本日の徹子の部屋ゲストは追悼特集2さん

2002年7月16日

黒柳「今日の追悼の最初の方は伊藤俊人さんです。40歳というお若さで本当に売り出し中というか本当にヒットするドラマにいろんなものに出てらっしゃいました。ただ役ではないこういったトークに出るのは初めてということですごく緊張してらっしゃたんですけども楽しい話をして笑わせていただきました。清潔感のあふれる若いハンサムな方だなっと思って私拝見していたんですけども、このでてくださったのが去年の11月でございます。ですからあの時はあんなにお元気だったのにと。40歳、ご結婚なさったばっかしだとその時もおっしゃっていましたけども残念です伊藤俊人さんご覧いただきます。」

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2001年11月21日放送

黒柳「よくいらしてくださいました。”ショムニ”、”お水の花道”、”さんま御殿”に出てらっしゃるんですが。メガネなんですけど」

伊藤≪ドラマとかにですね出るときに監督にお尋ねするんですよ”メガネはどうしましょうって”すると”外してみて”、”はい”、”うわ~目つき悪いねえ”メガネをかけると”それでいこうかバカぽいよね”とか言われて。≫

「メガネをつけるのとはずすのではあなたずいぶん眼光が鋭くなるのね外すと。外したときは犯人とか多いの」

≪そうですねやっぱり目つきが悪くなってしまうんで≫

「でもハンサムでいらっしゃるから。目がずいぶん大きいんですねえ」

≪メガネをかけるとやさしくなるんですかね≫

「普段はかけてらっしゃる方なんですか」

≪はいかけてます。コンタクトの方が楽だとは思うんですがソフトもハードも持ってたんですが合わなくて。2週間ほど続けなくてはいけないらしいんですが続かなくて”辛抱足らないね”と言われて止めました≫

「芝居のときはメガネがあってもなくてもかわらない」

≪舞台ですと最前列から4,5列目まで見えちゃうんで上がっちゃうんで≫

「じゃあ無い方が」

≪はい舞台は無しでやってたんですかテレビは目つきがあれなんで”伊藤さんはメガネでしょ”って言われて≫

「今舞台とおっしゃいましたが三谷幸喜さんの”東京サンシャインボーイズ”でずっとやってらしたかたなんんですけど(伊藤さんがいつのまにかメガネをかけてるのを見て)あなたメガネをおかけになったのね、そうすると突然違う人と話してるように思えて」

≪よく言われるんですそれ≫

「そうですよね振り返った時「わ~びっくりした(会場笑)」違いますよね。お家の中ではどうなんですか」

≪かけてます≫

「奥様は慣れてらっしゃる」

≪そうですね≫

「別に私みたいに驚かない(会場笑)」

≪はい≫

「タップが非常にお上手」

≪大好きですけども。お上手というと≫

「ジム・ケリーがお好きだそうですけどもそういう役ってやったことあります?」

≪ないです≫

「テレビではねえ」

≪舞台ではミュージカルのお話がきた時にねえわがままを言ってタップシーンいれるんなら出てもいいよっていうことはいったことがありますけども。≫

「何かの時に入れてもらえばいいじゃないですか?犯人がやったらおかしいですけども(※伊藤さんが犯人役が多いということで)。タップダンサーの犯人とか」

≪いいですよねえ≫

「ご結婚なさって奥様は衣装の事をやってらして何の時にお知り合いになられたんですか?」

≪ショムニというドラマの衣装さんで一目ぼれです。≫

「でご結婚されたんですけどもなんてったって結婚する時にいろいろなものを捨てられちゃったんですって?」

≪服は全部2枚重ねに着てたんですね半そでの上に長袖。夏がくれば上着を脱げばいいし冬がくれば羽織ればいいわけですから。全部一貫してやってたわけなんですけおDもお願いだから止めてといわれまして。ダサいからといわれて全部捨てられてしまいました≫

「じゃあ今日のお召し物は奥さんのコーディネート」

※スーツにネクタイで出演。上着ポケットにハンカチが見える

≪はい≫

「私目の錯覚かと思いましたけどもこのYシャツもハンカチーフも薄いピンクなんですよ。だからこのネクタイがピッタシ来るんだなっと思って。ありがたいですよね奥様がお出来になるとね。それにあなた段ボールも集めていたんですって?」

