様は芦野宏さん。シャンソン歌手でいらっしゃいます。そして歌手生活が来年で50年におなりになるそうでございましてNHKの紅白歌合戦は10年連続でお出になったという方でもいらっしゃいます。それから12年前ですがフランスの政府から日仏親善日本の家庭にシャンソンを普及させたということで現在のフランスの大統領、当時はパリの市長でいらっしゃったシラクさんから勲章をもらいになった。おめでとうございます。
芦野≪直接いただいたんです
「おめでとうございます。もらいになったそうですけども。その時のお写真で奥様とご一緒に。このときどんなお気持ちでいらっしゃいましたか?
≪まあちょっと突然だったものですからちょうどパリにいるときにパラディラタンに出た翌日に、だったからちょうどパリにいましたのでパラディラタンに出ていた人たちがみんな会場に集まってくれてパーティーをしてくださったんです。
「そうなんですか。まあああいうふうに何か儀式ばった感じではなくて本当に直接その方にお渡しくださるところがね
≪それででシラクさんがね枯れ葉とかね、みんな覚えてらしてね書いたものを読みながら言ってくださった。僕はびっくりして。
「そうですか。フランスの人たちでも若い人たちは今はいわゆるシャンソンというものを知らないという人が多いということでね。まあ奥様と二人三脚でずっとやってらしたので奥様は訳詩をなさったり
≪あのその時ではないです。家内が受賞したのは1番最初にパリに行った1967年のときに急にレコードの吹き込みの話が出ましてリールルノーさんという人が私とデュエットしたい。アンジュルジュルベリパリという歌なんだけどもそれをねぇどうしても一節日本語ので歌いたいから。でもその頃はないわけですよそのころはファクスもないし、電話も待たないと出ない電話でしょう。でレコード会社の人とは連絡がついたんだけどもじゃ家内がやるからということでそれで吹き込みをしたのが今でも残っていますけども。
「じゃ向こうの方がお歌いになったところがちょっと日本語でお歌いになった。
≪僕と一緒のデュエットなんですよ。僕がフランス語で歌うから自分はその部分を1部日本語にしたいということで。
「じゃあ逆なんですね。
≪ですから私もフランス語は分かりませんでしたから通訳の人に訳してもらって幸い国文科を出ていたものですからそのそういう詩を作って今でも残っています。
「じゃ今でも奥様と二人三脚ということもあったんですけどもまあこれだけ長くシャンソンを歌っていらっしゃって来年で50年。ちなみにご結婚の時のお仲人さんは画家でいらっしゃいました東郷誠二さん。それで日本シャンソン館というのが群馬県にあるとうかがってそこから毎週木曜日ですかテレビもやってらっしゃる
≪あの、テレビはシャンソン館で制作しているんです。
「こういうところなんですか。ここの館長さんなんです。中にはどういうものがあるんですか?
≪中にはフランスの波シャンソン歌手の遺品、衣装。もう自慢できるのがイブモンタンからねビルベールベコー、グレコもちろんイベントジローさんとかねあそこにちょっと見えますね白いのがマフなんです。
「手を突っ込む。冬の寒いときに。
≪それはイベットジローさんがピアフからもらったということであそこにその時の写真をねピアフと一緒に写真を撮っているんですよ。ピアフがピアノを弾いてジローが歌っている。とてもかわいがられたそうです。これをあげますと言われたものを大事に持ってらしたのをシャンソン館の開館の時にくださったんです。
「ピアフのものだとねピアフはあこがれている方がいらっしゃるので。あと日本の方の淡谷のり子さんからもとにかく岸洋子さん、石井好子さんコウヒデオさんトガワマサコさんいろんな方のお衣装もたくさん。シャンソンにまつわる
≪淡谷さんなんかシャンソンを日本で初めて紹介なさったんです。それでねシャンソン館が立ったのは7年前になるんですけども、そのころまだご健在でいらしたから”私は他の歌手と違うのよ。だから6着あげるからねみんな1着なら私は6着。そのかわりときどき季節に合わせて変えて頂戴。”
「おしゃれな方だったからそう。
≪ですから時々替えています。
「ほかの歌手と違って私は6着あげるからって。そうお優しい方でしたね。それはアレなんですけども何か阪神・淡路大震災とか地下鉄サリン事件とか、フランスが核実験をしたときとかそういうときは私は思ってもみなかったんですけどもそういうシャンソン館なんかにも嫌がらせのことなんかがずいぶんあったんですって?
