本日の徹子の部屋ゲストは大森暁美さん

2002年10月30日

黒柳「よくいらしてくださいました大森あけみさんです。ほとんどテレビ初期のころから出ていらっしゃるんですよね。

大森≪(笑)

「本当に長いんですけども。特にビューティフルライフの常盤貴子さんのお母さん。あれでずいぶんお母さんだれって

≪そうですね。よく声をかけられましたけども

「なんか歩いていらっしゃる時に京子さんのお母さんって言われるんですって。

≪うれしいですけども

「うれしい。でも大森さんとはあまり言われない

≪言われない。

「京子さんのお母さんといわれるそうですけども。それであのこの間は介護保険のコマーシャルをやってましてあれ同感なさった方がすごく多いと思うの皆さんそうおっしゃったでしょう。まあそういうためのコマーシャルだと思うんですけども

≪と思いますけどね。

「ねこの方がやってがしてってあれをお友達か何かに話してらっしゃるんもですかねそれからちょっと子供にも話している出演依頼した人の方もあの人あの人という感じだったんですって

≪失礼ですけどお名前がわからなかったんですけどもとおっしゃりました(笑)

「でもお母さんの人って。お母さんの人であの女優さんということで介護保険のまあ顔は分かっていらっしゃったんですよ常磐貴子さんのお母さんの役もやったりいろいろやってらっしゃるんですけどもあの人あの人っていうんで介護保険。あの時のセリフ覚えてらっしゃいますか。もしあれだったらちょっとやっていただければって、このコマーシャルだったんですよということで。”私の時は子供に負担をかけたくないんだ第一あんたに介護なんて無理無理。いいよ私の時は”とかいって。

≪ああ

「そうなんでしたけども。いいですか”いいよう”という時がとっても感じが出てたんですね。ちょっといいですかやっていただいて。

≪(笑)

「終わったコマーシャルをもう1度やってというのも変ですけども。

≪私の時は子供に負担をかけたくないんだ。第一あんたに介護なんて無理無理。だからいいよ私の時は。

「(拍手)これでしたね。でもそんな感じでしたねぇ。”いいよ”というときはとっても覚悟があってでとてもいい感じであのそれで介護保険に入ればいいということなんでね。あの私ずいぶん毎日見ちゃったあのコマーシャル。

≪(笑)どうも

「私なんかは独身ですから”いいよ”って私の時はって誰も介護してくれる人がいないもんですからで。でもあなたはご結婚はしてらっしゃるんですけどもお子さんはいらっしゃらないの

≪いないんです

「そうですってね。お母さん役がうまい人って本当にお子さんがいないというけども不思議ですね。

≪ああそうですか

「今はねぇお母さん役をやってる人で若い方も多いけども昔のお母さん森光子さんとかキョウズカマサコさんそれから池内淳子さんそれからたくさんいましたよね加藤晴子さん山岡久乃さん全部お母さんがうまいと言われた方にはほとんど子供がいない。あなたもそうなんでびっくりしちゃいますけども

≪そうですね。欲しかったんですけどもね

「そうなんですってね

≪流産しちゃったらもう

「でもでとってもすてきな旦那様がいらっしゃるんですよね。旦那様はもとは俳優さんだったの

≪はい。

「今なんか違うお仕事を。

≪はい店をやっています。

「ああそうなの

≪赤坂で

「随分。何のお店。

≪飲む所(笑)

「飲むところいいですよね。女優さんのお仕事ってやっぱりあったりなかったりするからご主人がちゃんとお仕事持ってくださっていると。あなた私と一緒に1度も全然出たことないと思っていらっしゃるんですって。係りの者が。一緒に出たこと覚えていらっしゃらない?あなたは私と一緒に出たことあるんですよ。昔ドラマに出ていたころ私。なんだか私覚えていないんですけどもちょっとでもいってみますけどねだから”幼妻”出てない。ヒサマツセイジ監督だけど出ていらっしゃらない?フジテレビにのれん太平記ってシリーズでいくつもやったやつ。出ていない?

