2002年5月21日
黒柳「本当に良くいらしてくださいました。戦前と戦中で上海で一番のトップダンサーでいらしたんですね。マヌエラという名前で(踊って)いらしたんですけども現在90歳です。この間の私のやってるクイズ不思議発見の上海の回で戦争中の上海のこととかを話された方でもいらっしゃるんですけどもこの方の人生をこの短い時間でうかがうにはうかがいきれないので駆け足になってしまいますが。素晴らしいお綺麗なトップダンサーでいらしたんですけども、びっくりするようなダンスがお上手そしてお綺麗です。とにかくマヌエラという名前じゃないと当時は・・・」
和田≪上海では日本人と分かると≫
「そうするとマヌエラさんとお呼びしたらいいの」
≪うん。どっちでもいい≫
「じゃあ妙子さん。妙子さんがおもに踊ってらしたフランス租界、イギリス租界。”租界”ってことばをみなさんよく聞きなれない、歴史にはよく出てくるんですが中国の港をもった都市であってそこで外国人が住んでいて住んでいる外国人が行政・警察を管理していた地域を言ったそうで租界という地域が上海にはいくつかあってそういうところで踊ってらしたという事なんですけども抗日感情が激しい時だったので。しかしさっきのお写真でも分かるようにどこの国の人かわからなかったので」
≪だから私のマネージャーに日本人って絶対に言うなって言われましたね。言ったらいちころだって。≫
「そんなに簡単なんですか?」
≪抗日の一番激しい時にいちゃたんですね。だから(上海に)行く時にうちの母はびっくりしましたよ「大丈夫なの?」って。とにかく行かして貰ったんですけどもね≫
「お若いんですよね行かれた時は」
≪私19で後家さんになりましたからね≫
「みなさんお聞きになりましたか。19で後家さん。とっても良いお家にお生まれになったんですけどもとにかくSKDの1期生になられて。お生まれは元々北朝鮮で」
≪そうです≫
「ナンポというところでお生まれになってお父様は実業家、お母様はいいお家からこられてとても裕福だった。(家族写真が登場)可愛いお母様ですね。」
≪お母さんの若いときは本当に綺麗ですよ。自分の母親を言うのはおかしいですけども。昔映画でジュリアンディッシュというのがあって。≫
「ああ!ありました」
≪あんなタイプ。私母さんと町を歩くとねみんな男の人が見るんですよ。私いやだから母さんの袂を持って下を向いて「フン」とやてやった。≫
「ジュリアンディッシュというのは最後に”8月の鯨”というのをみなさん見たと思うんですけども。そういうところでお嬢様として育ったんですけども結核におなりになったものですから日本のほうが湿気ってなくて乾燥しているから(大陸から日本に)いらしたんですけどもまあいろんなことがありましてSKDにダンスがお好きという事で入りになって。水之江タキコさんと同級生?」
≪そうですあの日は私よりも3つ下なんです。私は朝鮮のチンナンポというところの女学校を出ましたけどね私が17彼女が13だったんですよ。すぐに入りました。≫
「そこでもう17歳の時にご結婚になったんですね」
≪そうです。その先生と≫
「振り付けの先生?」
≪そう。≫
「大反対猛反対。松竹ですよねSKDは≪そうです≫松竹も(結婚に)猛反対。ところが19歳で後家さんということはご主人は?」
≪1年と何ヶ月かでしたね≫
「そんなに早くに」
≪だから悲しいよりも何もね、私19にもなってないのに。お棺に入れるときに花やなんかを入れますね私の家はクリスチャンだからパパと約束できることはね踊りだけは約束ができるけども私もちゃっかりしてると思うけども私も若いでしょ好きな人ができるとかお嫁さんに行くとかは約束できませんねって。これは本当よって。でもね子供はちゃんと育てること。どういう状態になっても子供は育てる。それから踊りは絶対に有名になって見せるからねって言ったんです。≫
「その時お子さんはいらしたの?」
≪いました。今もいます。≫
「じゃあその最初の1年半ぐらいしか結婚してない間にお子さんが」
≪できちゃったの。すぐにできちゃったの。若いからね。18でお母さんになったの≫
