2002年6月7日
黒柳「映画監督の熊井啓さんです。よくいらしてくださいました。奥様のアキ子様がですね当時珍しいポプリと言うものをご研究で旦那様よりもずいぶん早くいただいてしまったんですけども(笑)。とっても大作の監督で社会派と言われていらっしゃるんですけども私が興味がありますのは去年お作りになった「日本の黒い夏」。松本サリン事件の河野さん。あの方がお気の毒なんですけども最初犯人だと言われてしまった。マスコミと警察の事をいろいろ描いてらっしゃるんですがベルリン映画祭の正式代表作品ということとカメラの特別功労賞をお取りになっている。」
※松本サリン事件=長野県松本市でカルト宗教団体がサリンを散布。当初事件と関係のない河野さんが犯人と疑われた。
熊井≪はい≫
「びっくりしたんですけども河野さんとのご関係が、まずお母さまが」
≪東京のジョコウシュをでまして最初に赴任したのが長野県の長野高等女学校でその時の校長先生が河野レイゾウ先生とおっしゃいまして母がお世話になっていたものですから僕は子供の頃しょっちゅうお使いに行ってたんです。≫
「ジョコウシュというのは今の御茶ノ水ですか。そこで先生にお成りになって一番先の赴任先の校長先生が河野レイゾウさんということで大変な植物学者でもいらしたそうです。この方のお家が河野さんの住んでいるあのお家だったんですか?」
≪はい、そうです。≫
「松本サリン事件の時にほとんど毎日のように(テレビに)写りましたよね。」
≪あの建物を見て「ああ!!これは河野さんの家だと思いました。≫
「今の河野さんはお孫さんに当たる?」
≪はい。養子という風に聞いておりますけども。≫
「あのサリン事件で河野さんが看病されている奥様のおじい様。映画を作りになるときにいろいろお気持ちはあったと思いますがあの河野さんがと」
≪そうですおしゃるとおりです。あの家風から犯人が出るわけがないと。≫
「すばらしい校長先生で植物学者としても素晴らしかった校長先生のお孫さんの旦那様がそんな事をするはずがないと。もちろんその後冤罪ということが分かったんですがお作りになるときはずいぶん力がこもったんじゃないですか?」
≪周辺に私の中学・高校の友達の家がたくさんありまして≫
「お育ちになったのが長野ですものね。それじゃあ(事件で)亡くなった方はいらっしゃらなかったんですか?」
≪(亡くなったのは)長野県外の方が多かったと聞いておりますけども。地元の方たちは軽い被害を受けた方が大勢いらっしゃいましたし、私の親戚にもそういう被害を受けた人もたくさんいますし松本(市)にとっては大変な事件でしたね。≫
「河野さんもこちらにお出でいただいたんですけどもお気の毒な事でしたよね。」
≪しっかりした方ですよね≫
「素敵な方でね。奥様は今だにまだ?」
※河野さんの奥様は事件後意識不明の状態が続いている
≪という風に聞いておりますけども。でも(河野さんは)仕事が終りますと毎日奥様のところに行ってその日のことを報告したり≫
「昔元気だった頃に2人でデートした場所に連れて行ったらだいぶ反応が良くなったとおっしゃっていました。意識が戻って昔のようになればいいと思っておりますけども。「日本の黒い夏」中井貴一さんが主演をなすってご覧になった方も多いと思いますけども。最初にお作りになった映画が”帝銀事件”。これもなんだか分からない平沢という人が捕まって」
※帝銀事件
≪似たケースですね河野さんの場合と。平沢の場合は1ヶ月近い拷問に近い取調べを受けましたから≫
「これは日活なんですね。日活は裕次郎さんがおでになるような映画も撮っていたしこういう社会派のものも撮っていたし」
≪異色作というこういう映画に大変力を入れる重役の方がいまして≫
「平沢という方が捕まった時はまだ10代?」
≪18でした。松本高校の1年生の時でした。≫
「お取りになったときは34ぐらいだったそうですけどもなにか青春映画というかご自分の青春時代にお撮りになった映画ということですけども。この帝銀事件では日本シナリオ作家協会の賞を本当にたくさんお取りになってらしゃるんですけども帝銀事件は日本シナリオ作家シナリオ賞と第一回ペザロ国際映画祭日本代表作品になってるんですね。それと「日本列島」というのをお撮りになってるんですけどもこれは占領下の三鷹事件、松川事件、下山事件と次々に起こったあの頃の事で日本映画監督協会新人賞、キネマ旬報脚本賞、最優秀監督賞。全部上げていくと時間がないんですけどもつまりこれだけ・・・今監督になって何でしたっけ?」
≪40年近くですね≫
「40年で18本お撮りになった。」
≪今度で19本≫
「これは多いほうですか?」
≪少ないと思います≫
