本日の徹子の部屋ゲストは川田正子さん

2002年1月30日

黒柳「歌手生活60年と紹介しましたがこんなに若くてなんで60年なんだと言われるかもしれませんが歌手として小さい頃から歌われてきたんですけど戦争が終わってすぐに”みかんの花咲く丘”を歌われて、並木みち子さんが”りんごの歌”を歌われて戦後はみかんとりんごだと。わたしやっぱり胸がいっぱいになるのは男の人が戦争に行って、子供はどんどん疎開に行って誰もいなくなったとこであなたは一人残って海沼先生と一緒にNHKにいらしてあなたの歌で兵隊さんが元気になったというのを聞いて胸がいっぱいになって。小さいからわからないこともあったと思いますけどさびしいこともあったろうなと思って」

川田≪そうですねでも私歌歌ってると歌のことしか考えられないの。で一生懸命歌えれば、上手に歌えればということで海沼先生も一緒でしたから一人じゃなかったですから。でも歌が好きだったのかなあって大人になってから思います≫

「大人もいない子供ももちろんいないNHKの中でいたということを聞くと胸がいっぱいになります。また戦地の兵隊さんが励まされたというのを聞くとあなたも一生懸命やろうという気持ちだったでしょうね」

≪まあ戦後そのお手紙をいただいたんで。こんなに小さい子供が歌ってるじゃあ家の子供も大丈夫じゃないかと・・・元気でやってるんじゃないかと≫

「”みかんの花咲く丘”は本当にみなさんご存知です。紅白にもおでになったんですよね」

≪紅白は”汽車ポッポ”だったんですよ。≫

「”みかんの花咲く丘”は歌ってらっしゃらないの」

≪そう≫

「どうしたんでしょ」

≪一時私は”みかん”は21年なんですよ。22年の夏のときに一回引退したんです≫

「そういう時期ありましたね。みかんの花って海沼実さんがお作りになった曲なんですね」

≪そうです≫

「私も後にNHKに入りましたときにいつもそばにいてくださった方ですよね。簡単に説明するとあなたはご結婚されて25歳でご結婚されたんでしたっけ」

≪そうです≫

「お一人で歌い続けてきたのと、結婚されて歌い続けてきたのと違うと思うんですよ。お子さん2人いらっしゃって子供も大きくて」

≪(笑)そうです≫

「でもあなたあの頃の感じのままなのでお若く見えるので何歳だかわからないんだけど歌手生活60年だから60以上だと思いますけどみんな何歳だかわからないとおっしゃるでしょ」

≪(微笑)そうですね≫

「童謡歌ってらっしゃるし言ってみればお子さんはすごく大きいということで7歳からお歌いになられました?」

≪(会場、本人笑い)そうです。≫

「そのつもりなかったんですよ。そうよね。失礼いたしました。お家がレストランをやってらした」

≪始めはね≫

「お父さんはとんかつがお上手ということで」

≪ですから板前さんみたいに≫

「そういうことをおやりになって。お母様は入ってきたお金は全部管理されるような方で。皆さんはその建物の中で暮らされているような状況でした。お母様はとっても元気な方で」

≪そうです≫「お父様は内気な方で」

≪内気ではないですけどひとつの事ですか、職人さんだったらそのことだけって感じで≫

「物静かな職人気質の方で」

≪そうですね≫

「あなたはお父様の血を引いて内気な方何ですって」

≪そうですね≫

「内気な子だったんですけど妹さんも生まれて歌を歌い始めるようになって」

≪そうですね小学校2年生のときに内気で≫

「学校でもしゃべんないんですって」

≪そう。学校の先生が声を出したほうがいいということで海沼先生のとこへ。母は戦争がはじまってるのに習い事は止めないと。止めさせないという気持ちで≫

「やるんならやるということで」

≪そうそう。そういうことで2ヶ月考えたらしいんですけど戦争がいつ終わるかわからないし私が始めたのが17年ですから≫

「あら戦争がはじまってから。海沼実さんて言う方は作曲家としても指導する方としても当時は有名な方で?」

≪有名じゃなかったです≫「たまたまなんですかそこにいらっしゃたの」

≪そうです護国寺の音羽の境内で≫

「そのときそこにいらっしゃってオーデションを受けたんですけど蚊の鳴くような声だったんですって」

≪そうですね≫

「それなのにいいでしょうということになって」≪少しは声が出たんじゃないですか≫

「かわいい声がでたんじゃないですか。昭和17年に始めたとおっしゃいましたけど戦争がはじまって世の中がだんだんひどくなっていく感じのときにいよいよ疎開すると子供は危ないからあなたのお家も疎開することになって」

