本日の徹子の部屋ゲストは高橋巌夫さん

2002年8月16日

黒柳「高橋巌夫(たかはしいわお)さんです。よろしくお願いします。今週は戦争が終って57年ですから戦争を忘れないように皆様からいろいろなお話を伺っておりますが、今日のお客様は皆さんと違って音楽プロデューサーでいらっしゃって、音楽のことやちょうど外国から帰ってこられた三浦環(みうらたまき)さん。このかたは外国で蝶々さんと呼ばれたマダムバタフライがお得意の方だったんですけども、この方のマネージャーのことや音楽のことをやってらっしゃたんで戦争中三浦環さんがどうであったか音楽がどうであったかそういうことを伺いたいと思っておいでいただいたんです。それで大変ユニークなかたで50歳を過ぎてフィギュアスキーというものを広めたいと言う事で現役で今もやってらっしゃるんですけどもこれはご自分でお考えになったんですか?」

高橋≪私が考えてね、スキーで持ってフィギュアスケートのようなことをやってみようと。≫

「この方はオリンピックの正式種目になればいいと思ってらっしゃるんですがリレハンメルの時も正式に招待されてあちらでおやりになったんですってね。長野の冬季オリンピックの時もお呼ばれになっておやりになったんですけどもなかなかオリンピックの正式種目にはならない?」

≪はい。まだなかなか底辺が広がらないものですからね≫

「というので50歳を過ぎて現在85歳でいらっしゃいますか」

≪はい≫

「今も滑ってらっしゃるんですがそのフィギュアスキーというものがどういうものかちょっと皆さんにVTRをご覧いただきます。~VTR再生~なるほど。ですけども正式種目にならないんでがっかりしてらっしゃるんですけども。今でも冬になったら」

※高橋さんが考えられたフィギュアスキーは短いスキーの板で滑る

≪教えております。≫

「というのもお父様が秋田のご出身で小さい頃は長い(板の)スキーはできたんだけども短くしようと思いになったのはなんで?」

≪みなさん初めてのスキーで長い板で大変苦労されてるんですよ。子供は小さいスキーでやってるんですけども大人でも小さいスキーでやったほうが(上達が)早いんじゃないかと、そういう発想から短いスキーを考えたんですけどね。それをやってる内にフィギュアスケートでいろんなことをやってる。あれをスキーで出来ないかと。自分の短いスキーを改良していろんなことをやってみたんですよ。で上手くいきましてね皆さんにも喜ばれたりしてスキー学校なんかを始めたりしてね≫

「ですからこれがもっと流行ってオリンピックの正式種目になればいいということで方々でお呼ばれして皆さんの前でやってらっしゃるんですけどもなかなか(オリンピックの)正式種目にならないということで。でもお若い方もやってらっしゃるようなのでこれからずっとお続けになると、85歳でこういうことをやってらっしゃるので大変お元気で良かったと思うんですけども。今85歳の方ですら57年前の戦争はそんなに大きな大人だったっていうことではないんですよね。大きな大人って変ですけども。85から57を引いたら大体何歳かお分かりになると思うんですけども、その時に音楽プリデューサーでいらっしゃいました。音楽のコンサート企画とかそういうものをやってたんですけども段々戦争が激しくなって英語を使ってはいけないという事になっていろんなことになったんですけども、そもそも大学にいってらしたんですけどもお家が崩壊したんですって?」

≪そうです。それで働かなければならないということで大学に入ったばかりだったんだけども中退して働きにはいって、ピアノの会社に入ってそれで音楽というものを知るようになったんですね≫

「なるほどヤマハなんですけどもそこにお勤めになって、芸術とか音楽がくっついてるところとかクラッシクが好きな人とかいろんな人とお知り合いになって音楽を広めたいとしようとしている時に三浦環さんが」

≪昭和15年ですけども私は昭和15年に独立したんですよ。≫

「ご自分で会社をお作りになってるんですね」

≪その時に徳川ヨリチカさんのお屋敷でですねパーティーがあるというんで始めてお会いしてそこで初めて三浦さんにお会いして。その前からお会いはしてはいるんですけども私が音楽のプロデュースを始めたというのを知って「それじゃあ私のこともよろしく頼むは」ということで≫