≪出てない

「じゃ”銀座はわが町”。出てない。

≪わかんない(笑)

「じゃあ”マユコ1人”

≪出てないです。

「朝のテレビ小説ですけども。それじゃミカンキンカンてTBSでやったやつ。甘柿渋柿つるし柿ってミズキヨウコさんという方がお書きになったんですけどもこういうのには出ていらっしゃらない。

≪・・・

「それじゃないかもしれない私もといっぱい出ていましたから。何かでご一緒したんですよ。

≪NHKのドラマ

「たぶんNHKのドラマじゃないかと思うんです。

≪歴史は眠るなんてのは

「歴史は眠るには出ていません。(笑)すごいわね。でも私大森あけみさんてはっきり知っているんです。私こうやって大森さんの顔をずっと見ていたんです。鼻高いんだなと思って。

≪(笑)

「そう思っていたから大森さんはで黒柳さんとはやったことはないんですよって係りの者におっしゃったっていうからあらご一緒したことがあるのにって。でも本当にすれ違いのようなことだったのかもしれない。ずっと座ったままで長いセリフがあったりとかというのではなかったと思うの。

≪ああそうですか

「でも本読みの時というのは全部全体でやるときには前に座ったりするじゃありませんか。それで私ご一緒したと思うの。

≪ああそうですかそれは失礼いたしました。

「いやお互いいなごうございますから。NHKの放送が始まって4年目のドラマにも出ていらっしゃるでしょう

≪はい開局4周年記念という記念番組の時にも

「だいたい4周年記念という不思議ですよねNHKもね。50年なら分かりますけども4周年。

≪1時間の詩劇、ポエムのね詩劇のスイセンと木魚というドラマの何と主演を

「とてもかわいらしいお嬢さんだったとを思うんですけども。あれはあのにっかつその後にっかつにお入りになった、その前?

≪にっかつが最初です。

「だからにっかつからNHKの方にお出になるようになった

≪そうですそうです。

「あなたすごい芸歴古いですよね。

≪(笑)それだけはね。

「だって私NHKはテレビが始まった昭和29年からずっとんで出てごめんなさい28年からずっと出ているですからね。

≪私は

「その時はにっかつに入ってらした

≪私は30年。

「(写真)これがにっかつの。右から2番目の男の人がをの宍戸開君かと思うんですが宍戸錠さん。すごいわね。宍戸開君が似ていると思うんだけどもを

≪そっくりですよね

「今の宍戸開君みたいね

≪そうですね

「あなたのお隣がタカダトシエさん

≪はい。

「たかださんは本当にあなたは今でもこの子たちの夏も一緒にやってらっしゃるじゃない原爆の。あれもご一緒にやってらっしゃるでしょう

≪ええこれからもこの時からのずっとのお友達という感じで。1つ上なんですけども

「10代からにっかつにお入りになっていたんで。だからずいぶん芸歴はすごく長くて何とですねどんなにおながいかって”バス通り裏”に生放送で毎日。あれ5年続いいたんですって?

≪5年ですね。

「あの中であなたはすごいタネコさんという雑誌記者

≪ええ。中ではタネ公なんて言われていましたけども。

「この方この真ん中のあなた。

≪そうですね。私ですね

「これはもうにっかつにお入りになった後でこちらに出ていらしたの。

≪もちろんです。

「ああそうなんですか。バス通り裏というのは岩下志麻さんや十朱幸代さんも出ていらっしゃるのでとてもこの中から探すのは至難の業でございますけどもちょっと寄っていただいて岩下志麻さんや十朱幸代さんがいらっしゃるんですよ。

≪いやお志麻ちゃんいたかな

「バラバラかなこれあなたは左から2番目が新たですよね。

≪次の次の次が十朱さんでですよねちょっと顔が見えるのが。

「ほんとほんと十朱さんわかります下にちょっとしゃがんでいる方の斜め

≪あれがオグリさん

「オグリカズヤさん。ほとんど十朱さんかわらない。それから佐藤さんでしょう右側が

≪そうそうそうそれからムナチカ

「棟方君。棟方君だって。棟方さん。このころは私もテレビに出ておりましたものですからお化粧室や何かが一緒だったっていうこともあるんですよ。あのNHKって大きいお化粧室があっても出る人みんなそこで化粧をしていたでしょう。

≪そうです。

「だからバス通り裏の人もみんなそこに行って、私も違うところに出るんでそこにいて。古いですよねバス通り裏に出ていた

≪最初があの銀座スタジオ、貸しスタジオから始まったから。バス通り裏。NHKなのに貸しスタジオでちょうど前が今は道になっている昭和通り、なんとか通りになっているけども川があってカキ船なんかが浮いていた。

「今高速道路になっているところわかりました。その後なんだかバス通り裏その後今度NHKが間借りしていたような東京新聞が昔あって今プレスクラブになっているそこの裏の変なところで取ってらっしゃいましたよね。

≪はい

「こちらで夢で会いましょうとかなんかをやっているときも隣のバラックみたいなところで

≪やっていました

「あれどんどん足りなくて今の代々木のすごい放送センターができる前はあちこちで

≪あちこちでやっていたし

「そのころから出ていらっしゃるんですからね。非常に古いご出身なんですけども。それであの肉体が非常に良い方ですね。

≪(笑)

