2002年11月28日
黒柳「本当によくいらしてくださいました。先程もご紹介申し上げましたように上方漫才の重鎮でいらっしゃいます、大阪の無形文化財ということけども。今日は移動文化財ということでこちらにおいでいただきましてお兄様の夢路いとしさん。弟さんの喜味こいしさんお二人とも赤ちゃんの時からもうのって舞台に出てらっしゃるのでお年と芸歴とがほぼ同じ。
いとし@ですねぇもう本当に赤ん坊のときから抱かれて舞台に
「そうなんですでご両親が旅芸人をしていらしてお兄様の芸歴がを77年、それで弟さんの芸歴が75年。
こいし¥非常に分かりやすい。
「芸歴と年齢が一緒ということは非常に珍しいですから。で兄弟でコンビを組みになって65年。
¥そうなりますかな。
「そうすると10歳と12歳のときからコンビを組んだ。ですから長いですよね。
@こんなに長いこと漫才をやれたなんて自分でも不思議ですわ。
¥漫才というのは要するに舞台のマイクの前に歩いていける体力と口さえ動けばある程度やれますから。
「ですけどもこれだけ長い間皆さんを笑わせるということがなかなかねぇ大変なことでございますので。
@僕は小さい時分からその子役で舞台に出るのがいやで絵を音って恥ずかしいから舞台に出るのがいやだったんです。
「いやだったんですか
@こっちは反対に好きで押しのけてでも出ようという。
¥押しのけてって(笑)
@舞台に出るといわれても嫌やというて、それで親父に怒られて
「弟さんは丸い顔で女の子の役なんかをやったりなんかなさったりなんかして
¥小さい時は割と声が細い声でしたので。だもんだから他の子役なもんですからどこかへ貸したりかされたりするわけですわ。するとをかされたところが始め声を聞いて女の子やというって女の子の役が多かったから女の子供の役をよくやりました。
「かわいい。こんなにかわいいお坊ちゃん。お兄様はあまりに出るのが好きではなくて。でもご両親が舞台に出てらっしゃる方だと赤ちゃんの時からやってらっしゃるのでまあ何となく出るということにはねぇ。
@何となく現実的にこの社会に入った。
「でも10歳と12歳のコンビで漫才をやっていらっしゃったんですか?
¥われわれの先輩にももっと例えばはミヤコ蝶々さんなんかあんな人は8つか9つぐらいからも漫才をやっておりましたから。だからわれわれの12とそれぐらいの年というのはまあ寄席の世界でいえばちょっと遅い方じゃなかったんですか。
「もうそれでも。ですからもうこのお二方はいろんなことを体験していらっしゃって何ってたってお兄様はなんでだかわからないですけどもう東京にいらして二・二六事件とき。古いですよ皆さん。二・二六事件の時に東京にいらしたんですか?
@ちょうどあの戦前のにっかつの子役で映画を撮っていたんです。
「いやだと言いながらも一応映画には出てらした。
@そうですねぇ。映画の場合は人があまり見てないし自分だけでやれるから少々カッコつけてやっていました。
「ほとんど久米宏さんと同じですね。あの久米宏さんはカメラマンが付いていてもいやだといいますから。なるだけ人がいない方がいいと言っていますから。そういう。映画であればそこにお客様がいらっしゃらないから
@そうですねぇ勝手にうつしてくれるし勝手にやっていればいいんですから。ところが漫才というのは劇場でやるとお客さんをどうしても意識するでしょう。と子供のころはわれわれの若いころというのはこういう芸能界の中で漫才が1番最低と言われていたんです。まず歌舞伎の俳優さんでしょう、普通の俳優さん、同じこの世界でも浪曲、それからは漫談、そっちの人の方が上だったんです。もう1番最低で何か昔の役者さんが言うていました食えなくなったら漫才でもやろうかというて。
「あら失礼しますねぇ。落語なんかも上の方にあるんですかね。
@それが残念でね若いころなんかは漫才をやっているというとバカにされるんじゃないかなという気持ちもあったんです。
「そうなんですかそういうものも自分の中でいやだなと入っていたんですかね。
@でもいったん舞台に出るとやけくそで、ででしまって何かをやっていると自分の気持ちが浄化されてそれになってくるんです。
「でもその二・二六事件の時は子役で東京にいらして映画だから人はいないからいいや。でもお父さんはびっくりしたでしょう関西の方にいて
@だから二・二六事件の最後の時に迎えに来てくれまして関西へ帰ったんです。
「でもにっかつの映画はそれでおしまいにして。
@そうです
¥その時に私ちょうどそのこの間火事でつぶれましたけども中座へ出ていていたんです。ホウエイミツコさんという女剣劇のそこに子役で出ていておやじの方が僕についていたわけです。それが二・二六事件があるからをあったといって東京に行って連れて帰ってきた。大阪へ。