「そうなんですね」

≪それから(三浦さんのプロデュースを)始めるようになって≫

「鍋島公爵というかたが大変応援されて。なにしろ三浦環さんと言う方はすごい方で、前に聞いたんですけども外国で蝶々夫人を歌っら楽屋にお爺さんがきて泣いてひざまずいて「良かった。良かった」っていったから「お立ちになってください」って言って「(そのお爺さんに対して)お名前は何ていうんですか?」って聞いたら「私はプッチーニです」っていうお話があるくらいで。ようするに作曲した本人のプッチーニが泣いたって言うぐらい」

≪そうです。それでプッチーニのイタリアの別荘にもよく呼ばれてねプッチーニのお宅にもよく行ってたそうですね。≫

「それで今度はアメリカにいらっしゃって何千人のコーラスをバックに歌われて」

ウィルソン大統領とか3代の大統領に呼ばれてホワイトハウスでも歌ったりいろんな所で歌ってるんですね≫

「それだけすごい三浦環さんなんですがその頃に日本は外国から帰ってきた人をあまり遇しない(よく扱わない)ところがあって勲章ももらえないで「私1つぐらい勲章欲しいなって」言ってらっしゃったって」

≪そういうことをよく言ってらっしゃいましたね。総理も全然その当時ありませんからね≫

「それだけの事をなさった方なのにね。別に勲章がどうとかではないんですけどもね。ただ三浦環さんは昔の方なので天皇陛下から皆さんが一杯勲章をいただいてらっしゃるのを見てね、私も学校の先生ばっかしじゃなくて私だってこんな事をしてきたのに欲しいわっておっしゃってたんですけども何ももらわないで亡くなったんですが、戦争が終ってすぐに亡くなったんですね。」

≪はい昭和21年の5月の25日です。≫

「とにかく日本に帰ってらして今日のお客様の高橋巌夫さんに私のマネージャーをやってくださらないということで当時はオペラは大変なことになっていたので普通の歌を歌うからということになってずいぶん普通の歌を歌ってらっしゃるんですね」

≪そうですね。山田耕作の歌曲とか滝廉太郎の歌曲とかそれからイタリアとかドイツものの歌曲とかね≫

「それがレコードになっているのでねこれは”アロハオエ”。アロハオエなんかを歌ってらっしゃるんですね。三浦環さんのアロハオエを聞く事は滅多にないと思うのでちょっとこれは後半ですけども全盛期は過ぎてるんですけどもこの方のアロハオエをお聞きください。日本語で歌ってらっしゃいます~レコード再生~いろんなことを思い出されるんじゃないですか?レコードを聞いてましたらこの頃父(黒柳さんの父)はコロンビアのオーケストラのトップもやっていましたからずいぶん父が伴奏しているというのも分かったんですね。聞いてて中には父だなって思うのがありましたね」

≪そうですねお父さんにもお会いしてお話したこともありますから≫

「そうですか(笑顔)。ずいぶん三浦環さんのレコードの伴奏をしていて疎開先で三浦環さんの音楽を聞いている時にレコードを見たら父の伴奏だった事があってその時は父は出征をしてまして涙が出たことがありましたけども。でもこういう風にやってらしたんですけどもそのうち軍の慰問に行けと」

≪ええ何回か軍の慰問に行ってたんですけどもそのうち軍歌を歌えって言ってきたんですよ。それでも軍歌は歌わなかったんですよ。慰問に行ってもオペラや何かを歌って兵隊からは随分喜ばれたんですよ。ある時九段に憲兵司令部に行って呼ばれて出頭せよと呼ばれていったら中佐って言う人が軍刀を持って「おまえはなんで軍歌を歌わないか!!」って言われたんですって。「私はオペラ歌手です。オペラが私の本心であってねアメリカにいた時もイギリスにいた時もアメリカの軍歌は歌わずにオペラを歌ったんですよ。」と言ったんですよね≫

「でもその時はそれで済んだんですけども刀を抜かんばかりの(怒りようで)」

≪環さんは切られるかもしれないと思ったんですって。でも私はオペラ歌手ですと顕然と言ったんですって。≫

「中々いえないと思います。でもその時は堂々と言ったんですけども表に出ると足がガクガク震えて」

≪ええ、そこに座り込んだんですって。腰が抜けてね。何回も私はその話を聞かされてるんですね。でも慰問にはちゃんといってるんですよ。≫

「大学生がよく出征していく、東大の人が出征していくフィルムなんかはよくありますけども若い出征していく兵隊さんのために歌いたいはっておっしゃったんだけどもそれも上手くいかなかったんですって?」

