2002年7月11日
黒柳「本当に良くいらしてくださいました。こういうお洋服(※タキシード)なんで手品をする方かもしれないとお思いかもしれませんけども、本当に珍しいんですけども活動弁士。つまり無声映画に声をお付けになる第一人者でいらっしゃるんですけども今でも弁士の方がいらしゃることがびっくりなんですけどもしかも女性で。何人かの方がいらっしゃるんですか?」
沢登(さわと みどり)≪10人未満です≫
「どういうところでおやりになる?」
≪私どもは無声映画鑑賞会。東京キネマクラブですとか、全国の上映会にお招きいただきましてとかあと外国とか≫
「だけど多いときには8000人も」
≪1919年、大正8年当時は全国で8000人近い活躍があったそうで。≫
「有名な方では徳川ムセイさんとか、牧野しゅういちさんとか。それとあなたの師匠の」
≪松田シュンスイ。≫
「あれまず”助けて”とか字が出ますよね。前後は何を言ってるか分からないのですが見てると分かるようにできてるんですがお付けになるときはどういう風に」
≪(実演)こういう感じで≫
「そういう文章は自分でおつくりになる」
≪そうなんですね≫
「複雑で筋がわかんないというのは無いですか?」
≪あります。大正初期ぐらいの時ので登場人物の方がみんな同じに見えちゃうんですよ。で失敗しちゃったんです。ここだけの話試写をみないでのぞんだんでAもBもCも男の方の顔が同じに見えちゃって。≫
「ただ面白いのは弁士をつけるのは日本だけのことなんですってね」
≪実は欧米でもごく初期の頃はいたらしいんですけども、しかし日本人て語りの芸が好きじゃないですか。日本人が愛し育て最盛期には8000人近い人々を現出させたというか。日本人のかたり好きの伝統が弁士を日本独特の存在にしたんじゃないかと。≫
「でもチャップリンのお嬢さんがいらした時に”街の灯”?お見せになったんですってあなたが語って」
≪ジェラルド・チャップリンさんと淀川長治さんが並んでご覧になって終った時にいってる言葉の意味そのものはわかんないけども感情が伝わってきましたといっていただいて抱きしめてくださって感動しました。≫
「後からああいうものに音楽が付いたりなってますけどもね初めの頃は何も無くてチャップリンも無声映画やってますものね。」
≪チャップリンはパントマイム芸が素晴らしかったので無声映画にこだわって≫
「あなたも最初にデビューなさったときはチャップリンで?」
≪そうです”チャップリンのスケート”という短い映画で。スケートリンクで妙技を紹介するというものだったんだけども台本を書いて行ったんですけども頭に血が上って自分が何しゃべったかわからなくて今思うと寒いギャグを言ってしまって。チャップリンが恋するエドナさんに名刺を差し出すんですね「まああなた男爵様ですの!!うちの父はかんしゃくもちで困るんですの」って。そしたらお客さんが喜んでくれまして病み付きになってしまって≫
「でも1番最初の時のご紹介のプログラム(※最初に弁士を行った”スケートリンク”のプログラム)見たいなのがあるんですけどもあなたのご紹介が”女性覆面新人弁士”ということであなたの事を紹介になってるんですけども。」
≪覆面してるわけではないんですけども名前を出していただけなくて。新米で≫
「でもこの無声映画と弁士が面白いとお思いになったのはあなたの師匠の松田春翠(まつだ・しゅんすい)さんのやったもの」
≪”滝の白糸”という名作を松田春翠先生の語りで拝見しました時になんて素敵なんだろう弁士になると自分の好きな映画を語れるんだって≫
「あなたはこういうのをやってみたいとお思いになったんですか」
≪質問とかをしてたらそんなに興味を持ってるんだったらあなたやってみなさいと先生がおっしゃってくださって家に帰って「ねえねえねえねえ私弁士になるのよ」っていったら「え!弁護士じゃないの」って言いましたけども。≫
「でもその無声映画がよくそれだけ残ってたと思いますけども」
※無声映画は古いものなのでよくフィルムがのこっていたという質問
≪松田春翠が私財を投げ打ちまして貴重なフィルムを集めまして無声映画鑑賞会というのを作りまして全国で上映会を≫
「松田春翠さんが40年間ぐらいかかってお集めになった。それがあるから今できるわけでね。そうでなければ散逸しちゃたかもしれませんね戦争もありましたし」
≪立派なお仕事をされた先生で(※松田春翠さんの話になり涙ぐまれる)≫
「あなたも涙が一杯で。色々教えてもらって」
≪そうですね15年前に他界されたんですけども亡くなる前の日までお仕事をされていて本当にお世話になりました。≫