「それで漫才を組みになっておやりになったですけども。弟さんの方は志願で17歳で兵隊さんにいらっしゃって。
¥はい。
「あの8月6日の日に広島にいらした。
¥はいはい。ちょうどその時分倉庫当番をやっておりまして、それで前の晩に空襲があってあの重機関銃で対空射撃というのをやらなければいけないのでやってちょっと1時間ずれていてそれであれ1時間ずれていないとウジナまで将校を迎えに行っていないといけないのでウジナでやられていたはずです。遅れて班内で飯を食ってたの時にその時分広島というのは空襲といっても爆弾を落とさなかったんですよ。
「それまではなかったそうですね。
¥ヒロと呉の交通路ですから。関西圏をうろうろするぐらいのことであってまた29が来ているとこの間亡くなりましたけども上等兵がやっぱり私と一緒に飯を食っていてまた29が来ているぞといってパッと窓を見た瞬間に光がパッと、光だけを見たんです。それで人間の本能でこっちに銃座って鉄砲並べるところがありますけども。そこのしたの方にとにかく外へ出なくてはいけないというとっさに思ったんですね。メンコを・・メンコって茶碗と箸を放り投げて銃座の下までパッと逃げた記憶はあるけどもその音の瞬間につぶされまして。
「建物が?
¥はいその木造建ての建物でしたからでその木造建ての建物に下敷きになって僕の上にこんな大きなはりやなんかが体の上に乗っていましたわ。それで雨が降ってきて気がついて手を伸ばしたら”生きている奴がおる”といわれてって助けてもらったんです。
「じゃあその建物がつぶれたんで逆にその中に入ってらしたんでずいぶんよかったのかもしれない。
¥だからその何かおかしい空気とかそういうものはあまり吸ってないのかどうかだから原爆症というものにはならなかったですね。
「それでとにかくも着る物が全部ボロボロになって、
¥それはボロボロというよりもウジナからニノ島という病院に運ばれる間に野戦病院みたいなところできているものを脱がされてで結局ふんどしひとつでその病院に入ったわけです。
「兵隊さんですからね。
¥でそこで終戦になりまして。
「それで白いものを着ていたというのはそのへんで着せられたもの
¥いやあのとにかく終戦で日本には兵隊がいないから兵隊は全部どこか囲いに入れて飼育されるとアメリカが来たら。いうそういう流言がそういうのが流れてきまして身元引受人があるまでは帰れ、引受人がないものははってでもほうてでも帰れとだんだんだんだん日がたつにつれて
「ほうてって這ってでもですね。
¥だんだん日がたつにつれてをおるにおられようになってだれも偉い将校とかだれもおりません。でとにかく帰ろうと連隊が山口でしたが山口に帰るよりもとにかく大阪に帰りたいと思いましてさぁ帰ろうと思ったらもう着るものがないわけですよ。それで自分に配布された白衣はあるわけですけども白衣着てこれ汚れてはいかん。隣を見ると死んだ兵隊がどこの兵隊かしらんけどもまあいろんな兵隊が入っていましたからその兵隊のさらの白衣を2枚重ねてそれで白衣というのはほんまの寝間着みたいなもんで小さいので結ぶだけでいいんです。歩いていると定まらないのでちょっとこれ帯かなんか欲しいなと思って、帯みたいなものはないかなと思って倉庫の方に行ったら藁縄があったんです。それを帯の代わりにしめまして。さあ履くものがない。どないしようかと思って便所に行ったらわら草履がありまして、そのわら草履を1足といじゃいき履いてわら草履が途中で切れたらいかんから乗り物に乗れるか乗れんかわからんから切れたらいかんからといってサラのわら草履を探して2つ腰につるしまして昔の時代劇みたいなもんですわ。頭に帽子がないからといって医務室で三角巾をまきましてそれでウジナまで船で送ってもらって、ウジナ-広島の駅まで歩いていって
「その広島の駅で将校さんにお会いになった。将校の制服を着ている
¥将校じゃないんです。軍曹かなんか。ちょうど引き揚げ列車ですわ。下の方へ行く九州の方へ行く列車。それが目の前にとまったんです。ちょうどここの足のないお方がいっぱいですからおトイレの窓のところに出していてちょうどまあ前に私が立っていたものですから
「まあ17歳の少年ですよねこっちは。