≪なかなかスケジュールがうまくいかなくて≫

「軍の方も時間がないからって言われて。第一英語を使っちゃいけないということでコロンビアをはじめ名前が変わったそうですね日本の名前に。コロンビアは”ニッチク工場”、ビクターは”日本音響”、ポリドールは”大東亜”。変えなくてはいけなかったんですかね」

≪いっさい英語っていうのは使ってはいけなくなりましたからね。例えばクラッシックの交響楽の演奏会でもチャイコフスキーというのはアメリカのものじゃないからそのまま使えたんですけどねドイツのものですから、でも日本人のものを必ず演奏しろと命令が出たんですよ。ドイチやイタリアの物の中に必ず日本人が作曲したものを入れないと許可しなかったんですよ。≫

「もちろん敵国ですからアメリカやイギリスの物は出来なくてやれるのはドイツのものとイタリアのもの。でも段々はっきりしなくて外国の音楽はやっちゃいけないという風になってきましたよね。」

≪そうですね≫

「音楽の評論家の人たちが軍の片棒を担ぐ人がいてずいぶんアメリカの音楽の悪口を言ったりしたんですてね」

≪そうですね。その中で有名なのにガシュウインの”ラプソディーブルー”何ていうのがありますねえ。あれなんかをくそみそにけなしたのを新聞の記事に書いて≫

「あんなものは音楽じゃないと評論家の人たちが言ったりして。アメリカのものだったからだったんでしょう。そういうことが戦争中にいろいろあったんです。この高橋巌夫さんは情熱のある方で戦後すぐにその”ラブソディーブルー”をやると決めていたそうですけどもコマーシャルの後にその話なんかを」

≪はい≫

黒柳「まあ音楽プロデューサーの走りと先ほど申し上げましたけども、今現役でフィギュアスキーなどもやってらっしゃるんですけども57年前戦争が終った時に随分お若かったろうと思ったら戦争が終った時でさえ28ぐらいでいらっしゃるんですから24,5歳の時からプロデューサーの仕事をされて独立された時はすごくお若かったんですね?」

高橋≪24歳です≫

「だから昔の方はすごいしっかりされていて独立されて高橋音楽事務所・・・芸術社ですか。24歳で高橋音楽芸術社をお作りになって三浦環さんおマネージャーにおなりになったんですから。さっきのラブソディーブルーですか。自分がいいと思っている音楽を敵国だから良くないって批評家や何かが書き始めてずいぶんお辛かったんじゃないですか?」

≪そうですね。音楽にはそういうものは無いはずなんですよ。敵味方なく愛されるものなんですよ。それを悪くいわれるので自分でも悲しい思いをしましたね。≫

「アメリカの代表的な音楽ですよね”ラブソディーブルー”これをあんなもの音楽じゃないっていった批評家がいたので、よしいつかやってやるぞというので結局戦争が終って」

≪はい戦争中は出来ませんからGHQに頼むんで”ラブソディインブルー”をやるんで楽譜がなかったので、よし取り寄せてって飛行機で1週間で楽譜がきまして。≫

「ああそう。それで演奏をして戦後すぐだそうでございますから。~曲が流れる~こうやって見るといい時代になったってお思いになられるでしょう。好きな音楽が聴けるんですからね。でまあ音楽のマネージャーみたいなことをやってらしたんですけどもどんどんオーケストラのメンバーは戦争に取られていく」

≪ですから戦争中はオーケストラは幾つかありましたけども昭和19年に私が関係していたオーケストラは空襲で全部消滅してしまったんですよ。ですから戦争末期には今のN饗しかなかったですよね≫

「父もコンサートマスターをしてたんですけどもみんなが戦争に行っちゃってメンバーがいなくなって父も出来なかったんですよ。でもそんな中でも三浦環さんといろんなことやろうと思ってここに持ってきていただいたんですけども(※チラシを取り上げる)三浦環さんとお琴の宮城道雄さんが”琴と歌の夕べ”というような(音楽会を開いた)。それでもお客さんは空襲の中でもいらっしゃたんですね」

≪そうなんですね激しい空襲のなかで安らぎを求めたいという事で音楽会にきましたですね。≫

「でも空襲が始まれば1回止めて防空壕に入ったりしてそれでまたやるという感じでした?」

≪演奏中に空襲警報がなって避難するという事もありましたし、その前に大きな空襲があって中止になったこともずいぶんありましたね。ですからいつもそういうことを覚悟でコンサートをやらなければいけませんし、やはり今のようにテレビとかありませんからね。ラジオも一般になったのは昭和25年でしたからね。NHKのラジオだけでしたし娯楽は何もなかったんですよ。映画館も消滅してないし。せめて音楽を聴いてもらおうということで誰でも楽しめる音楽会という事で企画してそれが皆さんにとっても喜ばれたんですね。≫