「大変ですよね。亡くなったご主人に好きな人はできるかもしれないですけど踊りだけは絶対続けるからねって(亡くなったご主人が)踊りの先生だったこともあって。それで割と早くに結婚(再婚)なさいましたよね」
≪2年ありました。2年綺麗な女の子であったから良いなと思ったの。私の家がクリスチャンだった事もあってアメリカのあれをたくさん知ってんですね。そうするとリキが来たのね≫
「リッキーさんと言う方が」
≪リッキーと初めて会った時にちょうどジュージ・ホリーという人が日本に来てましてねタップダンスを日本に教えていたの。タップの靴を作ったのも私なんですよ≫
「銀座の吉野家産は有名ですけども。ああーそう」
≪タップの靴を見ていたので吉野家に作らせたの。≫
「リッキー宮川さんという歌手の方とご結婚になった。でご結婚なさったんだけどもどうせ踊るんだったら上海に世界各国のトップダンサーが集まってるので上海に行ったらどうだって話がその頃持ち上がってきた」
≪いやリッキーと結婚してる間はその話はまだないんです。その人とずっと一緒にいるし踊りもやってていいって言ってたんで(リッキーさんは)コロンビアの歌い手でしたんでねコロンビアで歌と踊りのイルミナーテと言うのを公会堂でよくやってたんですよ。それでその時に私は前座みたいなので踊りはスパニッシュが好きだったんですよ。川上スズコって日本で一番上手いスパニッシュダンサーがいたんです。≫
「いらっしゃいましたね」
≪あの人上海で踊りをやったんですね。すごい厳しい人なんですね。最初行ったときに「何がやりたいの?」って言われて「私はエスパニガンが好きなんです」って言ったらいきなりピアノを弾くんですよ。(※川上さんのところに教えてもらうまでは)「1・2・3・1・2・3さあそこで踊って」ていう教え方なんですよ。これがなかなか覚えられないんですよ。(※川上さんのところに行くと)タンタカタンタンタン~♪って音楽が鳴ると体が自然に動くんですよ。体が覚えてるんですよ。その時に初めて踊りと言うものは音楽から入っていかなくてはいけないって。松竹(SKD)の頃はいくらソロで踊ってもフィーリングが全然ないのね。少女がいて踊ってるだけで。ダンスホールに松竹にいる時は行っちゃいけないって言うのね社交ダンスがあるから。どうしてですかって先生に聞いたら社交ダンスは男の人がリードしてあなたがついて踊るんだって。「あなたはこれからソロダンサーになりたいんでしょ?」「そうだ」「そうすると男の人が主導で踊ると受身になるからあなたが引っ張られて踊るからダメだ」って。社交ダンスなんかをやるとあなたはソロのダンサーになれないって言われたのね≫
黒柳「とにかくその宮川さんとは結婚なさったんですけども4年後に離婚なさって」
和田≪その時にねバージニアっていう私のお友達が私がアメリカに行くって言ったらば「アメリカにはいい踊りがないんだから上海に世界中の舞踊家が来るから行きなさい」って。≫
「今日おこしいただいたマヌエラさんは上海一のトップダンサーでいらしたんですが現在90歳でいらっしゃるんですがすごいスピードでお話になるんで私も驚いているんですが、それでは行きましょうという事で上海に行きましてフランスのムーランルージュで女形をやっていた人に踊りを習った?」
≪ドン・パスコーラ。≫
「この時のマーネージャーさんがアメリカの方でこの方が抗日感情が強いので日本人とは言ってはいけないよということでマヌエラさんという事になって。」
≪子供の時から私にはどっか(外国)の血が入ってんじゃないのって言われてねすごく悲しい思いをしたんですよ。色も黒かったからフィリピンかねコウジキシカン見たいに思われたものだからあなたに外人の名前を付けようとMrミルズが”マヌエラ”がいいとスパニッシュが踊るんだったらマヌエラって。≫
「その時に上海で一番のダンサーになろうと誓ってらしたのね?」
≪思ってましたね。私見たんですよいろいろなナイトクラブに行ってね。上海っていうか外国はそうだと思うけども劇場で踊る踊りはロシアンバレエみたいなああいう踊りね≫
「クラッシックみたいな大勢が出てきて踊る。」