≪集まってしまったんです。捨てられなくて。でもなんかあった時に役に立つのが段ボールだと思ってるんで≫

「どのくらい集めました?」

≪大体90弱・・・(会場笑)。東京に引越ししてきてから捨てたこと無かったんです。綺麗にたたんで置いておいたんですけども「何これ?」といわれて「いや引越しの時に・・・」「いいのよ今は業者の方がくれるからいいのよ!!」と言われてじゃあ捨てると≫

「(笑)奥様あなたよりも若いんですか?」

≪34です。5つしたですね≫

「この人は高層ビルの窓拭きをやってらしたそうで。ゴンドラに乗って。喜劇なんかではお部屋の中で何かやってるときにゴンドラが下りてきて中を覗いてるということがありますけどもあれ本当に見えるんですか?」

≪見えます≫

「見える。」

≪我々は見えないよっていう顔をしながら、なんかおかしいなっていう場合は逆光で見えないよっていう芝居をします。ですからとんでもないところに出くわした事もありますし≫

「ああそう」

≪木箱から銃を見たことがありまして≫

「その時はどうしたんです?」

≪見えてませんよという感じで降りていって。まあモデルガンだったかもしれえませんし≫

「これが長くなさったんですよね。何年?」

≪10年弱。きついものですから辞めていくんですね。夏は暑いし、冬は寒いし。でもお仕事で融通が利いたんですね。≫

「自分に芝居があるときは休ましてくれる」

≪それもありましたし早く終ると早くあげてもらえるといおうこともありましたし(早く帰らしてもらえる)。長く居たものですから独立しないかといわれまして。≫

「独立してそれにならないかと」

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黒柳「次は俳優の室田日出男さんです。室田さんは東映の第4期ニューファイスでいらっしゃいました。そして同じ期の佐久間良子さん山城しんごさん、花園ひろみさんがどんどん売れていく中であの方はずーとエキストラを続けていました。でもいつも俳優が好きで情熱を持ち続けていました。後に個性的な俳優さんとして認められるようになったんですけどもお葬式の時に深作欣司監督が「あいつは僕の生きがいだった。おまえを上手く撮るのが俺の生きがいだった」とそんな風にお思いだったんですね。室田さんはお喜びだと思いますけどもここにきてくださったときは本当にお優しく温厚で魅力的な方でした。ではご覧下さい」

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1999年3月17日放送

黒柳「まあ”前略おふくろさま”で日本中の人たちに知ってもらえるようになったんですけどもその前に”6羽のカモメ”というのがあって」

室田≪はい。≫

「あれにちょっとおでになったら倉本さんがみんなから言われてた変だったんですって?」

≪ゲストなんだけど明日リハーサルで明後日本番なんだよ。みたら1人で僕がベラベラしゃべってるんですよね。人1倍物覚えの悪い方で台本覚えられない方なんですよ。徹夜で覚えてそのうちどうにかやりこなしたんですけども。倉本先輩が来て室ちゃんまいったよファンから手紙が来てヤクザをこの6羽のカモメに出すとは何事だといわれて(笑)≫

「本物のヤクザを」

≪と思われたんですね≫

「そんあに長いセリフを言ってるのに。本物のヤクザを出すのは何事だっていわれるのはずいぶんお上手だったんですね」

≪いやいや。≫

「昔人がケンカしてる時に間に入って引き分けようとしたら大変になっちゃったことがあるんですって?」

≪ヤクザどうしだったんですね。その時は飲むとケンカするものだと思ってたものですから、おおこれはいいやと思ってエキストラで全然しゃべらせてもらえずに帰ってきてるものですからついついベラベラでちゃてねえ。「おい!おまえら往来の前でみっともないじゃないか。何てことするんだどこの組のもんだって」始まっちゃって(笑)。そしたら2人とも組長クラスの人間がもめてたんですね。後から聞いてゾーとしましたけどね≫