≪もうひどかったんですよ。あれはね僕たちがシャンソン館平成7年7月7日にオープンしたんです。その時ちょうどでフランスではシラクさんが核実験をすると騒いでいた。それに対する反発がシャンソン館を立てるとはけしからんというようなすごいファクスが来たんですよ。それでねぇ出所も分からないしかもねよく知っているんですよ私がどういういきさつでシャンソンの資料を集めたとかそれでオープンのセレモニーをやったら命がないぞというんですよ。恐ろしいでしょう。
「怖いです
≪家内が恐がっちゃってねどうしたらいいだろう、でもみんなにいうわけにはいかない。で群馬県警に話をしてあの警護をしてもらいましたけどもを私はねぇ防弾チョッキを着てたんですよ。
「防弾チョッキ。あれすごい重いんですよね。あんなに私は重いものだとは思いませんでした。あれは警察官の方が防弾チョッキとおっしゃるから私もいつかなんかの時にねそういうどっかに行くときにまあ万が一のことがあるから防弾チョッキを着ていこうかと思ってちょっとやったらも歩けないですよ。ヨロヨロして。あんなに重いとは思いませんでした。
≪でもその上からこれ(ジャケット)を着ていましたからね。全然人からは分からない。それでも暑くて暑くて7月でしょ、
「7月7日おっしゃりました。大変でしたね。
≪でもねそのときにねイベットジローさんがね本当は来てくれることになっていたんですけどもイベット・ジローさんからも丁重な手紙でねこういう時期に私はあのどうしても日本に行くことはできない。私は日本の心とフランスの心と2つ持っているということでイベットジローのコンサートをキャンセルしたので東京の会場が空いちゃいましたねずいぶん困ったんです。約束を守ってくださって翌年ちゃんとやってくださって衣装も置いてくださったし、シャンソン館に来て歌ってもくださったんです。
「でもそれにしても全然関係のないそのところにとばっちりが来るというのも不思議な。
≪今でも分からないですね。どこから来たのか。
「でも何事も当日はなく?。
≪当日は何事もなかったです。
「でもやっぱり恐いですものね。でもまあそれからずいぶんになります。そしてその中でまあテレビの放送もしてらっしゃるし作ってらっしゃる教えてもいらっしゃる。それから特に若い人たちのためにシャンソンの楽譜をキチンとしておこうと。
≪ええ。僕はねぇ実はでレパートリーがね長い間に2000曲以上たまっていたんですよ。それででも一般向けじゃない歌もたくさんありますから、セレクトしてこれをね50周年の記念に1000曲だけをねだれが来てもすぐに貸し出しができるようにファクスでコピーしてすぐにお渡しできるようにそれを今準備しています。
「それはでもちょっと歌ってみたいという方にはありがたいことですよね。
≪シャンソン館に見える方はみんなシャンソンが好きな方ばかりで、口ずさみたい方ばっかりですから役に立っていただきたいと思います。
「あの有名な方々のレコードといいますかね音楽もそこにいろいろきっとたくさんあると思うんですけども。
≪自慢できるのはをモーリス・シバリエのラブレターですね。ラブレターを書いてその若い恋人に晩年ですよ。
「本当の話なんですか?
≪本当の話。そのラブレターをどうして手に入ったかというとパリのねセリ市でそれ落としてきてくださったファンの方がいらしたんです。そんなものがお金になるんですね。そしたら若い踊り子さんだったけどもそのこれをお金にしたいということで売ったそうです。そのありありと手紙には書いてある。
「好きだとか書いてあるんですか?