「8000人もいたのに今は10人未満になってるのにやりたいっていう女のお弟子さんがいらして先生もお喜びになったんだと思いますね。で一生懸命教えてくださったんだと思うんですけども。今日は映画につけていただこうと思うんですが何を?」
≪長谷川チエゾウ主演の”瞼の母”を。原作は長谷川シン先生の戯曲から長谷川さんが独立プロを起こされましてそこで作った若き日のチエゾウさんの代表作なんです。10代の山田五十鈴さんもでてらして≫
「なんかお綺麗で文楽のお人形みたいとか。どういう風になるのかちょっとコマーシャルです」
≪≫
黒柳「」
沢登≪~映画上映中~(終了後会場拍手)≫
黒柳「まあ本当にありがとうございました」
沢登≪とても難しかったです。緊張してしまいまして≫
「でもお客様の中には鼻をすすってる(泣いている)方もいましたから」
≪もっともっと勉強します≫
「でも10代の山田五十鈴さんは文楽のお人形みたいで。あのお母さんをおやりになった方は?」
≪常盤ミサコさんといってこの後も”瞼の母”が同じ片岡チエゾウ主演で映画になったんですけどもそれでも母・お浜の役をなさっていて≫
「これは原作があるものだからあれなんですけども初めの方に上の瞼と下の・・・なんでしたっけ?」
≪”上下の瞼閉じてじっと考えりゃあわねえ昔のお袋の面影が瞼の内に浮かんでくるんだ”≫
「そういうのが最初にあってでも本当のおっかさんに会ってしまうともう(瞼の母は)いねえって。何て可哀想って長谷川シンのうまいところなんですけども。それにしてもあなたの師匠松田春翠(まつだ・しゅんすい)さんが40年間ぐらいかかってお集めになった無声映画が6000巻。これが無ければ今見ることができないわけですから良くお集めになりましたねえ」
≪本当に良く集められたと思います≫
「あなたは良く外国にいかれてフランス、アメリカ、イタリア、ベルギー、ドイツ、オランダ、ドイツとそういう国にいらっしゃってそこでああやって弁士の声をお付けになる。」
≪そうです。バンクーバーで”滝の白糸”と早川雪舟の”チート”もさせていただくんです≫
「これ(チート)は日本では上映できなかったものですよね。国辱的だとかで。早川雪舟さんの人気ってバレンチノとどっちがって言うぐらいだったんですって」
≪すごかったそうですよ。早川雪舟さんがぬかるみのところを渡ろうとしたらご婦人がコートをぬいでそこにおいてお歩きくださいと≫
「それであなたは日本語でおつけになるの?」
≪そうなんです。長いセリフには英語の字幕がついてまして≫
「長いのありますよね上から下までびっしりと。でもこんなに可愛い女の方がいらしたら向うの方はビックリするでしょうね」
≪いえいえ≫
「お召し物はこんな風な感じで」
≪はい。後は着物に袴≫
「ヨーッロッパでやった時にあなたがやってるときにどこかに猫がいたんですって?」
≪そこで板妻の作品をやってました。母親がなくなるんですねそこに駆けつけた若侍の板妻が「母上~(にゃお~※猫の声が入る)」「なぜこのような姿に(にゃお~)」。客席に猫のお客様がいらしたんですね≫
「そんなところに猫がいるとは思いませんものねえ。お客sんも笑ってたでしょう」
≪深刻な場面なのに笑っちゃうんですよ。その次の日は映写機が止まっちゃたんですね。しょうがないので私はフランス語ができないので知ってる限りの英語でつないで。見かねて通訳の方が助けてくださったんですけども汗びっしょりで。≫
「今やるネタは何十本ぐらい?」
≪おかげさまで60~70本ぐらいの作品が≫
黒柳「松田春翠さんは声が言い方で廃盤になったんですけどもレコードが残ってるんですね。その残ってる”血煙高田の馬場”大河内伝次郎さんがやってらっしゃるのを聞かせていただきます~再生中~いやあかつぜつのいい方なんですねえ。そうするとこういう先生のものが残ってるやつは先生のをお使いになるんですか?」
沢登≪はい。≫
「こうやって見てみると面白いものですねえ。」
≪映画が大好きなものですから好きな映画の好きな俳優さんのそういったものを語らせていただけるというのは幸せだと思います。≫
「やっぱり演技をした方にとってはみんなに想像してもらうのもいいんですけどもそこをきちっと弁士の方に説明してもらえればこんないいいことはないかもしれませんねえ。お弟子さんがいらっしゃるんでしょ?」
≪はい男の子と女の子が。≫
「これからアメリカにいらっしゃってやられるそうなのでご成功を祈ってます。これからこの灯を絶やさないように本当にありがとうございます」