「その時は上手くいったんですか?」

≪ええああまあ(笑)≫

「でもセリフをいうときはすごい一杯NGを出しちゃったりするのにそのヤクザをオイオイオイというときは滑らかに言っちゃたんですって」

≪そう≫

「なにかずいぶんNGをおだしになって深作欣司監督とも仲良くていらっしゃるんですけども深作さんのものでもすごかったんですって」

≪おまえに関しては一番カチンコ叩かされたよって。≫

「一番出した時には30何回というのがあったんですって?」

≪36回というのが一番多かったんですかね。サエキキヨシ監督の時だったんですけどね。≫

「その時は相手役の方はいたんですか?」

≪相手役もおりました。忘れましたけども(笑)≫

「なにを言っても昔は10年早いといわれて、10年経って同じことを言ったらば」

≪15年早いといわれましてね。いつになったら対等になれるのかなあと思いましてね(笑)≫

「室田さんは北海道のご出身で」

≪小樽の生まれです≫

「小樽というのもずいぶんロマンチックな街ですよね。ドラマにもなってるし」

≪そうですね。でも僕らの時代は馬車馬だけでしたからね≫

「ご兄弟も多いのね」

※家族写真が登場。室田さんのお兄さんが出征する時の家族写真

≪はいうちの両親もどっちも明治の生まれですし、あの当時はうめや増やせやの時代だったらしくてもう1人生めば10人になって天皇陛下から錦糸勲章をもらえるとかで。≫

「一番中央に居るお兄さんが出征する時の。でも割とお父様とお母様は早くにお亡くなりになって」

≪終戦後すぐに親父が死にまして、その後うちのお袋が中学1年の時に亡くなりまして≫

「大変でしょうね」

≪いやあどうしていいかわからなかったですね。≫

「お姉さまがとってもお母様代わりになってくださった」

≪そうなんですよ。たまたまその姉と僕がお袋が息を引き取る時にいてお袋が「百合子、日出男だけが心配だから日出男を頼むと」言って死んでいったから(笑)母さんにおまえのこと言われなかったらお前みたいなろくでもない人間は居候になんかさせなかったのにって(笑)≫

「でもそのお姉さまが最初に東京に出てらした。」

≪はい≫

「そのお姉さまを頼って東京に出てらしたんですけもそのお姉さまがニューフェイスの募集に室田さんをお出しになった」

≪そうなんです≫

「なんでも佐久間さんと同じ映画がデビューだったんですって?」

≪はい。≫

「あちらはスターで」

≪はい僕はABCDEFGHI・・・・とあとでセリフが1声あったんですけどもそれはみんなで「ハーイ」というだけのセリフでね(笑)≫

※エキストラA、エキストラB・・・

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黒柳「今日の最後は作曲家指揮者としても有名だった山本直純さんです。本当に天才的な方で本人はおっしゃいませんでしたけども小澤征爾さんに指揮を教えたというぐらいの方で。そしてみんなにクラッシック音楽を好きになってもらいたいということで一生を貫いた方でした。作曲の方では寅さんのテーマソングとか、1年生になったらとかおばQのテーマソングとかでもその他には合唱組曲という大変な曲も作ってらっしゃいます。若い頃から知ってるんですけどもとってもお優しい方で、でも孤独なところもあたんですけども絶対に見せない方でした。5月31日にコンサートの指揮をなさって亡くなる直前までゴセンシに向かっていたそうです。」

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1994年10月14日

黒柳「19年ぶりということで色々お聞きしますけども奥様は芸大の作曲家で同級生。学生結婚」

山本≪聞こえはいいけども僕は落第坊主で6年間かかっちゃたんですよ。作曲課の同級生だったんだけども途中で指揮課に変わりましてね家内も卒業しまして卒業した時に結婚しましたから片一方は学生ですが家内の方は≫