≪はい、会いたい会いたいというようなことが。
「シバリエって皆さんご存じないかもしれないけども大変なシャンソン歌手で映画もジジとかはずいぶんいろんなものにもお出になっているのでね、オードリヘップバーンとも出ていますよねオードリヘップバーンがお父さんがスパイでというのでゲーリークーパーと何かをするそんな映画の中でお父さんをやっている人が確かシバリエだと思いましたよね。俳優でもあったんですけども。その方が晩年若い踊り子さんに。
≪出したラブレターを飾ってあるんです。
「やっぱりそうじゃないとああいうのはできないんですね。歌を歌ったりするのは。そういうふうなつややかな気持ちをお持ちでないと。
≪でも僕はで幸運なことに1956年にシバリエとあっているんです。カンカン帽をかぶってね。舞台の幕がパッとしまったときにあの僕が日本から来たということで舞台にあげてもらって握手してくれたんです。その時の写真を大事に宝物にしています。
「そうおやさしい方なんですね。そうですか。まあいろんな50年やってらっしゃるんですからただ芸大のご出身でいらっしゃいますから芸大のご出身でこういうものをお歌いになるということはポピュラーな曲を歌うということは当時は本当に大変なことだったでしょうね。今の皆さんには考えられないと思いますけども。
≪昔で藤山先生が何か。
「藤山一郎さん。
≪藤山一郎先生がね何か問題だったでしょうレコードを聞く。でも僕たちの時はそれほどではないですけれども僕はどうしてもポピュラーに行きたいと思ったので卒業演奏が終わってから、ポピュラーに切り替えたんです。
「だいたい芸大を出るとオペラに行くなとみんなは思うわけ。まあ先生かまたはオペラを歌う。そこでこういうポップスみたいなものとか今で言うところのそういう中間なものを歌うということはなかなか大変な時代でしたんですけどもお父様も反対なさったんですって?。
≪僕の所ではね父が絶対に音楽をやっちゃいけないというんですよ。戦争中の厳しいその憲兵とかがうろうろするようなあの時代をしていらっしゃいます?
「ええもちろん知っています。
≪音楽をやったりすると非国民と言われたことがあるんですよ。
「非国民ですよ皆さん。
≪国民じゃないって言うんです。それであのピアノの音がしたりバイオリンがなったりすると見回りに来たりすることがあったんです。
「だからお父様はそういうのが
≪それはそういう時代だったけども父は元々男はもうそういうことをしないで昔の帝国大学を卒業していけという方だったから兄が4人いましたけどもみんなそういう道を進んだんですけども私末っ子ですからねいくら勉強しても1高とか東大とか落こちゃうんですね。それで
「落っこちゃう(笑)
≪あの1人だけバカ息子ができたと思われていていたんじゃないかと思うんだけども。どうしても好きなものがあって算数・数学がダメなんですよ。数学物理化学が。それと他のものはあまり格差があり過ぎるほど英語とかね国語とかはよかったんですけどもね。
「そうですか。でもどんなご反対にあっても学校の反対にあっても先生とかいろんな方の反対にあってもとにかくこの道にお進みになって50年。でも直接シャンソンを歌ったらいいんじゃないのというのは淡谷のり子さんがおっしゃってくださったそうですね。
≪あのね僕が学校を卒業してからポピュラーに行きたいと思ってウェスタンランブラーズというバンドでピアノを弾いてらっしゃる淡谷としこさんという妹さんなんですね。そこのところに遊びに行ってたんです。そしたら私の姉がいるから紹介するからいらっしゃいと言われて初めてセンゾクの家にうかがったんです。
「それでシャンソンを歌うように。
