本日の徹子の部屋ゲストは小山内美江子さん

2003年1月16日

黒柳「しばらくでございました。小山内美江子さんなんといっても代表作は金8先生ですけど、あの金8先生はどう長いすごいって長いですよね。第1回目が出たのがもう

小山内≪1979年ですから24年目に入りますね。

「24年目。このあいだ私マッチ、近藤マサ彦さんと話していてマッチあれに出ていたのねって中学生の役でって。

≪そのころザベストテンで随分お世話になっていた

「そうですそうです。よくベストテンに金8先生の方がいらっしゃってその子がもう30いくつというんですからねそれはすごいです。それからこのあいだ息子さんの俳優さん利重ゴウさんと、皆さん俳優さんでもありますが映画監督としても認められている方でいらっしゃるんですけどもこの片おいでいただいて大きな息子さんなんですけどもいろいろお母様のこと、このことご存じのない方はきっといらっしゃると思うのね。お名前を小山内美恵子の息子でございますとおっしゃってないでしょうからね。

≪言いません

「どうですか俳優さんとして、映画監督として見てらっしゃると?

≪そうですね彼は監督なんですね。でも食べられませんから

「あ生活。

≪それで俳優さんをやったりCMをとったりとか

「そうですよね。でも金8先生をお書きになるときはちょうど息子さんがいいころかげんの年で金8先生をお書きになるのに

≪そうですね彼がちょうど卒業した翌年から書いているんですね。

「中学校。

≪ですから中学の時にこんなことあるのかしらと思ったのがちょうどいいネタになったといいましょうか。とても臨場感といいますかね怒りもあったし喜びもあったので。

「だから身近にそういうモデルといってはなんですがいいヒントくれる人が身近に息子さんとしていらしたということでまあ小山内さんはとてもいろんな新しいものをお入れになってつい先ごろの金8先生にも性同一性障害の人を登場させる本当にいま問題になっていて、でもアレですよね息子さんを育てになるのもそうだと思いますけども金8先生の1番大きなみんなに与えたいということは先のこと考えて教育するというような

≪そうですね。まあ中学3年生は高校受験で頭がいっぱいですからそのために友達はライバルだなんて普通じゃないですよね。やっぱり1番感受性豊かな時に自分は何になりたいかになりたい。なりたいもののために勉強するはずですからそういう応援歌を書いてみたいとというのが最初のきっかけです。

「だからどういう会社に入るとかどういう学校に入るかということではなくてどういう人になりたいかということをお書きになりたかったということでしょうね。だから息子さんをそういうふうに育てていらしたそうなんですけども。あの息子さんがこちらでこの前お話しになっていた別れになったでしょうご主人と

≪はい

「そのことをお子さんにどういうふうにおっしゃっていたかということなんであれなんか本当に長期展望でそういう風におっしゃっていたと思うんですけども。その時ごろになったかどうかは分かりませんけども息子さんの利重さんはちょっとお母さんのこと話してらっしゃるVTRですけどもちょっといいですか?

≪はい(笑)

「皆さんにお目にかけてちょっとここのところご覧いただきたいと思います。ご覧ください

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黒柳「

利重≪で今までうそをついていてすみませんでした。もういきなりですねすごい真剣な顔でそれであのアメリカにいるというのも嘘です。実は東京に住んでいます。もうこの年になったから離婚というのはこうこうこういうもので男と女にはあるというのもわかるでしょう。まじめに話して。

「何か土下座をしてお母様が謝ったですねあなたに

≪本当にそのうそをついてすいませんとこう土下座ですね。してですね。ついては。何を言われているのか最初はわからなかったですけどもついてはそういうことだからあなたは向こうは会えれば会いたいと言っているけども会ってみる気はある?ということで小学校6年の時にうそことを知って会うようになったんですけども。あの今では感謝していますけどもオフクロを含めておじちゃんやおばあちゃんや親戚やら

「おじさまおばさまがいらしたのはよかったですね

≪みんなが協力して本当にその通りオヤジの悪口を言うことも一言もなかったしお父さんはアメリカで頑張っているんだからものお前もしっかり立派な大人になれよということで育ててくれた。

「それはお幸せでしたよね。

≪本当にそれは幸せなことでしたね。

「その時気付かなくても今になってみればね。

≪やっぱり家族というものはすごいものだと

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「あの別れたご主人のことを子供には別れたとを言ってらっしゃらなくて、アメリカで仕事をしているからあなたも頑張るようにとおっしゃった。