「4年で卒業。奥様は当時芸大のマドンナと呼ばれていた。山本さんと小沢さんは仲が良くてしょっちゅう一緒にいたんですね。」

≪仲は良かったけども小澤は可愛い弟子でね僕はいうことを聞かない弟子なんですよ。先生が教えようとするシステムは理解できるんですけども理解できるのと実行できるのは別ですけどね。サイトウ先生に教えてもらった事はいろいろな事を教えてもらったんですよ。誰も彼もがサイトウユキオの似たようなものでね類似品みたいなものだ。指揮なんか教えるようなものじゃないっていう時代だった。それから30年か何十年か経ってみて誰一人サイトウ先生に似た指揮者は居ないですよね。ま役者も同じかもしれませんけどね金子信雄さんに教わったからってあれと瓜二つの芝居ができるわけじゃないと同じでね、自分のものがでてパーソナリティが加わってはじめて芸術というものができると想像するんですが。≫

「それであれなんですってね芸大にお入りにおなって作曲課にお入りになったのに芸大の指揮課って言うのはすごい先生がいたのに生徒は1人もいなかったんですって?」

≪先生はクルトベッサンという外人と山田カズオさん、金子のぶろうさん、渡辺アキオさんというそうそうたるどの先生に付いてもね。1対1ですからね指揮者は教える時は。前に立つと緊張してても上がらないという先生ばっかりいて生徒は1人もいなかったんですよ。≫

「渡辺アキオさんがお願いだからって」

≪そうそう君来いよって。僕も辞めたくてしょうがなくて。要するに社会の方が面白いから。テレビの音楽やったりね、色々やれるんですよ。だけどやらしてくれない芸大っていうのは。辞めたいんだけども渡辺先生に言われてしょうがなくいたんですよ。ある時渡辺先生がちょっと来いっていっていったら僕はオーケストラ作るから君は副指揮者になんなさいって。これはいいなって。これはいいなってやっと日のあたるところに出られるなって。ただし学校は辞めなさいってこういうんですよね。先生話が違うじゃないですか先生はどうするんですかって言ったら僕も辞めるって。≫

「ええ」

≪内の親父が怒っちゃってうちの親父も音楽家だったものですから最後まで学校を出るって約束だったのに辞めるのかって。だめだって。首になるまでいようと思って学校はほっといて渡辺アキオ先生のかばん持ちみたいな事をしたりサイトウユキオ先生のところに行ったりして最後の2,3年はろくに学校には行かずに終っちゃいましたけども。≫

「でも結局は6年間」

≪まあ出してもらえたんですね。やっぱり演劇とかそういうのも面白くてね、放送局を渡り歩いたり≫

「あの頃は一杯仕事があったでしょう」

≪そのころは放送局のスタジオからスタジオを渡り歩き、その頃にあなたと放送局の片隅で会って編物なんかしてお待ちになってたりセリフを覚えていたり≫

「いつも降ろされていて同級生の仕事が終るのを待ってましたんで。見たことあるの私が編物なんかしてるのを?」

≪忘れてるの3人娘でヤンボー、リンボー・・・≫

「「ヤンボー、リンボー、トンボー」に出るまでの1年間は私は降ろされて乾されてましたけども同期生が仕事して私は一緒に仕事して帰るってことになってましたから、私はそんあに家をでてきてすぐに帰ってきたら心配するからいつも長いすで本を読む、編物をして時間をつぶす。そこを見てたのね(笑)」

≪この方は才能がなくて役者になれなかったのでも役がつかなかったのでもなくてありすぎて良すぎてキャラクターが良すぎるものだからその辺の役ではどうしても黒柳徹子になっちゃって花子とか何とかの役には向かないんですよ。ですからねえ才能豊かな方って言うのは・・・≫

「でもあれじゃない直純さんだってそうじゃない。お互い仕事があってここまできましたんで」

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黒柳「ありがとうございました。直純さん私をよく理解してくださって。ほんとにそうなんです私は「ヤンボー・リンボー・トンボー」というので本当の意味でデビューしたんですけどもその前の1年はいつも降ろされていました。個性が強すぎてその個性をなんとか引っ込めてくれないかといわれてましたのでその時のことをご存知の方は本当に少ないのにと思います。あすは村田英雄さん、清川虹子さんこのお二方をお送り申し上げます。村田さんは大変な中本当に良くお歌いになったことをみなさん良くご存知だと思います。清川さんはどんな事があっても私は喜劇女優よっておっしゃってどんなに苦しいときでも笑って楽しくさせようとした方でした。本当に残念な事であしたまたご覧いただきたいと思います。ありがとうございました」

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