≪海沼先生は兵隊さんに取られなかったんですよ。目がお悪かったんですよ。私はね人の前で歌うのは怖いんですけどねえ空襲っていうのは怖くないんですよ。わからないでしょ。妹だけはねたか子は怖がらない人でしたけど空襲は怖いんですよ。それで泣き喚くんで妹も一緒に疎開させたんですよ。≫

「お母様と2人の妹さんが疎開した。お父様は」

≪東京といってもいろいろなところに・・・≫

「レストランといってもその頃はないですから」

≪なにもやっていない≫

「お父様は東京に残って」≪はい≫

「先生は東京に残ってあなたも残ると。そのときあなたは何歳?」

≪あの時はねえ3年生ですから9歳ぐらい≫

「でも私は残るとその辺あたりがすごいと思うんですけどねえ」

≪あの当時子供の時間と大人の時間は違っていたでしょう。そうすると空襲でこられなくなる大人の方の代理って言うんですかあの当時は”穴埋め”っていってたんですよ。≫

「生放送ですからすべてが」

≪ですからいつもNHKにいました≫「住んでるかのように」≪はい≫

「もちろん子供の時間のときもやって」

≪はい子供の時間のときは名前は呼ばないんですよ。でも大人の時間になると私の名前もいってくださるんですよ。だから”前線に送る夕べ”なんかでも私の名前がわかるんですよ≫

「”前線に送る夕べ”っていうのもすごく有名で。ああいうものにもでてらっしゃたんですか。だからNHKもアナウンサーやスタッフの人達がどんどん兵隊に取られてゆくでも残った人達でNHKの放送を出し続けてゆく。でもNHKは焼けなかったんですよね」

~CM~

「今の若い方は想像もできないでしょうけどテレビもなくてラジオしかないんですよね。空襲の無い日はあっても川田正子がラジオに出ない日は無いということでしたね。」

≪一日何回も≫

「子供の時間の童謡を歌うだけじゃなくて大人の時間の代役も」

≪先生が資料室に飛んでいってあのころは軍歌でしたけどそうじゃないのも歌わしたいということで口移しでお稽古して地下でもって歌いますけどねえ≫

「そうこうしている内に戦争が終わってあの当時のマイクロフォンは大きかったですかね」

≪おおきいですね。こういうのじゃないですね(スタジオマイクを指して)≫

「”第一引き上げ同胞激励の午後”なんて番組が始まってそこで”里の秋”をうたいになった」

≪昭和20年の11月24日に復員船が浦賀港に入ってくるときに迎える歌だったんですよそれが番組になって≫

「中国かどこかですか」≪さあどこだったかわたしは浦賀港に入ってくるとしかわからないです。でもその時に海沼先生のほうに歌を作ってほしいということで”里の秋”ができたんです≫

「戦争が終わったときにああ日本についたって思うような曲が”里の秋”だったんですかね」

~CM~

「初めて浦賀のほうに引揚船が帰ってきてもしかして南方の方から帰ってきた船かもしれないんです3番の歌詞が」

≪”ヤシの島。さよなら、さよならヤシの島。お船に揺られて帰られる。ああ父さんよご無事でと今夜も母さんと祈ります。”≫

「あの里の秋をお聞きになると童謡だとおもってお聞きになるけど当時初めて日本に帰ってきて生きて帰ってきて人達を慰める歌だとは私も知らなかったんですけどお聞きください」

~”里の秋”再生中~

「でもあれですよね帰ってきた人達だって家族がどうなってるのか日本がどうなってるのかわからなくて帰ってきて不安だったからこういう声をきいてああ日本なんだって喜びがあったと思うんです。本当にご苦労様でしたねえ」

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