≪あとソロで踊る人は大抵ナイトクラブね。フロアショーのダンサー。フロアショーなんて東京にはないからバカにしてたのよ私。恥ずかしいって。だけども嫌とか好きとか言ってられない食べていかなくてはいけないし(日本にいる)子供にもお金を送らないといけないし(フロアショーでのダンスを)やりだしたんですけどね≫
「一番お好きな音楽は”ペルシャの市場”」
≪そう。大好き。≫
「(音楽流れる)これ!こういうの聞くと体がムズムズします?」
≪する≫
「どういう風な手つきで踊ってらしたの?手だけでも」
≪これねえフルーツバスケットもって(※頭の上に両手をもっていく)ペルシャの市場でどうですかって?歩く。みんなが来るとこれいかがですかって。こうやって踊ったの≫
「あら!!可愛らしいですね。まあ90歳でいらしても今でいうコケティッシュなところがおありだったからそんな風にみんなから可愛い可愛いって言われたんだと思うんですね。」
≪でもね初めはコケティッシュじゃないの。(踊りの先生であるパスコーラさんが)あなたはとっても良いけどねセクシーじゃないって。「どうしてセクシーに踊れないのか」ってカルメンなんてストーリー知ってんだろうって。「知ってます。だから踊ってるんでしょ」って。でも一つもセクシーじゃない。「どうやったらいいの?」って聞くと恋をしたらいいだろうって。「私は恋もしたわよ」って私。だけどその後別れちゃったその後はいないのって。それなのに踊りを踊るとその中の人になりきっちゃう人。ペルシャの市場も先生はムーランルージュで女形で踊ってたんで目の使い方が大変上手い。だからこの先生から私には無いっていうセックスアピールを学ぼうと思って。(先生が和田さんに)あなたの目は死んでるて言われたの。踊りダメ踊りの中のセクシー足りないねって。男もっと好きになんなさいって。でもね寝なさいという事と違うよって言われた(笑)。≫
「恋をしろって」
≪すると自然とそういうあれが出てくる≫
「だんだんとそういう風になっていったんだと思うんですね。そのあとマヌエラさんにハリウッドへこないかってユニバーサルから」
≪社長さんがね。その時にどうしてそんなことをおっしゃったかと言えば、(※ある女優さんの名前を思い出そうとしている和田さん)ええとなんだっけ・・・≫
「ああ!わかりましたピーナッツいりませんかって・・・ああなんだっけ(※黒柳さんも思い出せない)・・・何とかミランダ」
≪そうあの人見たいにしたいと。でもあの人は顔があんまし良くないと。まだあんたの方がましだと。来ないかって言われてマネージャーにすぐに行ったの私には決められない。ファーレスの親父さんなら決められるだろうって言ったのね。(親父さんは)今取られたら困りますって言ったのね≫
「その踊ってらっしゃるナイトクラブがね」
≪そのユニバーサルの社長さんが”She is born the dancer”って言ったのね。私うれしくて≫
「生まれながらにしてのダンサーだと」
≪そう。≫
「(※ここでいきなり女優さんの名前を思い出す)カルメン・ミランダ」
≪そうそうそう≫
「カルメン・ミランダはとっても踊りは上手いけども顔は綺麗じゃないと。あんたはカルメン・ミランダよりもいいからお出でと。ところが行くと決めて荷物も(アメリカに)送ったのに12月4日だったんですねそれが」
≪(真珠湾攻撃が)8日でしょ≫※12月8日日米開戦
「戦争がはじまった年ですよ。1941年(昭和16年)12月4日にハリウッドに行く事を決めて荷物を送ったらば船が途中まで行って(船が)行かなくなったんですよね。そういう風に20世紀は戦争の時代と言われてますけども戦争に巻き込まれたことがわかったわけです。ちょっとコマーシャルに」
≪はい≫
黒柳「とにかく日本が真珠湾攻撃をして戦争が始まってしまったためにユニバーサルには行けなくなってそうこうしている間にみんながチリジリばらばらになっちゃってそれで日本に引揚という事になって3番目の夫である今のお名前の和田さんという人にお会いになった」
和田≪彼は私の踊りに夢中だった人。あの人は日本人街に住んでたんですよね。あの人は私というよりも奥さんがいましたからね。とにかく私の踊りが好きで好きであんたに惚れたんじゃなくて踊りに惚れたってはっきり言う人。≫
※3番目のご主人の名前は和田忠七さん
