2002年3月19日
黒柳「100歳のときにお母様と一緒にいらして下さってその時は本当にお元気だったんですけど」
※:加藤タキさんのお母さんシズエさんのこと。昨年12月22日104歳で亡くなられた
加藤≪私母が亡くなったときも不思議と涙が出なかったんですね。葬儀のときも出なかったし、しのぶ会の時も出なかった。私は心の中で母との別れを済ましているから出ないんだろうなって思ってたんですけど(亡くなられた後の)誕生日の日に「おばあさま生きてたら今日は105歳の誕生日なのね」って言ったとたんにどこにこんな涙がたまってたのっていう位声を出して泣きました(加藤さん涙ぐむ)。一人だったんですね夫はNYに行ってまして息子はスキーに行ってましてそういうこともあるんだと思うんですが≫
「そういうことってあると思いますよ気が張り詰めているとか。(徹子さんも涙ぐむ)ちょっと落ち着いたりするとねえ。それにしてもこちらに(徹子の部屋)に100歳になられた時においでくださった時はお元気でしたものねえ」
≪母は自分の寿命って言うのは自分が決めるんじゃないって私は生きてる限り生きてるんだから。100歳になったから100歳のように生きるのは面白くもおかしくも無い今日の空気を常に吸って生きていたい。≫
「110歳まで生きるという感じが皆さんあったんですね」
≪息子が今年15歳なんですね。彼が14歳のときに話したんですけどおばあちゃまあと6年で息子が孫が20よ、成人式よって言ったら「あと6年。あと6年なら私生きてられます」ってもうしまして。絶対息子の成人式には一緒にいられるんだって思ってただけに≫
「お母様が48歳のときにあなたをお生みになって加藤タキさんは42歳のときに息子さんをお生みになったんで90歳の時に初めて孫が出来た」
≪約1世紀あまりの初孫です≫
「100歳のときに一緒にいらしてくださったんですけどいつもユーモアのある方なのよね」
≪本当にすごいですね≫
「いつもおしゃれできちんとしてらしたのね。私印象的なのはきちんとしなければ絶対ベットルームから外には出ないんですっておっしゃったでしょ」
≪ですから100歳で2回目の骨折をして以来4年間床の生活をしておりましたけど車椅子でお散歩に行くときも必ずスカーフで工夫して美容院へ行くわけではありませんからベレー帽かぶったりハンチングかぶったりいろいろ工夫して人様はおしゃれだって言うんですけど母に言わせるとこれは身だしなみだって≫
「ここに来て下さった後に骨折だとか舌ガンとかびっくりするような病気をされたんですけどここに来て下さった時のVTRがあるんで」
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100歳のときの加藤シズエさん
黒柳「お昼寝はなさらないんですって?」
加藤シズエ『ボケ防止のためなの。私のテレビ学問によりますと脳の中にあった何とか細胞が若いときはたっぷりあって段々段々減ってって少なくなりますと頭が良く働きませんので私はどうやったら減らないように出来るのかと考えたら刺激を与えなくてはいけない。昼寝してるとねその間に脳の中の大事なものが減るわけですよね。昼寝はしないことにしてその代わり夜たっぷり8時間寝ます』
「8時間寝てれば昼寝しないですみますかね?」
『はい。思いわずらう事はありませんから布団に入ってしまえば寝ないようにしても寝てしまいます』
「退屈な人とは話しない。そうですか」
『話しない』
加藤タキ≪疲れるんです。退屈な人と話すとヘロヘロにナって疲れるんです≫
「絶対風は引かないようにしてらっしゃる」
『毎年風の流行に関してのご挨拶が長いんですよ。風だ風だって風邪を引かなければ話が始まらないみたいにね。冬になったら風邪を引かなければいけないみたいな挨拶は止めなさいって』
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「すごいですねみなさん100歳でいらっしゃるんですからねえ。そして面白くて。風も引かないでいらっしゃったのにこの後2回目の骨折を」
