2002年8月13日
黒柳「二村英仁さんですよくいらしてくださいました。バイオリニストでいらっしゃいますけども超がつく上手なヴァイオリニストでいらっしゃいまして特にこのような見栄えの方でいらっしゃいますので若い女性の方から大人気でいらっしゃるんです。ユネスコの平和芸術家として大変危険な国にいらして演奏をしてらっしゃるんですけどもよろしくお願いいたします。それで父(黒柳さんの父親)の手紙をお持ちだとかで、私は父からの手紙を1通だけしか持ってないんですけども向田邦子さんじゃないですけども1通しか持ってないていうかねお誕生の時にくれただけなんですけども。その話は後として御髪がそういう形にされたのはいつからかなと思って。前はたらしていらっしゃいましたね」
二村≪そうですね長かったですね≫
「それはそれですごくハンサムでいらしたんですけどもその方がいいですかね」
≪そうですね余計な心配もしなくていいですしね。こう弾いてるうちにね汗をかいてこうなってくるんですよ≫
「内側に入ってくる」
≪目に刺さるんですよ。引き終わった後のポーズで髪の毛もいっっしょにビヨーンとなったり≫
「ハハハ(笑)じゃあどうなってるんだろうかって大丈夫だろうかって?」
≪いやそれはなかったですけどもね。演奏しているうちはそういうことは考えないんですけどもね。≫
「今日はヴァイオリンを弾いていただくんですけどもお願いして2曲弾いていただくんですね。1曲はツィゴイネルワイゼン後半なんですけどね。もう1曲はいろいろお話もあってもうじき戦争が終った日もちかずいてまいりますっていうのでそういうお話も伺いたいと思うんですが、私事みたいですけども父の手紙をお持ちということで向田さんの父の詫び状ではないですけども私は1つしか父の手紙というものを持ってなくてあまり手紙を書かない人だったんですね。それをずっと持っていてくださったんですね」
≪そうですね。≫
「ちょっと見せていろいろと伺おうと思っているんですが」
≪昭和57年。1982年の時に≫
「死ぬちょっと前ですね。父が。(※手紙を受け取る黒柳さん)丁寧な字なんですけども読みやすい字で書いてあるんですけども。読ませていただいてよろしいですが?」
≪お願いします≫
「父がこういうものをお出しするということすら信じられない思いなんですが。10歳ぐらいだったんですってこのときちょうど」
≪いただいた時が11ぐらいの時ですね≫
「ちなみに私の父はヴァイオリニストでありましてN響のコンサートマスターをしていたこともありましていろいろなオーケストラのコンサートマスターをしていたこともあるんですが毎日コンクール、日本音楽コンクールの審査員もしていたので若い音楽家のことに付いて関心を持っていたんですが。”英仁君気味が沼津で弾いたメンデルスゾーンを聞いて君の才能に共感したものです。さっそく君の歴史のようなテープを送ってもらいありがとうございます。君の演奏にはどうしても神様が付いていらっしゃるとしか思えない。体に着おつけて様々な勉強をして立派な芸術家に立派な人間になってください。楽しみにしてください”。私父がこういうことを書くってビックリしたんですけども、”ルナールの言葉で芸術家とは才能があっていつでも初心者の気持ちでいる人間の事だ。(バイロン)小川のせせらぎにも草の葉のそよぎにも耳を傾ければそおに音楽がある。言葉で表現できなくなった時に音楽が始まる(ドッビュッシー)。完璧の芸術家というものは生来の素質よりも。修行によるところが多い(ゲーテ)”。これは本当にいつも父がいっていたことなんですけども。”芸術家の使命は人間の心の奥底に光明を与える事である(シューマン)。”ちょっと略させていただきましたけども。お葬式にもきてくださったのね」
≪あの祭壇がまだ飾られて真ん中に十字がきってある。行かせていただきました≫
「あなたそこで何なさったか覚えてらっしゃる?」
≪子供なりにお祈りした気がするんですね≫
「ヴァイオリンを持ってらして父のおかんのところでヴァイオリンをお出しになってどうするのかなっておもって。あなた1人の儀式だったみたいって。ヴァイオリンをだして父のところで拝んだりしてとっても可愛かったそうですけども。まだ12歳ぐらいでしたかね?」
≪11だと思います。≫