¥おいおい貴様貴様はどうした?。向こうは軍曹ですから”はい”と言って貴様は新型爆弾にやられたそうやな。はいピカドンというものにやられました。で貴様は頭はどうした?いいやこれは軍帽がありませんから三角巾を巻いています。そうかといってザツノウから戦闘帽というものがありましたけどもそれをこれはおれが戦地でかぶっていたものですからこれをかぶれ。ちょうどサイズも合う合わないやなしにもかぶって。それでしばらくちょっとわれわれも片足をやられてなこれから九州に帰るんだけども貴様は腹は減っているか?。はい。青い顔をしていましたやろ。また小豆の携帯食料を赤ご飯ですなあれの携帯食料の缶詰をひとつくれて、それでちょっと話をしていたら貴様はたばこは吸うか?といってはい吸います。そうかといって今度は自分のかぶっている帽子を(涙)ごめんなさいこれ私言うとありがとうになって帽子から”誉(たばこの名称)”を出してくれて誉です。それが9本
「”ほまれ”という名前のたばこです。
¥9本あったやつを4本いただきまして4本を自分が取って後の1本を吸っているときに汽車が出だしてさあこれをやると言って(軍曹が吸っていたたばこをこいしさんがもらった)。何であのときにおところと名前を聞いとかなんだ。まあ若いですからね。だからしょうがないことだと思ったけども戦後になれば御挨拶もできたものになと思っていう。ごめんなさい失礼しました(涙をふく)。
「そのままなんですか?
¥そのままです。もう連絡のとりようもなくて
「もしもですから九州の方にお帰りになったその方がいもしこれを見ていらっしゃってあのそういう少年に会ってそういう思い出があるとお思いの方がもしいらっしゃったらもし本人にお願いしたいんですけどももしそういう方またはわからないですけどもそういう話をお聞きになった方がいらしたら、喜味こいしさんのほうにご連絡を。これだけも57年もたってしまったんですけども今でもこんなふうに涙が出るぐらいその時嬉しかった、しかも9本しかないたばこを半分くださったんですから。本当におやさしい方だったんだと。何とお優しい。しかも17歳のどうしていいかわからない何が何だかわけもわからないような少年がどんなにその時その優しさをありがたく思ったか。私もよく分かるんですけどもあの本当にお優しい方がいらっしゃるんですね。その方だって辛い片足なくしてねぇ。本当におつらかっただろうと思いますけども。もしねその方は足をなくしてらっしゃるんですね、ですからそういう方でもしそういう広島の駅だそうですが九州にいらっしゃる時に少年に会ったことを覚えていらっしゃったらご連絡いただければ徹子の部屋でも構いません。一言うれしいありがとうとおっしゃりたいそうです。本当にいろんなことがあるもんだと思います。
¥もう現在生きてはったらその時に見たなりで40過ぎぐらいやったからも生きてはったらいた100近い人と違いますか。
「でももしかすると軍曹でいらしたからわかんないけども案外若かったのかも…小さいとわりと人が大きく見えるので。もしかしたら
¥もっと若かったかもしれません。
「そうなんです。よろしくお願いいたしますまだ続きますがちょっとコマーシャルです。
黒柳「今お話し私も涙を流してうかがっておりましたらお兄様がそれでも君17歳でたばこを吸うたったらいかんじゃないかとおっしゃって(笑)私もそうだなと思ったんですが。あれですねいつも漫才をしていらっしゃる時にお二人の漫才はとても品がいいということでまあ人気があるということもあるんですけども本当に君とかおっしゃるんですね。
いとし@あのだいたい子供のころからやっているでしょ。子供同士の話のネタ材料ってあまりないんですよ。だから女性のことは言えないし下卑た話はできない。だから案外ありふれた話を漫才の方の話にもっていくわけです。
「そうだから君って。あまり見たところの悪口とかは人の悪口とかおしゃれない。そういう漫才だということもあってねって勲4等旭日章受章というのも受けていらっしゃるんですよ。おめでとうございます。ご兄弟そろっておもらいになった。それは本当によかった。でお兄様の方は身体が弱かったそうでなにから兵隊には行っていらっしゃらない?
@兵隊には行ってないです。だからあの大阪の方でうろうろしていまして空襲のときもちょうど大阪にいたんです。
「大阪の大空襲のときに
@そうですねん。その時に何かあの町内をね空襲警報発令とを別にそんなこと言わなくても分かっているのに何か言うで歩いたり
「あのサイレンが鳴っている中でバケツをたたいてすごい大きい声で叫んでいるおじさんがいましたよね。あのサイレンの方が大きいのにどうして叫ぶんだろうなといつも思っていたんですけどもあの空襲警報発令てね声でね。
@わかっているのにそれをいって歩いていました。
こいし¥私もその空襲の味を知らんもんですからあの広島におるときに重機関銃やからグラマン(米軍機)と打ち合いをするわけですよ。これが恐かったですね。グラマンがキーンキーンといってバババババと撃ってくるんですよ。(人が)上半身を出して
「見えるんですか?