※3番目のご主人である和田(忠七)さんは和田妙子(マヌエラ)さんと出会った時既婚者であった
「そうですか」
≪そのうちに私を本当に好きになって奥さんを日本に返しちゃったの。私絶対に奥さんがいる人と結婚しませんって言ったものだから本当に離婚しちゃったの。そのとき私困っちゃった≫
黒柳「あちら(上海)で暮らしていると日本の人がどんなに(戦争で)大変だったかという事がお分かりにならなかったんですって?」
和田≪知りませんでした≫
「家族バラバラになって。お母様たちと会うことができたんですけどもお母様があんまりにも老けてらっしゃったのにはびっくりしたんですって?」
≪びっくりした。あんなに(昔は)綺麗で私心配になって袂を持って歩いたのに(今は)こんなにもしわくちゃになってお婆さんみたいになってって思った。食べてないから。私が(上海から)いくらお金を送っても買えないんですって買出しに行かないと≫
「ご存じなかったから上海からお金をどんどん送ってらしたのにね」
≪買出しに行かなければいけないでしょ。でもうちは九州の小倉の人ですから≫
「まあそこで和田(忠七)さんと御結婚になりまして。チラシみたいなのがありましたけども長谷川一夫さんと淡谷のり子さんとチャリティーショーみたいなのがあったんですねえ。(※写真登場)これはチャリティーショーだったそうですけども戦後わりとすぐの時に。それとお洋服のモデルもなすったんでしょう当時」
≪私の洋服を作っていた人がマレーネ・ディートリッヒのお抱えの人だったんですよ。≫
「上海の時に」
≪オールボンスリーってものすごく高いの。うちの母が洋服屋をやってたんですね。母さんがびっくりして全然縫い方が違うの≫
「そのマレーネ・ディートリッヒのお洋服を作っていた方に(和田妙子さんが)普段に着るお洋服を作ってもらっていたのを日本で着たらあんまり良いんでみんながびっくりした。だからモデルもやってらした。それでマヌエラというナイトクラブを(日本に)お作りになった。」
≪その前に喫茶店をやったんです。≫
「マヌエラという」
≪NoNoNo。マヌエラという名前じゃ可哀想と思ったの。で”モレナ(喫茶店の名前)”に≫
「モレナ!!NHKの側の!。あれそうだったの。ありましたよ側に。私達しょっちゅう行きましたよ。」
≪あそこは初め”ディディス”っていったの。私あそこに電話があったからその頃に進駐軍の慰問に行くじゃない。それで行ったりすると電話をあそこで使ってたりして。そこのおじちゃんが日本郵船のコックさんだったの。私が欲しいお料理だとかフルーツケーキとかを貰っていた。シュークリームをこんなに大きなのを作ったの。150円。これが毎晩飛ぶように売れたの。≫
「なるほど」
≪みなさん買ってましたよ。≫
「そういうことで有名だったんですよ”モレナ”って。お菓子で有名だったと思います。それからマヌエラというナイトクラブをお作りになったんですけどもオープニングの司会がE・Hエリックさんで」
≪そうそう≫
「そんな事から岡田真澄さんや俳優さんがたくさんいらして三島由紀夫さんなんかも」
※岡田真澄さんのお父さんがE・Hエリックさん
≪そう三島由紀夫さんねえあの自殺なすった前の日に会っているの帝国ホテルで。私娘を連れて帝国ホテルに行ってご飯を食べて食べ終わってパパ(ご主人)が迎えに来るのをポケーと待っていたら向うから三島さんが来たの≫
「ふん」
≪(三島さんが)「何してるのこんなとこでママ」って言うから「私ご飯が済んでパパを待ってるの。ところであなた(ナイトクラブ”マヌエラ”に)来ないわね」って言ったの。そしたら「そんなことはないきっと行くよ。2,3日後に」。その次の晩≫
「あそこでなすったのが。まあ本当に話は尽きないんですけども”わが人生には悔いなし”というお考えなんですってね」
≪わが人生には悔いなしですね。≫
「それから80歳から日本舞踊もお始めになって」
≪そう(笑)≫
「いま90歳ですけどもお元気でいつも前向きで。お元気なのはそうですからかね」
≪それとね人間何か(お金や高価な物を)持ってたら惜しいでしょ。私みんな人にあげちゃったの≫
「物でも何でも。無一物ですってねえ今」(番組終了)