2007年2月6日
黒柳「だいたい秋川さんはお父様もテノール歌手で
秋川@そうですね同じテノールの歌い手だったんですけども
「何かコーラス部にもあなたも入っていらっしゃって中学生の時に
@そうですね中学3年生の時にコーラス部に入ったことがきっかけでこの声楽の道に入ろうと決めたんですけども。中学3年生でコーラス部に入ったときはずっと父親の歌声を聴いていたから自然とそのテノールの声が出てきた。やはりその環境が大きかった。
「そうなんですか。子供のころバイオリンをやっていたので
@そうですね。【写真】伴奏をしているのが父親なんですけども
「バイオリンは途中でやめてしまったんですか。
@そうですね中学2年の時に止めて3年生からはコーラス部で歌い始めた。
「そうやってお父様が歌って教えていらっしゃってご自分もうたわれて。愛媛県出身で
@そうですね愛媛県西条市
「自分は歌えるぞという感じで
@そうですね本当に始めた時は自分はこんなにいい道を見つけたと思って本当に歌が大好きだった私すごく自分がいい声だとその時思ったんですね。この道ならば自分は極められると思って始めたかなという記憶があります。
「(笑)それで自分は愛媛代表で歌うぞと思ったら全国大会みたいのに行くのに愛媛で落ちてしまった(笑)
@そうなんですねコンクールがあって西日本の大会があって各県から代表が出てくるんです。僕は愛媛県で落ちてしまって。
「びっくりしたでしょう
@本当に愛媛県で通過しないものが全国に行っても通用するわけがないと最初かなり落ち込みました。
「それはいくつのとき
@それが高校2年のときですね。でもどこかで自分が父親にもらったこの声楽器自体はだれにも負けてはいないんだという自信が持っていたんですね。これからは技術をしっかり磨いていってこの楽器をちゃんと生かせられるようになれば持っていけるんじゃないかとそういう夢というか希望を持っていたというか。
「それで音楽学校にお入りになった
@国立音楽大学に。
「国立というのは随分いろんな方が出てらっしゃる。佐藤しのぶさんとか。
@そうですね錦織けんさんとか。最近は岡本君というソプラノ歌手。
「岡本トモタカさんですよね。ああいう方も出てらっしゃるというそこでお勉強。さっきもおっしゃってましたけどもその後ですかイタリアに留学なさったのは
@そうですね。大学院を卒業してからはイタリアの方に
「だけどもイタリアに行くにあたってアルバイト。それで家で出してもらわないで自分でいくぞと思ってすごいアルバイトが
@引っ越し屋さんのアルバイト。自分は体を動かすことが好きなので。テノールというのは歌というのはそもそもがすごい肉体労働なんですから全体を使って声を出す。体を動かすということは大好きでアルバイトするならばどうせならば力をのつく仕事をしようと。
「すごいですね引っ越しというのは本当に力がいるんですってね。ずいぶん長く
@6年間やっていましたね。6年目にはもう会社の中ではベテランになってましたけども。
「これはどうやってしまってどうやって持っていったらいいかとかわかるんですが
@それこそ自分の背丈ぐらいある冷蔵庫を1人で持っていったりもするんですよ。
「じゃ他の細々としたものもどういうふうにするかは得意中の得意。
@そうですね。自分の家はそんなに整頓はできないですけども
「お仕事だとできる。
@やはりいろんな家庭に入ってそれで引っ越しをするといろんな家族があるんだなと思って。
「私なんか引っ越しの人が入ってくるとどこから手をつけますかねて。むちゃくちゃとしていて。そういう家もありましたか
@そうですね(笑)
「でも若いのによくそこで仕事をしてお金をためてイタリアへ行くと。お金はたまりましたか
@そうですね。イタリアへ行きたいと言ってただイタリアに行きたいから親にお金を出してくれというのはだめだといわれるのが分かっていたから本当にこれだけためだからだから月々これだけ多少ちょっと仕送りしてほしいと交渉したら多分いいと言うだろうと思ってだいぶ食べたと思いますね。
「そうですかそれでもいかれて。イタリアのどこに