≪あの別れるときにですね死んだというふうに言ってくれるなといわれたんですよ。当たり前ですよね。

「昔はよくもう死んだということになっていましたよね。

≪で年頃になって実は生きていたといったらぐれるのは当たり前だというテレビがいっぱいあるじゃないですか。そんなのなるのイヤですからね。だからやっぱり当時アメリカでそろそろいろんな仕事が行くようになっていましたからそれでアメリカと。

「だけどまああんなふうにおっしゃったことをとても感謝しているとおっしゃっていましたよね。やっぱり離婚したとか言われてもとてもショックを受けるだろうし、小さいときはね。

≪あのとにかく夏の子でしたからお誕生日とクリスマスだけは何かを送ってちょうだいと頼んであったんです。

「そのご主人の方に

≪必ず送ってくれたんですよ。ところがですね小学校5年ぐらいのときにどうしてアメリカから伊勢丹の(包装紙に詰まったプレゼントが届くのか?)というんですよ。

「(笑)

≪そこで親はうろたえてはいけませんので。あの日本だってシアーズのカタログがあるんだから向こうにだってあるんだと。それで頼んだから伊勢丹から送ってきて文句あるかといってなるほどで終わったちゃったんですよ。

「(笑)

≪非常に育てやすい子だった気がします。

「このご出演の後これ今年だったんですけどもこのあと息子さんご結婚なだったんですってね。

≪そうですね。はい。ありがとうございます

「おめでとうございます。ご結婚なさった利重さんおめでとうございました。そのお書きになっているということもそうなんですけどもやっぱりその息子娘自分の子供というものに対しての対処の方法ですよね親の。

≪親はうろたえてはいけないなというのと。ひとりですからね男の役もやらなければ女の役もやらなければいけない。

「まあそういうことたくさんあって確かに昔は死んだということになったんだけども本当にそういう死んだというウソはよくないというふうに思っていらした。彼も小学校6年生のとき出るときだったんだけども分かったというふうに言っていたんのでそれはありがたかったということなので。でもそれにしても60におなりになったときにですねお母様がそれまでお元気でいらしたでしょう。

≪91歳でちょうど私60になるときに亡くなったんですよ。

「いま息子さんがあんな風に大きくなったのでじゃあそろそろ自分のことをやってもいいかなと。もちろん本は書いてらっしゃるんですよ。だけどそれ以外にいろんな活動

≪ちょうどその時が湾岸危機だったんですよ。1,990年ちょうど大河ドラマを書きおわったときに

「大河はどんな大河でしたか?

≪飛ぶがごとくという西郷さんの話。

「そうそうありましたね。昨日もその話をしていたんですけども。昨日みんなでしたんですけどもあのいろんな言葉が出てきましたけどもあの大河ドラマをやるときにみんな他の偉い人たちは信長でも家康でも秀吉でもみんないわゆる同じ言葉で話しているのに西郷さんだけどうして九州の言葉で話すんだろうってね(笑)だからやっぱり西郷さんはああでなくてはいけないなとみんな思うのかなと思って笑って話していたんですけども

≪まであまり標準語使われるのもいけないんですが語尾だけは「なんとかなんとかでゴワス」と言う風にしようとしたら上手なんですね。全部薩摩弁でやるのでテロップが入ったんですよ。

「入りましたそうです。

≪で元に戻したです。

「そうだったんですか(笑)とにかく飛ぶがごとくをおやりになってその後だった。

≪であの時は12年前になるんですけどもね

「もうそんなになりますか。早いですね

≪またイラクの問題があってずっと心配ですけどもな顔の見えない日本人とかあの時いろいろバッシングを受けて

「お金だけ出して顔が見えないとはい

≪ちょうどちょうど母が亡くなって番組もあってちょうど60どうしようかというときだから、こういう顔でよかったら見てくださいと見せに行ったんですよ。それが第1回目の。(海外で紛争や戦争などが起きたとき日本はお金だけを出して人を出さないので日本人の顔が見えないとバッシングされたので小山内さんは直接現地に行ってボランティア活動を始めた)

「そうなんですか。顔見世で日本は顔が見えないとお金だけ出してと言われたんでこんな顔ならと。カンボジアに学校をつくるということからをはじめになりました

≪いやですから1回目はそうですね。で帰ってきて結局戦争になってクルドの人が残っている。今度クルドの人の救援に初めて大学生と言ったんですよ。これがよかったんですよ。