≪そうです。半年後でしたけど95歳のときに右足の大たい骨を今度100歳のときに左足の大たい骨を。本当に段差も何も無い普通のとこなんですけど転んで骨折してまして手術が上手くいきませんでして再手術を。周りの人は普通の人でも大変なのに100歳を越えた人が2ヶ月以内に麻酔をかけての手術は反対だと言ったんですけど母はいや手術をしてと私が自分の足で立てるものならばもう一回手術を受けますと。自分で承諾書にサインをして。でも少し麻酔の量が多かったのかその後まだらボケがでてきて。でもすごい母だなって思ったのがみんなを集めて言い残したいことがあると「私たちは宇宙の中にいるんです。みんな宇宙にいるんです。私の娘のタキ子も。私の嫌いな人も。みんな宇宙に愛で結ばれているんですよ」と言って寝ちゃうんです≫
「ふううん」
≪ですからそういう意味では最後まで日本のことを思い、国のことを思ってたんじゃないですか≫
「ああそうそう100歳の誕生日のときにクリントン大統領からお祝いのメッセージが届いてたんですってねえ」
≪Fighting Lady。要するに戦う女性といってメッセージをいただきました≫
「”ヒラリーと私は心より100歳のお祝いを申し上げます。マダム・カトーは世界が最も飛躍したその時代の顔として活躍していらっしゃいました。(クリントンからのメッセージ)”。それをお読みになった100歳のお母さんはですね”たくさんの男性のご支援の中アメリカの大統領が率先してご褒美をくださいましたので日本の男性の皆さんもますますのご援助お願いしますと”」
≪フフフ≫
「その後舌ガンにおなりになったと私知らなかったんですが」
≪私はガンにはなりません、風は引きません、転びませんって断言してた人が舌ガンになりました時は私はショックで神様を恨みました。正直申し上げて。≫
「しかも100歳以上になってねえ」
≪舌ガンということは舌を切ることですから母はおしゃべりが好きで話すことで政治をしてきた人、分かりやすい言葉で政治をしてきた人舌を切ってしまうということは話すことが出来なくなってしまうのではないか。ガンセンターに行ったんですが先生がとにかく大丈夫ですといって下すってそれで手術したんですけど≫
「しかも麻酔でしょ」
≪はいこれが大成功だったんですね。母が知らないうちに手術が終わって。鏡見て舌がない。しばらく話せないわけですよね≫
「どのくらいの舌を」
≪3分の1切りました。2週間で退院して翌日には車イスごと乗れるタクシーを呼んで欲しい、皇居の周りの桜を見れるかしら見たいと≫
「頭がはっきりとして」
≪はい。それからデパートによってお茶を飲んでまた病院に戻りました≫
「ほおお」
≪しゃべって・・あまり話して欲しくないとお医者様はおっしゃったんですけどそんな忠告は聞きませんでした。しゃべってしゃべってしゃべりまくったらそれがすっかりリハビリになってしまって。半年後には取材を受けて≫
「さっきおっしゃったまだらボケみたいなのは」
≪まったく無くなりました。私はそのときに神様わかりました。高齢化社会で長生きされる方が多くなって長生きしたいといってもガンという細胞はみんな持ってるそうですからガンが先に出てくるのが先か寿命が先か。だけど母みたいに寿命よりも先にガン細胞が出てきてしまう。でも医療の手当てをきちんと受ければ。そして本人に生きる意欲と志があれば直るんだって言うことが加藤シズエを通じて神様は実体験してくだすったんですねって。神様にあの時は恨んだけど感謝申し上げました≫
黒柳「お母様のお若いときは私知らないんですけどお背えは165センチあった」
加藤≪はい。1800年代に生まれてるんですよ≫
「ずいぶん大きい方ですよね」
≪足も24.5センチぐらいあったそうです。足袋は全部特注だったそうです。≫
「それとお母様は日本の女性が最初に選挙権を得た最初の選挙で」
≪はい、女性たちも政治に参加しなくてはいけないんだということで昭和21年に選挙で当選してから28年間国会議員をしてました≫
「まあご主人の加藤カンジュさんと夫婦で有名でしたけどそれにしても日本の女性が選挙権を得た最初の選挙で国会議員になられたということも何か運命的な感じがしますけど」
≪私が1歳でした、母はこういったそうです「戦争が終わったら忙しくなる。日本も忙しくなる。待てないから今私は子供を生むんだ」と≫
「100歳のときにスピーチで”私の目の黒いうちにもう一度品位ある信頼される日本人に日本になってもらいたいと思ってる”」
≪それをずーといい続けてました。日本人は良い資質の持ち主なんだ。2000年の歴史があってこんなに文化があってみんな正直で勤勉でこの日本人の良いところがどこ行っちゃった。反省しましょう。傲慢(ごうまん)になっちゃいけないんです。利己主義になっちゃいけないんです、これさえ止めれば日本人の資質はいいんです。これを声高に言ってました。≫