@イタリアのパルマというところに。
「そこにいい先生がいらっしゃる
@そこに大好きな作曲などヴェルディという作曲家が生まれた土地。
「椿姫。
@はい。(イタリアの写真が出る)
「青年で(笑)
@10何年前ですね
「まだそんなものですか。イタリア語は簡単にできると思ったら結構難しかった。
@最初は大変でしたね。日本語にいるときは日本語の概念でイタリア語覚えてしまうと文法とかが抜けなくなってしまうんではないか。あえてイタリア語を日本で勉強しないように思って生の生きたイタリア語覚えようと思ってまずイタリアについたらば空港についたらバスのチケットも買えないは、食事をしようと思ってもレストランでメニューが見えない注文ができない本当にこれは勉強していくんだと思いましたで。
「皆さんが英語ができるわけでもないですしね。英語は学校でも片言でもの習いますけどね。できないと
@ほとんどの人が英語ができないですね。最初苦労したことが自分が奮発剤になってこれは何としてでもイタリア語をマスターしてやると思って自分からいろいろと友達をつくって覚えていったかなと。
「そうなんですか。その時の歌の勉強はどういう歌を
@イタリアはベルカント商法というイタリアで生まれた発声法があるんですけども。習得したいなと思って向こうのイタリアの先生について発声を基本に教わりました。
「こうやって話していてもずいぶん響いてベルカントの話し方。だから今日は歌ってもらうんですけども本当は歌手の方はお話をしたくない。そうでもないですか
@自分は大丈夫ですね。割とコンサートとかでもしゃべって歌ってと。
「昔オペラのテノールの方は朝起きたらのどに温湿布みたいなものをして何もしゃべらないで発声練習をして劇場に行っていきなり歌はないとだめだと聞いていたんですけども。
@そうですね朝起きたら何時間かしゃべるのを控えたいとかはしますけども。神経質になり過ぎると逆に嫌なことが多いのかなと。だからどんな状態でも歌えるようにと心がけています。
「皆さんお待ちかねだと思いますけどもコマーシャルをはさみまして歌ってもらいます。
~歌~
「本当にありがとうございました。本当にきれいな声でそれでよく歌にあっていてで。応対になるたびに新鮮なじゃないですか
@そうですね。本当に新しい発見があったりしていつも新鮮に歌います。
「読み人と知らずということで(だれが作ったか作者が分からない)ネイティブアメリカンの人たちが追われている。追われた人たちもいたでしょうが昔はインディアンと呼ばれていたんですがそういう人たちのもしかして作ったと言われているんですけどもそういう感じが。自由な縛られない感じがありますよね。さっきのマリリン・モンローが亡くなったときに朗読された詞というのはマリリン・モンローがなくなって25周年。いろんな人が9.11の時にあのところで亡くなった家族をしのんでうたわれたとも言われていますけども本当にいい曲だなと。どなたも思い当たるところがあって。
@そうですね本当に人間は大切な人との別れを必ず経験するんですよね。この1つの音楽が歌詞がそれからの生きる希望とか勇気につながると本当にいいなと思います。
「思い出したら私の母もこの曲というかこの歌詞がすごく好きだなと言っていたと思って。そんなふうにパルマにいらっしゃってヴェルディの椿姫とかを作ったヴェルディのところにいらっしゃって歌って帰っていらっしゃってそれでかえっていらっしゃって歌うことになったんですがある日突然声が出なくなった。
@そうなんです。扁桃腺に障害を持ってそれから声に雑音が入るというか声がガリガリして
「びっくりしたでしょうテノールの方でそういうふうになってしまって。
@歌ってみたら本当にひどい声で。これは歌い手として病のではないかと思ってか。でも最初は治ると思って。
「それは日本で向こうで
@向こうです。ちょっと様子を見てまだ治るまでまとうと思ってでも全然変わらないですよ。これはやばいと思ってそれがきっかけで日本に帰国するとことになった
「4年目に。
@日本でいろんなお医者さんに回って検査してもらうんですけども扁桃腺と声は関係ない因果関係はないという。