「その代わり1つずつ外国での賞を取ってらっしゃるんですね。でも第一作からこんなに賞を一杯とってびっくりなさいませんでした?」
≪ええ・・・まあ・・・なんともいえません≫
「まあご自分ではおっしゃりにくいと思いますけども。まあそんなお若い時に帝銀事件というあの日活の派手な映画を作る中で異色作品といわれたそうですけども。そういうものをお撮りになってずっといらっしゃったんですけども映画を作ろうとお思いになったのはいつ頃から?」
≪やはり旧制高校の1年生ごろからでしたね。終戦直後外国の映画がたくさん入ってきまして出すね。フランス映画・イタリア映画世界中のいい映画が洪水のように入ってきまして非常に刺激になったんですね。≫
「あの頃見ましたよね。エビスホンジョウというのが恵比寿の駅前にありましてね。1日8本立てなんてあるんですよ。」
≪ほお~≫
「私その8本立てなんかを見ましたけどね。少し気持ち悪くなって。お弁当2つぐらい持っていかなければいけなくて。10時ぐらいから夜の10時ぐらいまで見るんですけども。熊井さんhが映画の世界にお入りになる面白い方なんですけどもお父様も面白い方なんですよね?」
≪ちょっと変わりすぎてましたけども。早稲田の文学部を出ましてそれで友達が朝鮮にいましたので≫
「韓国にいて」
≪新聞記者をずっとしてましてそれで(朝鮮は)住みにくかったと思うんですけども帰ってきまして≫
「非常に満州にお詳しかった?」
≪あの時代アジアのいろいろなところを見て歩きたかったんだと思いますけども日本のやり方があまりにもひどいんで帰ってきまして。戦争中も着流しでした。≫
「熊井さんは軍国少年でしたからお父様のそれがとっても嫌だったそうです。コマーシャルをはさみましてその変わり者のお父様の事をうかがわせて貰おうと思います」
≪≫
黒柳「そのお父様は日本は負けるぞとかおっしゃって。でも新聞記者から長野の清酒会社の重役になんかお成りになったっりしてるんですよね。着流しでっておっしゃいましたよね戦争中。着流しなんかで男の人がブラブラ歩いていると呼び止められたりしないんですか?」
熊井≪まあいろいろあったと思うんですけども僕は軍国少年ですからね父親の態度が異常に見えましてね親子喧嘩が耐えなかったですけどもね。≫
「「負けるぞこの戦争は」ってはっきりおっしゃたりする」
≪はっきりいうんですよ。それと(戦争から)帰ってきた兵隊から新聞記者ですからいろいろ情報を聞くんですよ。中国ではどうだったとか南方ではどうだったかとかそれを分析してたんですね。≫
「で防空壕とかにはお入りにならなかった?」
≪入らなかったですね。同じだって。爆弾が落ちれば入っていても同じだって。≫
「本当に大橋巨泉さんもそうなんですけどもお父様が負けるぞって。大橋巨泉さんも軍国少年だったので恥ずかしくて友達の手前なんかもどうしたらいいだろうっていうぐらい恥ずかしかったって。そういうお気持ちでしたか」
≪非国民ですよね。≫
「そのころ中学生でしたら飛行場とかで働いてらしたわけでしょう?」
≪陸軍の飛行場がありましてその飛行場を作りに行っていまして≫
「ああいうのは学徒動員というんでしたか」
≪勤労動員。今の松本空港です。であの近くには地下の軍事工場がありまして韓国や中国の人が来て相当の数≫
「多くの方が連れてこられて。」
≪飛行場にもだいぶ来てまして一緒に仕事をしてました。トロッコを押したり≫
「でお父様は戦争が終った時はどうなすったんですか?」
≪陛下の(玉音)放送を聞いて家に帰ってきまして座敷にひっくり返って寝てました。何もいわずに。「”耐えがたきを耐え”か」ってボソッと言っただけでした。母のほうは数学者でしたから日本が勝とうが負けようが数学の方が本分で≫
「お茶の水をおでになったお母様ですから数学の先生ですから。当時珍しいですね女性で数学の先生ですから」
≪ですから戦争が終った瞬間に教科書引っ張り出して計算してました。≫
「そういうところは女の人のほうが」
≪強いですね≫
「お父様は負けるぞと言っていても本当にそうなったら」
≪いざねえ≫
「それから日本がどうなるのかとかお考えになったんでしょうね。だからいつも映画をお作りになるときはお父様のそれと重なり合って」
≪まったく性格が違いますので、父は安曇野のトヨシナという町で生まれましてのんびりしたところですから結局そういう風に育ってしまったんでしょうね。≫
「景色のいい自然なとこで。お母さまは町の中で?」
≪はい。共通の話題というのは2人とも東京で勉強しましたんでその時の話だとかをいろいろしておりましたんですけども、こっちは全然知りませんでしたし日本が勝つか負けるかそっちの方が必死だったんで≫
「ですよねちょうど軍国少年の時代ですよね。でもそうかといって連れて行かれる特攻とかではなかったんだけども年代的にはいつ死んでもいいと育てられた年代ですよね。」