¥見えますねえ。それが瓦がまっすぐバラバラバラバラとわれてくるんです。重機関銃でそれを打つんですけどもそれが怖くてあの小さい鉄かぶとにどれだけ体をかくそうかと思った。
「それはそうですよね。こっちのやつは全然届かないでしょう。届くんですか?
¥もう上半身が見えているぐらいですから僕たちが使っていた兵器が800メートルぐらい飛ぶんですから、ですからそれでかわらが割れてくるからキーンキ-ンという音を聞いて転写撃ちと言って後ろからを打つんですけどもだんだん離れていくんですから弾が届きませんもん。だから空襲の味は知らないで原爆にやられたわけです。
「でもう不思議なことにですねをお家はアパートだったんですけどもそのアパートが奇跡的に今も残っているんですって。まあ!お子さんの時に住んでらした大阪の家が今も残っている。
¥西成区というところで。有名な富田の遊郭というところがありました。そっちの脇の方にありました。
「ずいぶん頑丈なアパートなんですね。
¥ところがわれわれが住む前吉本にいた入ったときから住んでいるんですからその前から立っているわけですから。
「すごいですねぇいまも
¥この間もちょっと取材のあれで見に行きましてヒョッとみたらそのままで立っていて
「懐かしかったでしょうね
¥もう懐かしい。ちょうどその手前の部屋がおやじとおふくろの部屋やったすからね
「大空襲があったのにね。でもそうやってお父様とお母様とお兄様が待ってらっしゃるところにこちらが手にそういうペラペラした白いものでお帰りになったらびっくりなさいましたでしょう?
@それは何か幽霊みたいなのがねパッと帰ってきたんですから。でも案外でその感動的なあれはなかったね
¥それはおやじがちょうどねぇ僕が路地の突き当たりにアパートがあるんです。そこをずっと入っていったらちょうど入り口の上のところに2階がおやじが暑いから半袖なんかを着てそれでカナリアかなんかに餌をやってまんねん。
「ずいぶんよくのんきにカナリアかなんかにそんな時代にいましたね
¥いたんでしょうな(笑)。それにえさをやっていてそれで下から見ておやじがおるなと思って下から”おい”と言うたんです。そしたらおやじがえさをやりながらちょっと見て”おお”そして私が”おお”それだけですわ。よく帰ったなせがれよなんてそんなのはおまへんねん。
「お母さまは?
¥母親はその時はまだあいません。部屋に行ってから会いましたけども。その時は泣かれましたけども。はい。
@母親が空襲があった話を聞いてからもあいつは死んでこの世にはおらへんって(*広島に原爆が落ちたという話を聞いて息子は死んだと思った)っていうて位牌まで作って拝んでいるんです。
「弟さんの。
@はい
「もうその時は拝んでらしたの。
@僕が言うたんですよあいつは絶対に死ぬような奴じゃない。だから心配しなくてもいいといいったんですけどもその通りになって帰ってきましたわ。
「まあよかったですね。
¥原爆というものはあと草木も生えないという話があったんです。全部焼け野原のカラカラになってしまう。だから家に帰ってからオフクロがその毒が体に回っているといけないからといってドクダミというのがありますね
「ええ
¥あれをすってねえあの青汁を飲めというんですよ。これは毒を全部消してくれるから。お袋の前では飲みましたけども苦くて苦くてね
「それが効いたかもしれませんよ。今でもお元気でいらっしゃるんですから。
¥それで家の植木鉢の上にほかしたりね。
「そうですか
黒柳「もちろん前から一緒に漫才はやってらしたんですけどもそれからはずっとなんですがご結婚なさってお2人とも金婚式が過ぎて
いとし@はい。
「といいますのは昭和25年の3月に弟さん、4月にお兄さん。ほとんど同時ぐらいにご結婚。でいつも漫才の時に奥様のこと鬼瓦というふうにおっしゃっているそうなんですけども実はとてもきれいな奥様でいらっしゃいましてご覧ください。これは芸術選奨文部大臣賞ををおもらいになったときのお写真ですけどもとてもお二人ともお綺麗でいらっしゃるんですけども、あのお兄様の方はってをいを神様がくださった上さんだというふうに本当は思っていらっしゃるそうですけども
@そうですねぇなんでウチのなくなったオフクロがも毎日毎日お参りに行っていたところがあるんです。白竜さまといって・・・の木の中にその白蛇ですか白い蛇がいてそこにお社があったんです。そこへわれわれのことを祈りいってくれてそれでお袋が言ってぼくも一緒に行ってたんです。その時にうちに来た女房というのがそのお社の近所なんですわ。だからこう何か引き合わせというのかわからないですけども
こいし¥あの嫁はんは蛇の子か?