黒柳「三浦環さんという人は大変お優しい方で女学生で女子挺身隊として工場で働いているみんなにも歌を歌って、そこに行ってみんなが喜びそうな歌を歌って」

高橋≪はい。山田耕作さんの”この道”とか”からたちの花”とか”赤とんぼ”とかみなさんが親しいものを歌うんですね。しかもオペラ歌手の第一級の人がパーと歌いますからねそれを歌うとみなさん涙流して聞いていただくんですね。≫

「それで終ったら女学生に一言一言女学生に優しい言葉をかけて女学生がみんな感動したって」

≪あの方は舞台から話し掛けるんですよ。普通はそういうことはありませんからね。お客様にちゃんと話し掛けるんですよ。ですから慰問に行った時でも女学生の手をとってね優しく声をかけてあげるから一生懸命生きていこうという気持ちになっていくんですね。≫

「最初に聞いていただいた”アロハオエ”を歌ってらっしゃる時は60ぐらいになってらっしゃって当時の60って本当に歳をとってるっていう感じがあったからその女子挺身隊のところを周ってらっしゃる時も大体それぐらいのお年だったんですね」

≪そうですね≫

「それから三浦さんはだんだん体が悪くなっていくんですね。」

≪一番悪かったのは昭和19年に山中湖に疎開してから調子悪くなって医者に診てもらったらおなかにできものが出来ていていわゆるガンだったんですね。その頃はガンという病名はなかったんですね。で「高橋、私おできが出来たらしいのよ」っていうことだったんですね≫

「高橋って呼んでらして。外国から帰ってきてらしたんで”高橋さん”とよばずに”高橋”って。今は85歳でいらっしゃるんですけども当時はお若いときでいらしたんですごい歳の違うマネージャだったんだけども高橋って。戦争で音楽が何もかも絶えてしまうような時に戦争が終ってGHQから三浦さんに蝶々夫人をやってほしいという依頼があったんですね」

≪そうです。それで渋谷の日比谷公会堂がGHQが接収してたんですよ。で一般の日本人は昼間しかつかえなかったんですね。夜はGHQのいろんな催し物があるんですね。そこでやりましたですね≫

「三浦環さんはお歌いになったんですか?」

≪歌いました≫

「本当になくなる寸前ですね。そのときですね側で看護婦さんが脈を取ったり注射を打ったりしたのは。それはうまくいったんですか?」

≪いきましたそれは≫

「良かったですね。それでアメリカの方たちは・・・マッカサーはその時は来られなかったそうですけども」

≪上の中央部の偉い方がずいぶんおいでになられましてね。そして自分は死ぬ気で歌いましたからですね。もう立派なもんですね≫

黒柳「三浦環さんはGHQから蝶々夫人をやって欲しいといわれた時には62歳で、やせてたし食べ物がなかった」

高橋≪そうなんですよね。一般の国民もそうですけども食料なんで困りましたですよね≫

「当時餓死者が続出するというような日本では考えられないんですけども、その中で三浦環さんも食べ物がなくてそれでお体が悪くて。でもそんな中で蝶々夫人をお歌いになったんですね。その後にもう1回コンサートをなさったんですね。そのコンサートの時に「私は病気です。毎日練習してますが舞台は戦場です。そこから逃げ出すような事はしたくありません。みなさんと私はいつも一体です。そしてみなさんといつも一緒にやってきました。私は皆さんのために精一杯歌います。見苦しい事があったらすみません」といってそれでお歌いになったんですね」

≪そうです。≫

「それが最後になったんですけどもシューベルトの」

≪”美しきセイシャ前の乙女”っていう≫

「20曲もお歌いになって。これが最後になってしまったんですけども」

≪はい≫

「本当にご病気でなければ食べ物があれば戦後の一番いいときにねてずいぶんお思いになったでしょうね」

≪そうですね≫

「それから三浦環に軍歌を歌えといってきたところは情報局だそうでございます。あとはクロイツァーとかレオシロターとかバイオリニストのモギレフスキーとか日本にいた外国人の音楽のプロデューサーとかをずいぶんなさったんですけども今振り返るとあの戦争中はどういう風にお思いになられます?」

≪あの頃は憩いという娯楽がありませんでしたからね音楽がせめて国民に対しての娯楽≫

「娯楽。はああ」

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