「ヴァイオリンをだして拝んだりいろいろな事をしてらしたんですって。”君の演奏には神様が付いてるとしか思えない”父はねこういうことを言う人ではないんですよ。中々の事じゃいわないんですけども残念だと思いますのはあなたが素晴らしい音楽家になったのを聞くことなくこの数年後に父が死んじゃったということが残念なんですけどもまあ素晴らしい音楽家としてみとめていたという。あなたは家の父がどういう人かご存知ないと思いますけども父があなたの才能に驚いたということはうれしかったですか?」
≪そうですねお家に一度だけお邪魔まして家の親とお話になっていたんですけども退屈しちゃってねいろいろお菓子とかいただいていたんですよ。≫
「フフフ(笑)。そうでしたか」
≪本当に今になって全ての言葉を理解するようになっていいものをいただいていたんだなって。≫
「才能ある人を早くに見つけるのがとても上手だったんですね。だけど父は才能があっても修練しなければ修行しなければダメだっていつも言ってましたのでね。それから修練あそばしましたかね?」
≪そうですねこれから先も終わりのないことですからね1つ1つ少しでも向上できるように≫
「これだけのヴァイオリニストになっても1日8時間、11時間練習をなさる」
≪いきますね≫
「このツィゴイネルワイゼンを録画を取らしていただいたのでみなさまにツィゴイネルワイゼンの後半ですけども聞いていただいて。それを聞いた父があなたが10歳の時に弾いたのを聞いてて神様が付いているに違いないと言ったあなたのツィゴイネルワイゼンをどうしても私は伺いたいと思いましたものですから無理をもうしましてあとでゆっくり聞いていただくんですけどもちょっと録画で聞いていただきたいと思います~録画演奏再生中~(拍手、黒柳涙)多分私は思うんですけども父もツィゴイネルワイゼンを弾くのがすきでね戦争にいっているときにね1等兵か2等兵の下の兵隊なんですけどね、聞いてる中尉さんとかそういう方がいらして父が一般の兵隊のところにいると偉い方がちょっと部屋に来てくれといわれてそういう所にいくと「君のツィゴイネルワイゼン聞いたんだよ」っておっしゃる方が大勢いてね、戦後は捕虜収容所をずいぶんまわってツィゴイネルワイゼンをずいぶん弾いたって言ってましたんでねあなたの曲を聞いた時にあなたのように弾ければいいなって父が思ったんじゃないかなって。父がいたら喜んでるんじゃないかなっと思って。ありがとうございました。」
≪ありがとうございました≫
「さて今年は終戦57年になると思うんですがこれから弾いていただく曲なんですがこれは戦争の悲惨な状況が現れている曲だと思うんですけどもその曲に付いてお話していただけます?」
≪2年前にチェコに行ったときにテレジンっていうプラハから車で1時間ぐらいいった所にホロコーストがあった時にそこにユダヤ人が収容されましてそこで強制労働だとかいろいろやらされていたんですけどもナチスがプロパガンダ(宣伝)で我々はユダヤ人を収容しているけれども我々はユダヤ人に対して文化的な活動も奨励しているんだよというプロパガンダに使われていた収容所なんですね。だから赤十字が視察にやってきたときはみんなでオーケストラをやったり。でもそれがなくなったときには強制労働をさせられて最後の方にはアウシュビッツだとか他のもっと厳しい収容所に送られていったというところなんですけども。でその中にギデオン・クラインという男のピアニスの方がいたんですけども彼はプラハ音楽院を首席で卒業してこれから演奏家として活動していこうというときにホロコーストが始まってしまって収容されてしまって44年の時に行方がわからなくなってアウシュビッツにおくられたか他のところでなくなったか。悲劇というか僕自身もまだ31でちょうど25歳ぐらいで亡くなった方なんですけども同世代として本当に口惜しかっただろうなって。≫
「ただその博物館に楽譜が残ってたんですね。だからお弾きになることが出来た」
≪彼のことを調べていくうちにどんどん知りたいと思いましてイスラエルに当時の生き残りの人がいましてその方たちにお話を伺いに行っていたらチェコにはなかった楽譜がイスラエルのテレジンの家という博物館にあったんですね。半分だけだったんで何とかしてもう半分も見たいといううことでチェコに帰って探しましたら見つけだす事が出来まして≫