「私びっくりしたんですけども、あの写真があるんですけどもあなた体育

≪大学。

「をお出になってるんですよね。

≪いやでてはいないです。

「出てはいないの

≪短大の中退。

「皆さんご覧くださいすごくいい肉体でしょう。びっくりしますよねこれはどういうときに撮ったんですか

≪これはバス通り裏のときですね。

「みんなで遊びに行ったときかなんか

≪はい。

「画面の中にこういう(水着写真)のは出てきませんものね

≪そうですね(笑)

「日本女子

≪体育短大。

「体育短期大学

≪の中退です。

「でもそういうふうですからお体がとてもいいという印象がありましてね。

≪そうですかね

「でも今の。あの水着を見てこれをみんなが見ていたらその後肉体映画に呼ばれませんでした

≪全然。

「呼ばれない?

≪全然なし(笑)

「これは全然みんな見てなかったのね。バス通り裏のお遊びの写真だからね。こういうのをみんなが見ていれば。でもご家族の写真がずいぶんたくさんあるんでこれから伺うんですけどもお父様お母様もとでも悲劇的な亡くなり方をなさったんですよそれが戦争ではないんですけどもあの昭和16年でご家族でお写しになった写真。戦争が始まった年ですけどもよくみんなこんな写真があったなって思ってね。あのころねフィルムとかもなくてねぇなかなか写真もないの。お父様が背の高い方で。何か出征をなさる。

≪これは昭和16年の7月14日

「まだ始まっていない

≪太平洋戦争がこの年の12月8日ですが。

「じゃあこの時は男の人はこういう格好を、後ろの人は通りがかりの人なんですってね。

≪そうですねぇ

「なんで撮る瞬間にあんなところを通りかかったのかわかりませんけどね。お父様はとっても背の高いすてきな方お母さんのは大森さんにそっくりのお母様なのね。

≪これはまだ30ぐらいですね。

「お母様が30ぐらい。

≪父が

「もう兵隊さんの格好していらっしゃいますものね。戦争に行くわけじゃないのにこの後に出征なさるんですけども。

≪35ぐらいですかね。

「それからお姉様がいらっしゃって右側がお姉様。下の小さい子が弟さん。それから左側があなた。家族がとてもすてきなお写真なんです。お父様はアレなんです学校の関西学院大学の

≪法哲学を教えていたんです。

「すごいんですよ法哲学の教授でいらした。こんな若いのに

≪はい

「ハンサムでとても人望のある方だったんだそうですけども本当に。お父様は中国に出征なさるんですけども

≪中国ではなくて朝鮮

「朝鮮半島。あらそうだったんですか。それでそのときに。そうか関西学院大学ってすごくいい学校ですものね。そんなに若くて教授をしてらした。朝鮮半島の方に分日出征をしていらしたんですけども戦争中だけど帰ってきていらっしゃったんですよね。

≪あの体を悪くして除隊して帰ってきて9月に・・・

「そんなに詳しくなくてもいいんですけども。でも一応昭和18年の9月に戦争が20年に終わりましたからその2年前にですね昭和18年まだ空襲がそんなにはなくて東京やなんかにもそろそろ空襲かなってまだそんなにはなかったですかね。そのころ鳥取にいらしたんですってお父様は

≪はいたまたま親戚のものがオオシオしたんでそこに送って行ったんですね。父が。

「送りにいらしたの。

≪はい。

「そこに鳥取地震という

≪大地震

「すごいんですねマグニチュード7.2ですって。

≪直下型の

「死者がね1,083名という資料があったんです。昭和18年の9月10日。その時にお父様は鳥取にその日に限って行ってらしてしかもその時間に夕方の5時

≪37分

「旅館にいらした

≪旅館にいて父だけが悪は悪くその部屋にいて5人いたんですけども父だけが運悪く

「何か落ちてきて。

≪何か床の間の梁かなんか

「何ということでしょうねですからはすごくお父様を若い37歳で

≪37歳です。

「だから本当に仕方のないことなんですけども、その日に限って鳥取に行ってらしたときにその点でもその鳥取に住んでらした方もお気の毒ですよね。鳥取に住んでらした方は1,083名の方が亡くなったんですから。あとその他いろんな家が壊れたりとか。