「ハハハ(笑)でもまあ神様にね拝みにいらしたところの近くの方なのでお兄様にすると神様がくださったようなカミさん。で弟さんの奥様はお名前が政子さんとおっしゃるものですから皇太子妃雅子さん。まあ字は違うんですがだけどもお名前が同じだということでうれしいとおっしゃっているということですけども。
¥私は1年離れておりましてね、1年前に嫁にもらいに行ったんですよ。今里の家のおやじが鉄工所ですから。そこにもらいに行ったら芸人をやめて鉄工所の工員になるんやったら娘をやるといわれて。何を言うっとんねん生まれたときからの芸人じゃ。そんなもので止められるかといってそれから家に行かないようになって1年間全然音信不通。それでその近所に劇場があったんです。そこへ寄せでいったんです。その時はいとしこいしの名前に変わっていましたから漫才をやっていっぱい入っているその前のエプロンをかけた女がうつむいたままで顔をみまへんねん。これは失礼なやつやなこいつは。人の漫才が面白くないから下を向いているのかと思って集中的に攻撃をしていってパッと顔をあげたら今の嫁ハンだ。1年ぶりに名前が変わっているのを知らないから見にきよったんです
「ああそうだったんですが。そういうことで本当にご縁があるんですね。それから拝みにいらっしゃった所の神様のところにいらっしゃった奥様なんですけども奥様随分背の高い方でいらっしゃるんですね。お兄様の奥様。
@そうですねぇ
「とっても鬼瓦とお二人でおっしゃっているんですけどもご覧のように非常にきれいな奥様でいらっしゃっているということをちょっとご紹介しておきたいと思います。
¥ありがとうございます。
黒柳「本当にあの品のいい漫才とさっきも申し上げましたようによその人の悪口などは絶対におっしゃらない。そういうことからまあ1番当たり障りのない奥様のことをおっしゃるという。ちょっとコマーシャルになってしまったんですけども、奥様みんなによく平気でそんなこと言われているわねって。
いとし@あれがうちの亭主の商売ですねん。あれで私たちは生活してますねん。というんです。
「(笑)でもお綺麗ですからねそういうふうにおっしゃるんだと思いますけども。でもお二人とも3人ずつお子さんがいらっしゃって。お孫さんが
@うちは6人
こいし¥こっちの方が多いです。
「そちらは何人?
¥僕のところ3人。女ばかしです。
「お兄様の方は?
@うちはうまいことをまぜこぜになっていまして
「そうですか6人ですからそうですね。でもまあい2人で何かを決めるときにじゃ孫の数の多い方で決めようというふうになるとどうしてもお兄様がお勝ちになる
¥そう。これは負けますねんどないしても。
「そうですよねぇ。でもとにかくお二方ともすごい戦争の中をくぐっていらしたから早く平和な世の中に子供たちが安心できる世界にしたいと思っていらっしゃるんですってね。
@そうですね。自分たちがくぐってきたあれを見ると怖いですからね。これから後の若い人たちはああいう経験をなくして平和に暮らしてもらいたいと思います。
「そうですねぇこの後弟さんは神戸の東灘区にお家があってまあ大変だったという話もあるんですがお二人のお話しをずっと書き起こしたあの本の”浮世はいとし、人情こいし”のという本がもうすでに出ておりますのでもしがお二人のことがもっと詳しくお知りになりたい方はそれを読んでいただければと思いますけども。実は弟さんは40歳のときに膀胱がんを
¥はい膀胱ガンでございまして。
「人工膀胱になさっている
¥ここに今でも袋をつっております。
「でもお元気でそんなことみじんも感じさせないようにやっていらっしゃいまして、それでお兄様の方は家をなんですか6年前に
@脳内出血で倒れまして
「よくお口がなんともなかったですね。
@1番心配したのが口が回るか回らないか。
¥脳内出血で脳の中に血が出たその血はどこに行ったのかな?
「それが心配
¥医者に聞いたら吸収するそうでんな
「そうなんですか。とにかく日本中みんな楽しみに待っておりますのでお元気でいつまでも本当にこのようにお元気でいらっしゃるのでよろしくお願いいたします。
@¥ありがとうございます