「今でぜひご覧いただきたいのは今の日本の若い何もかもある近くに水もある電気もある食べ物もたっぷりある、そういう中からこういう所に一緒にいらっしゃるとどういうふうに人生観が変わるというふうに実際に見てらして子供たちびっくりしたでしょう。

≪そうですね最初のイランがかなりインパクトがあってやっぱりこういうのをかぶっていなくてはいけない(女の人は黒いずきんをかぶって外出する)その夏日本なんてキャミソールじゃないですか

「ベロっとね女の子は全部だしているけどもう絶対いけないですから。

≪いやいけないってあれは自由ですから

「あっちはあっちは

≪だからそういう国があるんだと。

「宗教ででやってますから

≪91年の秋にカンボジアの和平協定を結ばれて以来カンボジアで学校作って。

「JTB学校をつくる会というのを

≪JTBというと旅行の(ですから)、JHP

「ごめん。そうですねそうですねジャパンチーム・オブ・ヤングヒューマンだから。JHPですね。JTBじゃなくて(笑い)観光会社みたいですね。ジャパンチームオブヤングヒューマンパワーでジャパンとヒューマンとパワーでJHP。失礼いたしました。特定非営利活動の法人をつくっていらっしゃって。それですでに行った人がすごい人数ですよね。学生さんたち。

≪そうですね700人ぐらいですよね。

「大変ですよ、1回にはそんなに1杯じゃないんですけども学生とかフリーターの方連れていって。それで学校を向こうにお作りになるんですけども学校をつくるのは本職の

≪業者ですね。でその人たちがも終わるころに

「あちらの業者の方

≪ええ、いくのです。間に合わないとペンキを塗ったり窓枠をぐったりイスを摘んだりしながら

「できることなら手伝う。

≪学生独自の活動としてはブランコを作る。

「ブランコを作る皆さんでブランコといったってなかなかで倒れたら大変ですのでねもすごいですよ今やブランコを作る大家ですって?

≪大家です。

「いかに倒れないようにできるかということで。ちょっとコマーシャルも挟みましたねこの左側で命令をしてらっしゃるのが小山内さんですが。すごいですよねこの辺なんか衛生なんかもよくないしねなかなか体の病気になる子もいると思うんですけどもあのそこへ子供さんたちを連れて今まで1回もそういう経験のない人たちを連れてしかもわりと長い時間行っているんですよね。

≪4週間ですから約1月ですね。

「1月ですよね。1月も無効に。3月と8月年に1回。春休みでもないのか

≪春休みです。

「春休みですよね。それと夏休みと学生さんたちやフリーターの方をお連れになるんですが。ちょっとコマーシャルをはさみましてブランコを作りになる大家。小学校ですよねちょっとコマーシャルです。

黒柳「小山内さんすごいのはすでに75棟。これはカンボジア

小山内≪だけ

「だけで。皆さん75棟ですよ小学校をお作りになった。小学校て当たり前じゃないか義務教育でと皆さんお思いかもしれませんけども全然状態が違うんですよね。

≪そうです。

「何しろ学校がないんです。教育のある人は全部ポル・ポトに殺されちゃったし本当に勉強するチャンスが子供たちにはないし家がまずくしかったり親がいなかったりすると本当に小学校に行けない子供が大勢いるんですね。建物があって先生をやってくれる人がいればということで75棟随分できましたよね75棟

≪あの1年に1棟ずつでもと言っていたんですがそれが10年近くして75棟。そのうちのひとつだけ孤児院を昨年暮れに

「よかったですね。あそこの孤児が多いですからね。孤児で育った子供はポル・ポトに親が殺されて孤児で育った子供は自分の子供の育て方がよく分からないと言ってまた捨てちゃったりするでしょう。

≪ゴミ山で働いてますからねぇ

「だからこういうふうに世界中でやらないといけないんですけども顔を見せる本当にいい機会だと思って大変だと思いますが。そこにいって学校作るのは業者がつくるにしてもペンキを塗るぐらいのことはできますけどももちろん素人の学生さんフリーターの日本からお連れになる方はできませんのでブランコをつくろうと。その作り方のエキスパートでいらっしゃいます。そこを教えてらっしゃる所のVTRがあるんですよみなさんちょっとご覧くださいすごい詳しいの。~VTR~

≪泣きじゃくってますでしょうこんな白けた日本の子供がこんなに暑くなるのかとみんな思うんですけども本当ですね。

「そうですね。回りの生活とかそれからカンボジアはたくさん殺された人のシャレコウベやなんかがそのままに記念として置いてあったりするところを見ていろんなことやっぱり肌で感じる。だいたい何人ぐらい学生さんを連れになるんですか?