「声帯はなんともないですか
@声帯はなんともないです。それは君の歌い方が悪いんだよとどこのお医者さんに行っても言われるんですね。でもある日扁桃腺をいためてから絶対に自分の中では扁桃腺が原因だと確信があったんです。それで手術をお願いしてかなり危険な手術だと言われていたんですけども。扁桃腺というのはのどの奥にたくさんあるんですよ実は。その中の舌の付け根にある舌根扁桃というところが下いいかもしれないと。そこを切り取る手術を。でも太い血管が通っているので下にメスを入れるというのはとても危険な手術をだからと言われて。でも危険な手術と言われてもこのまま自分が歌の道をあきらめるというのは自分でどうしてもあきらめきれなくて危険なものだとはわかっていても手術に挑戦したかったからと。それで3回挑戦したんです。それで3回目が終わったときに声を出したら本に戻っていたんです。
「やはり原因はそこに
@本当に手術が終わって初めて声を出すときは緊張して手が震えましたけども。でもそれだけに声が元に戻っていたときは本当にうれしかったですね。
「ご自分でもおっしゃっているんですけどもお父様からもらったお母様からももらったんですけどもその楽器がかさかさしたんじゃね
@そうですね。テノールの声で歌えるというのはそれまで当たり前と思っていたらこれは本当に当たり前ではないだと思って本当に感謝して歌っていかなくてはいけないなと思いました。
「向こうに入学してすぐに歌手としてデビューできると思ったらデビューはずいぶん遅くなってしまったんですって
@テノールクラシックの歌い手というのは50代ぐらいまで伸びていきますからだから30代の前半というのはまだ全然出来上がってないですよね。だから34歳でCDデビューをしたんですけどもその時最年少のCDデビューだったんです
「そうなんですか。クラシックの中では
@そうですねまだまだ若造という感じで。
「その時はずいぶん苦しみましたで精神的にも。
@声が元に戻ったというときは本当に希望持って生きていけたからという感じです。
「いい曲に巡り会ってねでも今は忙しいですよねみなさんにこの曲を歌って歌ってと言われて。
@本当にたくさんの方に聴いていただけるというのは歌い手としてうれしいことだと思います。
「偶然というものはあるもので34歳でデビューなさってセナ
@はいF1ドライバーの
「セナさんのあの日にいらっしゃったんですね
@そうですねイタリアで言葉も通じなくて孤独に勉強していた。その時アイルトンセナが自分の中のヒーローで。いつもF1で頑張っている姿が自分が見ていて頑張れるきっかけになったんですけどもレースを見に行ったときに自分の目の前で事故で亡くなってしまったんです。びっくりして結構そのことから立ち直るまでに自分が大変でした。
「その時セナも34歳
@だから314歳というのは自分の中でも1つの節目というか大きなことだったかなと思います。
「ご自分の希望の人が目の前で本当に一瞬にして
@そうですねこの千の風になって初めて自分が聞いたときにふと思い浮かんだのがセナの顔だったんですね
「セナについてもいえますよね。そうするとデビューの年とあこがれていたセナの死というものが
@自分が34歳になってみて彼を追い越してしまったんですよね。自分がやっと歌い手としてスタートを切れるという。これから頑張っていきたいだとその時に思いましたね。
「でもファンの方がこの曲を歌ってほしいというリクエストがあってこれほどヒットしたらあなたのファンの方は大喜びだったでしょう
@すごく喜んでくださいましたけども。自分の中でこの曲が多くの人たちに広がっていくというがそれほど大切な人が亡くなったということ抱えて聴いてくださっていると思って自分の中でもこの曲を歌う責任感というものが強くなっていきます。
「これからもうたわれていいかれると思うんですけども。ちなみにご結婚なされてお子さま2人。皆さん独身なのかどうかと思いなってると思うんですけども一応結婚なさっているということで。でも本当に歌い続けてきれいな声を保っていただけると。秋川さんでした。