「またそうこうしている内にまたもう一度舌ガンにおなりになった」
≪104歳の誕生日の前後からどんどん舌が大きくなりまして口から物が飲み込めなくなりまして。”おでき”ですから飲み込む力が無いんです。舌は飲み込む力はありますけど。≫
「普通お年を召した方はガンは進行しないっていいますけどねえ。103歳ごろに飲んでおられた睡眠剤って言うか誘眠剤が合わなかったんですって」
≪またまだらボケのようなものがでるようになって病院にお世話になって夜ちゃんと眠れるようにと病院から安眠剤をいただいてたんですけど老人にはきつかったんですかねボケ始めまして元気なときとダメ(痴呆)なときが交互に来るんです。で医療で出来ることは全てやり尽くしましたということで老人福祉施設に移ったんです。介護保険を取りました、そしたら認定は5でした。ある時夫と私と息子で見舞いに行ったら孫が大好きですから良く来てくれたと言って2人で話をして「よかったねえ・・・」って言ったら母が私の顔を見て「あなたどなた」って言ったんです。≫
「それは冗談じゃなくて」
≪私は冗談だと思ったんです。「娘のタキ子よ」って言っても「・・・・・・」ってどこかで見たような表情なんです。信じられなくてさっきまで夫と息子に対して普通に会話してた人が。その場では泣いてはいけないと思って帰りの車の中で泣いたんですね(涙ぐむ加藤さん)そしたら夫が「おばあさまは103歳だよ。何があってもおかしくないんだよ。もし天国に召されることがあったらこれは大往生っていうんだよ」。私は永六輔さんの本を読んでましたからひとつの命が逝って新しい命が生まれていって生きるんだ。夫がそう説明してくれて”ああそうか死んじゃうんだけどそれで生まれていって生きるのか”と。そう思ったらすごく胸のつかえが取れたんですね。葬儀の時に泣かなかったといいましたけど愛する母、尊敬する母との別れの儀式をその時済ましたんだなってつくづく思いました≫
黒柳「ところがそれからまた”はっと”普通におなりになって」
加藤≪やはり愛ある介護を受けました。老人ていうのは私たちなってみないと分からないことが一杯ありました。老いの苦しみというのはそんじゃそこらじゃ耐えられないんだそうです。母もそういいました。介護の方というのはどうすれば人が人が一番喜んでくれるのかということを愛で答えてくださるんですね。ですからどんどんまた元気になりましてピアノを爪弾くまでになりました≫
「普通お食事はゆっくりなさるのが好きな方だったんだけど病院だと”もう終わりましたか”って看護婦さんはそんなに言っているわけではないんだけど答えちゃうんですね。そういうのがプレッシャーになっちゃうんだけど施設では時間をかけて食べて。その頃でしょうかどなたかがお見舞いにいらしたりすると「今日のトップニュースはなんですか?」ってお聞きになった。それは104歳の時ですよね。人によっていいかげんなことを言ったりするとすぐに指摘されちゃうんですって」
≪生きてる限りちゃんと学びなさい。頭で学ぼうとするとある程度の歳に来ると右から左に忘れちゃうでしょ。読んだことに感動したら心に納めなさい。心のひだはいくらでも伸ばせるしそれが人間を成長させるの。ニュースも感動で読みなさいといってました≫
「1日に10回感動するようにしてたって。1日に10回感動するっていうのも中々ね」
≪日常の中のささやかな営みの中に心にしみる感動があるはず。≫
「お母様の最晩年の2年間の”看護日誌”の中にお母様のおっしゃったことやなんかが書いてあるんですけど結婚する人のことも書いてあるんですけどあれも素敵でしたよね」
≪はい”結婚て何?”というエッセーだったんですけど若い方たちが結婚したがらなくなってきた。すると自分の自由な時間なんかが無くなってしまうんじゃないかってすると「そうじゃないんですよ。本当の結婚、本当の自由というのはどれだけ自分の中にある使命とか信念に忠実でいられるか。そのためには愛が必要なんです」って言い切ってましたね≫
「ですから”自由が無いというのは時間とか空間とかを言うものでは無いんです。信念に忠実に生きるということなのです。”って本当にそうだと思うんです。愛も必要。私も信念を持って生きるということがどれだけ難しいかと思いますが日本の女の人たちも信念を持って生きるということは大切なことだなって思います」
≪みんな使命があるそうです。一人一人に≫
「ありがとうございました」