≪ついこの間また何年か前に大きな地震が鳥取であったでしょう。その時に1,800なん人って

「1,083人

≪その数字を見てこの1人だわと私思ったんですけども

「ああそうなんですかその当時はまだお小さかったからご存じなかったかもしれないけどもとっても人望の厚いお父様だったそうで、あのお写真も何枚もずいぶんご家族の写真もああいう時代なのによくあるなって思うんですけども。それで葬儀がありましてそれは関西学院大学の中のチャペルで

≪はい。

「本当にねぇ、なんかみんな小さくてねお姉様も10歳。

≪そうですねぇ10歳7歳4歳ですか。

「弟さんが4歳そしてお母様32歳。

≪母が、母よりも私たちあんなに小さいんですけども母って本当に小さい人なんですよ。あのころで5尺あるかないか

「1メートル50センチぐらいですね。

≪で私たちあの小ささなんですよね

「だからみんな小さかったんですよね。お姉様ですら10歳あなた7歳。関西学院大学の中のチャペルでのご葬儀でのお写真。そういうことがあってお母様も一生懸命働きになることになってその後宮城県に

≪父も母も

「宮城県のご出身で。そして宮城県に

≪帰って

「子供3人を連れてお母様は若い未亡人が。

≪で戦争中だったから働く男の人が少なかったからでしょうね銀行に勤めることができて

「それまで全然お勤めになったこともなかったお母様が

≪何もできなかったんです。

「宮城県のどこ?

≪古川というところ

「古川

≪そこの銀行に勤めてあのころ灯火管制、暗やみの中でねこうやってお札の数え方とかそれからソロバンとか練習して私たち育ててくれたんです

「灯火管制てご存じでしょうか電気があると明るいと敵機が来たときに爆撃されるって漏れているといけないので電気のところに黒いものがこうやって下がっていてその下だけが明るいんですよね。

≪ええ

「そこの中で暮らしていたんですけどもでもお母様はすごいんですよ銀行にお勤めになってお姉様を東北大学においれになって弟さんは東大

≪はい

「そしてこの方が日本女子短期体育大学とそういうふうにお母様は進ませて32歳で未亡人になって元気なお母様

≪はい、だったんです。

黒柳「大森あけみさんはたくさんドラマに出てらっしゃるんですけどもいつも大森あけみという名前では出ていらっしゃいませんので役名で出てらっしゃるのであの方はどういう方かしらというご質問も多いので今日はおいでになって大森あけみさんですと皆さん覚えてくださったと思うんですけども。お母様は75歳まで非常にお元気で

大森≪はいそれで徹子の部屋が本当に好きで、というのは私が普段ものすごく今日はとても気をつけてしゃべっているんですけども早口で日本語がめちゃくちゃになったりするんですけどもそういう時に母が「黒柳徹子さんは早くちなんだけどもきれいな日本語をしゃべる。勉強しなさい」と言われまして(笑)それで徹子の部屋は母の方が先に見ているんです。

「そう

≪だから初期のころクイズ番組があったでしょう。

「1番最初にええそうそう。クイズが終わりについていたの

≪あれも私知っていますし

「じゃお母様見ていてくださったの

≪だからこの間帰ったときにあの報告してきました。

「でそのお母様なんですけども75歳まで本当にお元気で子供たちはみんなちゃんと成長した私よかったなって思っていらしてね。お母様のお母様97歳におなりになったのねその時

≪はい。実家で母が毎日のようにその実家の母を私の祖母を見舞うというかその年齢ですからおばあちゃんは寝ていましたしね。ジュースやなんかを作って好きなのバナナのジュースやいろんなものを作って持っていくんですけども雨が降っていた時なんですけども本当にあの車、23歳の青年の運転する車が1時停止をしなかったために母がちょうどその祖母の家の真ん前ではねられたんですよ。それでいとこからそういう電話がきて驚いて帰ってでダメかと思ったんですけども20日間頑張ってなくなったんですけどもね。

「そう。そこで待ってらしたおばさまはどうしたんだろうと思っていたでしょうね。

≪思っていたようです。だれがその母の亡くなったことを言うかって言うんで気をつけて私のいとこが祖母に言ったらしいんですけども「うん」と言ったまま食べることを拒否して