≪そうですねまあすごい要望が多いんですけども女性男性で20人。それに大人が入って30人ぐらいになります。

「じゃ20人ぐらいずつで全部で700人ぐらいをお連れになったということですからそこで体験した子供たちは少しずつ少しずつでも本当に人生豊富になっていくと思うんです。やっぱりずいぶん子どもたち変わって

≪そうですねちょうどそのそろ阪神(大震災)ですよね1月17日。それはで帰ってお正月の活動で帰ってきてすぐにみんな行ったんですよ。

「ああそうなんですか。

≪これはね何もないということは今の若い人たちはイメージがわかないんですね。テレビを見ていて燃えてるから寝るところないから寝袋持っていこうとかね電気が来ていないから懐中電灯がいるというふうに指示待ちじゃなくなるんです。この1カ月みんなで助け合った何もないところで

「指示待ち、いままでの子供は指示を待っているという感じだったんだけども。例えば暴走族の子とかねそういう普段本当に手がつけられないような子供もたくさんお連れになったと思うんですよ。小山内さんのことだから。

≪さっき1人入っていました

「そうなんですか。そういう子やっぱりあれなんですか。はじめ行きたいと言ってもしばらく待たせるんですって。

≪やうちわで強制学院じゃないんですからねごめんなさいと。本当に行きたいのか?という話し合いの後で行ってもらいます。で途中でやめちゃうんですけどもいろんな仕事をしていますので向こうに連れていきますと大学生より役に立つんですよ。

「そういう子たちは。阪神の時だって茶髪の子がすごく働いたってみんな驚いたじゃないですか。

≪だからほんとハンマーの握り方とか大学生に教えるんですよね。大学生が感謝しますから彼もやっぱりコンプレックスが吹っ飛んでですね同じ仲間だって

「それは自分も大事とされている必要とされているというところで。

≪頼りにされているということがうれしいんでしょうね。

「そうですか。でも大変だと思いますよあそこに40日いらしてねああいうふうにおやりになるの。年に2回やってらっしゃるんですけども体の負担ですよね。並大抵じゃないと思いますね。

≪その他第一ドウジョウはカンボジアなんですけどもその他ユーゴにも人数があると派遣します。であの徹子さんのユニセフの方でもアンゴラに1人入れました、ああアフガンにひとり入れましたけども。これは学生は無理ですから専門の子を入れたんです。そういうところを見て歩きますのでちょっと大変ですね。

「そうですねお歩きになって。

≪いつ本を書くかって(笑)

「その間に金8先生を書いてらっしゃるわけですからね。それでさっき申し上げたように性同一性障害の話とか今1番子供たちの中で知っておいた方がいいことをお入れになってらっしゃるのでね、そういうなんですかね

≪マスコミの過剰報道被害とかねそういうのもうまく組み合わせながら。

「やってらっしゃる。まあそういうふうにしてご自分で。でも子供たちは本当に日本の豊かな中から物がね豊かな中からそういうところに行くので感じるところはいっぱいあると思いますよね。

≪みんなやってあげよう何て思っている子もいるんですけども帰ってきてレポートださせますとね学ぶことの方が多かったってみんな言ってくれる。

「なるほどね。

≪それがうれしいですね。

「あの今やってらっしゃるのはJ H P学校つくる会というのでもう本当に一生懸命やってらっしゃるんですよね。これもすごい、でもあれでしょ向こうに行って病気になったりする子とかいると思うんですよおなかを壊したりとかね

≪絶対します。

「そうですよね。

≪それはね汗をかきますでしょ。飲まないと脱水症状が起きますので水を飲め飲め。下っても悪いもので当たっていなければ治るからと。それはおばあちゃんの知恵でこううまくいってあげると。絶対的に信頼していますから信頼していない子供は困るんですけども。

「なるほどね。

≪後規則をいくつか作ってそれを守らないと翌日帰ってもらうと。念書入れて今親御さんが

「翌日帰ってもらうというのは怖いですよね。(笑)子供にとってみると。

≪やっぱり親御さんの顔が浮かびますのでねで何かあったら大変ですからね。おなかおかしくなりそうだ、なった、水になったという段階が4つあるからいいなさいとかいって。恥ずかしいらしいですけども

「女の子なんか特に。男の子もそうですけども。

≪いや女の子の方より男の子の方が恥ずかしいですよね。で逆に汗が全部出て今度便秘しちゃう子がいましてね男の子がきて何日?というから3日だというんでそれらしきお年寄りの薬をやって報告をしろと。そしたら流れないんですって。大量に出て。それでまたみんながドレドレと見に行ったというから同じかまの飯を食ったんじゃなくて同じつぼを観た仲間だって