≪そして始めはあの僕が学生上がりですからね神妙にして座っていたらなかなか出ていらっしゃらなくてしばらくしたらを隣の部屋から和服を着た女性がね出てきたんです。そして私の前でねこう5本の指が真っ赤に染まっているんですよ。マニキュアで。ご挨拶なさるのでびっくりして僕も一歩下がってご挨拶しましたけども。そしたらね一言目がねあなたシャンソンを歌いなさい。
「いきなり、和服で。
≪それでちょっといろいろお話しをしましたけどもすぐその場でねぇあなたねレコード会社を紹介するからすぐに受けに行きなさいと言われて、すぐに電話をとってねビクターのところに電話をしてくださったんです。
「すごいですね。じゃあその前に芦野さんの歌は聞いてらしたんですね。
≪あのね妹さんから聞いていたんです。
「じゃかねがねこの方はシャンソンを歌ったらいいと。でもいきなり手をついて(笑)5本の指をこうやって三つ指だか5本の指だかをおつきになってあなたシャンソンを歌いなさいってそれもすごいですね淡谷さんという方はね面白い方ですね。
≪あのころまだね食べ物がなかった時代でしょう。甘納豆じゃなくて栗納豆というのを出してくださったんですよ。本当に珍しくて甘いこうザラメがついていていうだれが出るほど素晴らしかったんで帰るときにねぇ包んで持たしてくれました。
「本当におやさしい。あの方はを優しい方でしたものね。さて今日はせっかく芦野さんがいらっしゃったのでちょっとシャンソンを歌っていただこうかということにしたのでこれからちょっとコマーシャルをはさんで歌ってできますのあなかなかテレビではこういうふうでこういうところではお歌いになるのもちょっと難しいかもしれませんけどもよろしくお願いいたします。芦野宏さん久しぶりにシャンソンを歌っていきいただきますご期待ください。ちょっとコマーシャルです。
≪
黒柳「それではこれから芦野さんに歌っていただきます。アダモというシャンソン歌手は芦野さんの歌をお聞きになって君の歌は日本画を思わせるような繊細なところがあるとおっしゃったそうです。ではまず歌っていただけますのは”海・ラメール”です。それでこれはシャルルトレレから日本の海を思って歌いなさいと母のように思ってとあの方がおっしゃったそうです。そしてもう一つはパリ祭です。それは明るい曲ということでお願いいたしました。それではその2曲を続けてお願いいたします。よろしくお願いいたしますどうぞ
芦野≪~歌~
黒柳「まあどうも本当にありがとうございました(拍手)いつもそうなんですけどもテレビや時間的な関係で短くしていただいて申し訳なく思っております。でもさっきのピアノを弾きになった伴奏をなさった方はびっくりしたんですけどもお若い方で小林力さん。あの方は全部暗譜してらっしゃるんですね
芦野≪全部暗譜です。
「なんかは親子2代ということで
≪僕がねずっと伴奏をしてもらっていた父親が49歳のときにアメリカでどうしてもジャズの勉強をしたいということでバークレー音楽に行ってで向こうでなくなってしまったんですね。それでその後今の力はまだ大学、普通の大学ですからね音楽大学ではなく。いってさしあたって母親を養わなければならないということで僕のけいこピアノでもって家で練習してそしてこういうふうに座っていたんですね。
「だから息がぴったりね。本当にあのこういうピアノの息遣いと芦野さんの息遣いがぴったり合っていて。
≪本当に大切だと思うんですけどもそれがあります。
「でもそれにしてもいろんなとこでお歌いになっていらっしゃるんですけども昭和31年ですから今からもう何十年か分からないぐらい昔なんですけども。本場のパリでお歌いになってちょうどシャルルトレネが出ていたオランピアが1日空くのでそこで歌はないかということでそこでお歌いになったことがあるそうなんですがそこでラメールとかをお歌いになってすごい拍手でああよかったよかったと思ったら次の日にまた戻ってシャルルトレネさんがお歌いになったんだけどもその時のシャルルトレネさんをお聞きになったときに