「その日から。

≪うん、2カ月ぐらい後でしたかしらなくなりました。

「そう。自分のところに来るときに家の前でというのが本当にお辛いことですものね。

≪うん

黒柳「それでさっきお母様は徹子の部屋をずっと見ていてくださったということでお母様のお墓まいりにいらしたときに今度出るのようてご報告を

大森≪本当にあのどんなに喜んでくれたかと思うと本当に残念ですけどもね

「生きていらしたら何歳

≪91ですね。まだまだ元気なはずだったんですけども。

「75歳でちょうどお父様の場合生きて。同じ時間だったんですってちょうどなくなったのが

≪ああいう偶然て本当にあるんだろうかと思うんですけどもお医者さまがあの臨終と告げたときに私の夫と甥がパッと時計を見たんですね、そしたらを5時37分かその時はわーとなったから気がつかなかったんんですけどもあとでこれは父の地震で亡くなったときの時間だいうことが分かってがからのものすごいメッセージというかお父さんのところでいくはっていうかなんていうかね。本当にちょうど倍の35歳と75で孫みたいな自分の夫にあったんじゃないかなと思ったんですけども。

「まあ地震の方は5時37分ということがはっきりしているわけですからでも同じ時間というのが合わせようと思ってもなかなか合わせられないのにね

≪そうですねああいう不思議なことってあるんですね。

「でもお母様の中には何かがあったでしょうきっと。もしかしたらね。その時にねぇじゃあいくはねってそういうふうにお思いになったのかもしれないけども。

≪そうですね。

「でも役をやってらっしゃるときやなんかって今のお父様がそういうふうにして若くして亡くなったとかお母様がそんな風になくなったとかそういうことが全然まあお父様の時は小さかったこともあるんですけどもお母様の時なんかでもお仕事をやってらしたでしょうやっぱり。

≪はいはい。私ずっとやっていましたんで断らなかったんです。なんか断ったりしたらそのために母が悪くなるような気がして。20日間の間受けていた仕事は全部断らなくてだから行ったり来たり行ったり来たりして大変だったんですけどもね。もう頑張ってくれたんですけども。きいとかなければいけないこととか、知らないこととかはいっぱい本当に油断していました。まだまだ生きていてくれると思っていましたから。

「さっきフウイチだったからとおっしゃったけども結局そういうものかもしれませんよね。でもなんて何とも申し上げようがないんだけども、でもあなた自身はもご結婚なさってずいぶんになるんですってね

≪そうなんですよね。40年以上

「40年近く

≪ぐらいに

「さっきのハンサムな旦那さん

≪ハンサムじゃない(笑い)

「元俳優さんでいらっしゃって今はお店を赤坂でやってらっしゃるという方なんですけどもね。今でもお時間があるとですね大森あけみさんは泳いでらっしゃる

≪はい昨日も泳いできました。

「じゃさっきの水着の写真、今は違うかもしれないけども

≪(笑)

「一応まあね昔のバス通り裏のころのお写真を。

≪(笑)

「あなたウーマンズスイムフェスティバルというのにお出になったことはないですか?

≪そういうのはないです

「あなたお出になればいいんですよ。何10歳なん10歳というのがあってね木原みちこさんが取り仕切っていらしてですね、私今年10月5日だったんですけどもあのこういうのでもってスターターでいったんですよ。

≪木原ミチコさんに1番最初に教わっているんです。

「じゃあ60歳代でお入りになってスピードですけどもでもゆっくりでも構わないでよとても女の人ばっかりですから。

≪そうですかクロールが下手で平泳ぎばっかりで

「いいんじゃないですか平泳ぎでもなんだって

≪飛び込みもできないですよ。

「いいんじゃないですか。飛び込みはできない

≪恐くて

「いいんですよヘリからでもダメ。女子短期体育大学です。

≪中退ですから(笑)

「(笑)そうか

≪全部いい加減で

「ヘリから飛び込みないとダメかもねあれは。

≪うん

黒柳「大森あけみさんのお父様お母様のことうかがって本当に胸がいっぱいになるんですけども女優としては本当に初めからついていらして、久松セイジという当時にっかつの監督さんがこれちょっと時間がないんでご紹介できないんですけども素晴らしいお手紙をあなたに下さっているので。

大森≪そうなんですね。あの久松先生とお会いしたのは全くの素人の学生の時にエキストラでアルバイトに行って、いったロケ先で声をかけていただいたんで。そういうご縁なので

「それでにっかつに

≪それで行くときに母が(写真)これはなんかの時に。

「久松セイジさんという方は警察日記ですとか森重久弥さんの駅前シリーズとかあとたくさんおおとりになってあの南の島に雪が降るとかそういうものとかそういうのもおとりになった大変な監督なんですけども。そのお手紙をご紹介できなかったけどもあなたのお母様に当ててね

≪ええ。あの3年間はお母様が援助してください。ただあの映画界が不道徳なのではなくてご心配でしょうけどもそれはどの世界でもそうなんですから

「その人の心がけですので才能があるかどうかはその人にかかっていますから見ていてくださいということで現在があるわけですから。ありがとうございました

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