「それてでこれをお弾きになることが出来た。なんと言う曲ですか?」
≪”子守唄”という曲なんですが。ちょうど強制収容所のアウシュビッツに送られる直前に書いたもので自分がそういう風になるとわかった時に出てきたメロディーが彼が小さいときにね周りが歌っていた歌、お母さんが歌っていた歌そういうものを書きたかったんだなって。考えると胸が締め付けられるようになって出来るだけ多くの機会でいろいろなところで弾いていきたいと思ったんですね。≫
「さっきもおっしゃったように26歳で死ななければならなかったユダヤ人のこの作曲家クラインの曲を集めて弾いてらっしゃるんですね。ではその曲を弾いていただく事にします。では演奏していただくのみなさまご期待ください」
≪≫
~演奏中~
黒柳「ありがとうございました。ポーランドにあったユダヤ人の収容所は有名ですけどもチェコの収容所でさいごはポーランドのアウシュビッツで死んだと思われるクラインという人が作った自分が小さいときの子守唄を、それを死ぬことがわかって作曲した。そういう人の思いをどうしても伝えたいとと。技術的には子守唄のような口ずさむようなものをヴァイオリンで弾くのはとても難しい」
二村≪そうですね。人間の息を楽器で表現しなくてはいけない、音楽の基本ですけども難しいですね。≫
「ユネスコの平和芸術家ということでずいぶんいろんな国にいらっしゃって演奏してらっしゃるんですけどもサラエボでもチャリティーコンサートをなさって、6年前なんですがちょうど私も同じ時に1996年の5月に行ってたんですけども平和になっていかれるようになって。どうですかあそこでお弾きになって?」
≪その時が僕にとっての最初のチャリティーコンサートだったんですね。≫
「これはサラエボのどういうところで?」
≪これはね一番大きい劇場ですね。ただ楽屋とかはガラスが割れててビニールが張ってあるだけなんですね。≫
「あとはイスラエルとかパレスチナとかでもなさったんですが今のような状況をお聞きになるとお辛いんじゃないかと」
≪前は入れたところが全然入れなくなっちゃいましたからそこで出会った人たちがどこに行っちゃたかわからないですし、行ったことによって身近になりましたからどうしてるだろうなってそういう思いはありますね≫
「まえに子供たちにヴァイオリンを教えてらっしゃるとうなコマーシャルも拝見しましたけどもね。そういう風ないろいろな国に行って、これからご予定はありますかユネスコの平和大使の」
≪基本的に僕自身がそこに居る意味は演奏する事ですからそれがユネスコに関係なくても演奏する場があればどこにでも行きたいなと。≫
「8月15日にはハートフルコンサートと言ってこの戦争の事をずっと忘れないというテーマを決めていつもやって今年13回になるんですが一昨年も今年もご一緒でただ残念なんですけどもキップが全部売れて内装ですけども8月15日にはハートフルコンサートをやっておりますのでそこにおいでいただいて亡くなった方とか傷付いた方たちのね忘れちゃいけないということでね。でいつもはお1人とかオーケストラでお弾きになることが多いのですが今度室内楽をなさるということなのでそれを楽しみにしておりますけども。ちょっとコマーシャル」
≪はい≫
黒柳「あの音楽が好きな方はオーケストラもいいんだけども室内楽が本当に好きと言う方が多くて今度初めて室内楽をなさるのは。めずらしいんじゃないですの」
二村≪学校を卒業してからはちゃんとやったことがなくて9月の1日3日が東京で6日が大阪でやらしていただくんですけども。≫
「チェロとピアノでおやりになるんですけどもどちらもチェコでお会いになった方で」
≪そうなんですね。特にチェロの人はこの前のクラインのことを調べていった時にであって一緒にクラインの曲を演奏したんですよ。僕は覚えてないんですけども僕が20ぐらいの時にイタリアで会ってるんですよ。「ええ!!」「おお」という感じで。でも会ってからも俺は全然思い出せなかったんですけどもね。≫
「二村さんは今日は紹介出来なかったんですけども大変な数のコンクールで賞を取ってらしてずいぶんいいコンクールで優勝してらっしゃるじゃありませんか」
≪はは~≫
「それにしても今日は父の手紙も見せていただけたしこれからもお若くてユネスコの平和芸術家としてご活躍なさると思いますのでまたいらして。今度は笑う話を」