≪兄2人は出征していましたから≫
「2人とも出征してらしたんですか。(生きて)お帰りになったんですか?」
≪ええ、帰ってきました。上の兄は船舶に入りまして海上特攻に回されてもうちょっと(戦争が)伸びていたらダメでした。≫
「もう1人のお兄様は?」
≪サンポウヘイで金沢に行っていまして。上の兄は特攻ということで毎日毎日おいしいものを食べさせられて太って帰ってきまして、2番目の兄はサンポウヘイですから≫
「サンポウヘイって何をするんですか?」
≪山の清掃をする時の大砲です。≫
「山砲というのは山の大砲。しかもそれの練習をするときはみんな耳が悪くなるんですよね。アメリカなんかを見ますと耳のプロテクトをしますからね。そんなの無いですからね。寅さん(映画「男はつらいよ」)のたこ社長。あの方も大砲をやらされていて耳が悪くなってそれで声がああいう面白い声になったんですって。山田洋二監督にどうしてあなたは汽笛みたいな声を出すんですかって言われてましたけども(笑)。高射砲のせいなんだよっておっしゃってましたけどね。そうですかそんなのおやりになってたんですか。でもお帰りになったんでお母さまは安心されたと思いますけどね」
≪はい≫
「まあ1つ戦争があるといろんな風にみんなが巻き込まれるっていうことですね。」
≪ただ父が戦後いろいろ言った事を思い出しますと新聞記事をそのまんま信用するなとか、1つ引いて見なければ間違うぞとかですね≫
「それこそ去年の「日本の黒い夏」の河野さんの冤罪ですけどもあれはマスコミと警察のことを中心にお作りになったと聞いてますけどもやはりそういうお父様の」
≪はい≫
「お父様はご自分で書いてらっしゃるわけですからね(笑)」
※お父さんは新聞記者として嘘の記事を書いていた(本当は負けているのに勝っているとか)。
≪そうです。うそばかし書いてたんです。でないと新聞社として成り立ちませんから≫
黒柳「さっきもおっしゃいましたが思春期の時にアメリカからも映画が来て日本でもどんどん映画を作ってそういうピークの時にお育ちになって。映画のロケ隊が長野に来て。「聞けわだつみの声」のロケーションをご覧になって」
熊井≪「わだつみの声」のロケ地を探しにこられたんです。プロデューサーがこないだまで東映の会長をやっていた岡田シゲルさんなんですね。知的な青年将校みたいな感じで。俳優さんがきたのかと思いましたよ≫
「ああそう。」
≪それでロケーションの場所を探せということで案内してですね。それでずっとご一緒しまして。ところが6月にならないと青いものが出ないと。その時は3月でしたからそんな事をしてたら映画ができないというんで南の九州のほうでお撮りになった≫
「もう長野ではやんないと。その時にお知り合いになった方もいて助監督からお初めになった。こんどお作りになる映画が19本目で黒澤明監督がどうしても撮りたかった映画。これをお作りになったいきさつは?」
≪一昨年の秋頃「日本の黒い夏 冤罪」を完成しまして、黒澤プロの方からこの台本で撮ってくれないかということがありまして。それで10日ぐらい考えさせて欲しいといったんです≫
「脚本は第一項ができてたんですって?」
≪ええあの準備項といってありますけども。じっくり読んでみて原作も読んでみて僕に撮れるか撮れないか。それで何とかいけるかなと≫
「でも考えてみたら遊郭のお話というのは撮ってらっしゃらないですか?」
≪日本のですか?≫
「サンダカンはちょっとそうですね。」
≪それと深川の話ですから忍川が深川ですね。その2つがありましてね≫
「でお返事なさって。でも黒澤さんが生きてお撮りになったらどういう風に撮っただろうってお思いになりました?」
≪それを考える余裕も無かったですね。とにかく預かったものをちゃんと映画にしないというねえこれは監督同士の義務ですから≫
「でもものずごくリアリティーを追求なさった方で、カツラとかも大きすぎると昔は本当の毛で結っているんだからこんなに大きすぎるわけはないとかいつもいろいろおっしゃってますよね。でも今度の拝見するとみんな自分の毛で結っているみたいに小さい頭で」
≪いろいろ研究してやってくれまして≫
「それとお着物の責任者は黒澤監督のお嬢さんでカズ子さんが。」
≪はい≫
~VTR再生~
「びっくりしたのは奥田瑛二さんがでてたんですけども奥田瑛二さんと分からなくて見てたんですね。あんな悪い人の役で顔が全然違って見えて」
≪はい≫
「この映画は6月中に公開・上映されます。黒澤監督が撮りたかったという脚本の遺稿を残しになったものを熊井啓監督がお撮りになったものです。とってもハッピーエンドで。水がすごいですよね。どうもありがとうございます」