≪まあ僕は本当にその頭を壁にぶつけて死んじゃいたいぐらいびっくりというか落胆ですね。だって僕考えてみれば僕物まねなんですよ。だってぼくたちの歌はフランス人でもないのにフランス語で歌ってね本物聞いたときので驚きとショックですね。歌をやめたいと思ったぐらいですこれ本当の話なんですけども。
「でも越路吹雪さんも初めてピアフの歌を聴いた時に日記に”悲しい悲しい悲しい”としか書いてなかったって本当にもうやめちゃおうと思ったぐらいショックを受けてずっとそれからどうしようかなと。ずいぶん越路さんとも親しくて越路吹雪さんにもずいぶんいろんなこと教えてをもらいになったそうですけども。その時はね悲しい悲しい悲しいて日記に書いただけだったのよっていう話でしたけどもね。やっぱりそれはね。
≪やっぱり本物聞くとね非常にショックですよ。
「でも芦野さんはものすごく日本語とってもわれわれに分かりやすく海なんかでもねああいう日本語で歌っていらっしゃいますけども難しいと思うんですよね向こうの言葉を日本に直してお歌いになるのは
≪僕で初めてパリにいたときにでイブモンタンが枯れ葉をうたった話を聞いたんですよ。その時にイブモンタンの枯れ葉はなまりがあった。それを廃盤にしてまで正しいフランス語にさせたというそのマルセルカンヌさんね。カルネさんが僕のスポンサーだったものですからそういうことをお話しを聞いて日本に帰ってから日本語を大事にしよう日本語をフランス人が大事にするように日本語を大事にして歌おうと思って歌っているんです。
「なるほどね
≪フランスの歌も日本語で歌うときに大事にします。
「そうですね。そうでないと思います。まだ続きますけどもコマーシャルです
≪
黒柳「先ほど芦野宏さんは紅白歌合戦10年連続でご出場になったと申し上げたんですけども当時の歌番組はだいぶ古くなったんですけどもNHKの”ニジのしらべ”
芦野≪はいあれでデビューしたんですね。
「そうなんですね
≪ラジオですからあのころは
「それからNHKテレビの暮らしの窓。それからあと大変なつかしい。後TBSとかそういうよその局では華椿アワーとかいろんなもの。ずいぶんテレビに
≪もうあの頃は忙しかったです。
「そうですねぇ私はとってもよく覚えていますのはあの風船をたくさんお持ちになってバルーン♪という歌を歌いになった
≪バルーンといったらねぇ紅白の時に松本カナコさんが紅組から来たのを覚えているんですよ。
「私もちょうど司会をさせていただいたときにこの出ていらしたんですけどもあのそんな風で昔は考えてみればシャンソンやなんかも紅白歌合戦にあったということですよね考えてみますと。でもそんな風で越路さんにもずいぶんステージマナーみたいものを
≪マナーというよりもね幕がしまって越路さんと2人で座っているときにね幕が開くまでにねいろんなお話しを”芦野さん歌詞を忘れそうになったらねふりを覚えなさい。あの頭に手をやったときはあの歌詞だ、こうやったときはあの歌詞だ”と覚えなさいそれがとても役に立っていますよ。
「それから越路さんは私も随分舞台をご一緒したんですけども、クリスマスプレゼントよって私に持ってきてくれたときにバターンとこけて転びながら私にこうやって”ハイ”とこうやったんですよね。お客さんは笑ったんだけどもそういうものだと。だからそういうときは失敗したという顔をしてはダメなの。そういう初めからそういうものだと思えばねぇそれでいいんだからというんでね私も随分教えていただきました。結局失敗を失敗と思わせないようにはどうすればいいのかって。今は失敗して笑わせるという手もありますけども昔はそうやって切り抜けていかに
≪そうですね越路さんは本当に舞台人ですね。
「そうですねぇ(笑)でも”イテ!”とおっしゃってましたけども(笑)まあこれからもシャンソン館の方もお続きくださいませ本当にありがとうございました。
≪ありがとうございました