「なるほどね。

≪兄弟みたいですね。

「そうですねそういうことでは日本では機械を通さないと人と離せないみたいな若者たちが同じトイレを覗きにいくというようなね、心配して自分のことのように考えたりすることは必要なことなんでそういう少しずつ少しずつのことみんながやっていくことが大事なんでしょうね。きっとね。

黒柳「さていろいろやってらっしゃる中で今度お墓のお話しなんですけども女のヒの会というこれ私もいいなと思うんですけども。ヒというのは碑ですね。どういうことから?

小山内≪あの私がやっているわけじゃなくてそういう頑張っている方、私たちより4つ5つ上の方はですねそのお相手の方がみんな学徒出陣でなくなってらっしゃるとかで、お相手のないはっと気が付いたらその歳。自分たちどうしようという集まりが京都のジョウジャッコウ寺

「有名なお寺ですよね常寂光寺。常に寂しい、寂しいと言ったらあれですけども静寂の寂ですよね。それから光と書いてお寺です。

≪そこのご住職がじゃうちに作りましょうということであの碑の会碑は市川房枝先生がお書きいただいた

「なんて書いてあるんですか?

≪女たちここに眠る。平和を望みここに眠ると。とてもすてきな。

「いいですね。

≪何年か経ってこの供養塔ができましてその下が井戸なんですよ。そこが土なんです。みんながそこに眠ろうということでガラガラといれちゃうんです。

「一緒に

≪そうすると土に返ってきますからあの本来土に帰っていくものだと思うので、私自身こんなつぼに入ってこんな中に入れられて次の人が来るまで待っているのは私はいやなものですからガラガラがいいなと思って。でお仲間に入れていただいて。

「そうなんですって。お仲間になってらっしゃるんですけどもそういうのをやってらっしゃると言ったんでちょっと語弊があるかもしれないけども、それを一生懸命やってらっしゃるということなので広めていらっしゃるということなんですけども。あのさっきおっしゃったように戦争中に恋人とかうんと若くして結婚した方もいらっしゃったでしょうからね旦那様を早く亡くした方とか。そんなことだけではなくていろんなことで何かあのドクフレンというと言葉は悪いんですけども(笑)独身婦人連合会。ドクというと毒婦というと昔はポイズンの毒だと思って、そうじゃないですよ独身の夫人の連盟があってその方たちも

≪ご一緒ですね。

「ご一緒にそこに入ってらっしゃる。そういう方たちが身寄りがなかったりまあいろいろだったりして女たちで力を合わせたんだから一緒に眠ろうということで。ただ残念なことにですねこの常寂光寺の方はいっぱいになっちゃったんですってね。だけど東京でもやろうとか

≪東京で次の世代の人たちが始まっています。

「でもこれでヒントにして他の所でも私皆さん本当に心を合わせてやればできないことはないと思いますよね。

≪そうですね。

「お墓の話ばかりで恐縮ですけどもでもこれから重要なことですよね。

≪あのなんとか霊園といてね環境破壊がどんどん進んでいますでしょう。それよりも1つの井戸にガット入っていく方がいいなと

「なるほど

≪お骨仲間というんですね(笑)

黒柳「小山内さんは常寂光寺のところにバサバサと入れてほしいとおっしゃっていらしたけども

小山内≪ただで少し気の多い人ですから半分にしようと思いまして。半分はどこかマングローブの根元とか砂漠防止とかマンゴーの所に肥料にまいてもらいたいんです。

「肥料にまいてもらいたい。育つように。

≪きれいになくなりたいなと。それまで若い子といろんなことをしようと。

「でも本当に息子さんがいらっしゃったということもあるんですけどもやっぱりその金8先生をお書きになってらっしゃることがを若い人たちとずっとかかわっていこうということになっていますかしらね。

≪そうですねあの人たちみんなパワーをもらっていると思います。前はね息子とやっていいる年代的にね今は孫です。

「孫。孫ぐらい。そうですねあそこで一緒にカンボジアでブランコを作っている子供たちは孫ぐらいかもしれないんだけどもやっぱりそういう子たちと今でもまた8月になるといらっしゃるわけでしょ。

≪そうです。

「大変。3月になったらまたいらっしゃって。そうですよねお元気でみんなもご活躍を楽しみにしておりますので本当にありがとうございました。息子さんにも利重さんにもよろしく

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