本日の徹子の部屋ゲストは田英夫さん

2002年12月6日

黒柳「本当にしばらくでございました。であの私全然知らなかったんですけども腎臓を悪くなさって今日も透析をしていらっしゃった。

≪そうです午前中やりましてね

「あれすごい時間がかかるんですって1回が。

≪私は3時間半をですけども普通皆さんは4時間。その間動けないですよ。

「週に何回?

≪3回。

「うわー。じゃ外国にいらっしゃれない?

≪それがもう本当はねぇ私は外国を飛び歩くのが好きですから残念なんですが。でもねあの頑張れば旅行社に頼むと飛行機をとってホテルを取ってもう一つ病院をとっている

「それもやってくれている。じゃあ大丈夫は大丈夫なんですね。ずーっと乗っているんでなければ大丈夫なんですね。

≪そうでしょうね。

「まあそんなわけであのさっきご紹介したようにTBSのニュースのニュースコープ。これ毎日だったんですがそのうちの月火水を

≪そうです

「大変ですよね。ニュース当時ニュースキャスターの草分けとさっきご紹介したんだけども本当にそうだったんです。で木金土が古谷綱正さん。でその時は共同通信の

≪共同通信から最後は両方やるなんてのは無理だと思ってもう移りました。

「ニュースの方に。

≪しかられながらね。

「共同通信の記者でもいらっしゃったんですが社会部長までおやりになったんですが。ですが本当にニュース専門の方でいらっしゃる

≪そうですねん政治部にもいましたし南極観測隊の隊員になったり

「まあそうですねTBSで6年間そのニュースコープをおやりになったんですが月火水毎日と。その中で有名なのがハノイ。あれはすごかったですよねぇベトナム戦争中

≪そうです。ほとんど日本で入手できるニュースというのはアメリカから、アメリカ側から見たベトナム。

「てあのころでいえば南ベトナムの方ですよね。

≪そうそうそうそう

「それをハノイというのは

≪本当のことかどうかわからないんじゃないか。北からみたらどうだろう。まあ交渉して北側がようやく許してくれて入りました。入りましたら全く日本で考えているのとは違いましたね。もうアメリカが負けるなんてのは想像できなかったんですけども

「日本にいらっしゃる時はねぇ。

≪北ベトナムに行って見ましたら私が帰ってきてから書いた本「ハノイの微笑」という本の題をつけました。本当にほほ笑みながら爆弾を受けてやられながらしかし頑張っているんですねアメリカ相手に。

「相手にね。で結局は勝ったんですからね。でもその時全部アメリカからの情報でこっち側からなのに北に回ってご覧になるというのはそれは大変なことでしたでしょうね。

≪やっぱりねああいう戦争ですから対立しているのに一方側からだけのニュースで報道していては間違うじゃないかと思って思い切ってね。

「で思ったよりも向こうがベトコンと当時いったんですけども。あの方たちが元気であったということ。それはハノイ証言ということで有名になったんですね。それでずいぶん後に成田の三里塚とかいろんなことをなさったんですが

≪ありましたね。

「それでいろいろあって参議院議員におなりになってこれも凄いですよねぇ30年。

≪まあテレビのおかげもあったんですね。名前顔を知っていてくださって入れてくださるということがのが原因でしょうけれどもしかし体の方は頑張りました。

「そうですよねそれで5期お務めになったんですから。そういうときの疲労ですかねを今の腎臓というのは。

≪そうですね、いや飲み過ぎですよ(笑)新聞記者時代からの。

「そうでしょうか。そうなんでしょうかね。まあ元気でいらっしゃるんでねぇ。それはまあよろしいんですけども。で今はこれから伺うのは戦争の語り部として全国行脚をやってらっしゃるんですね。12月8日というのは日本が太平洋戦争を始めた日でございますのでもう計算するとびっくりするんですよ61年前。

≪いや本当に私が高校1年生でした。

「ああそう。本当にねぇ田さんの年齢の方がそうなんですけどもはどうしてというぐらいに次々次々戦争ですよね。

≪小学校に入った年に満州事変。中学校に入った年にそれが日華事変に拡大しました。そして高等学校に入ったその年の12月8日に太平洋戦争

「突入。あかでもその前にも515、二・二六事件それも全部ある程度わかる年齢でいらしたということなんですものね。本当に全部が戦争の年代といってもいい。だからもう随分同じ年の方って少ないでしょう。

≪もう本当に死んでいますねぇ。学校の同級生もそうですけども軍隊で一緒だったのは半分以上、3分の2ぐらいで戦死していますね。

「多分小林圭樹さんも同じぐらいの年齢ですよね。小林圭樹さんもおっしゃっていましたねほとんどいないって。本当にねぇ辛い年齢でいらっしゃると思うんですけども。それでって全国行脚をした。それをなさるというそもそもがって去年の4月のことなんですけども小泉内閣になったときに

≪そうなんです。いやねぇ私に比べればうんと若い方が議員になって新しくこられだんだんだんだんそのお話しを聞いているともう戦争の体験のない世代ですから

「外交防衛委員会のメンバーで

≪参議院の外交防衛委員会のそれを30年のうちほとんどずっといたんですが。そうすると相手が変わってきてどんどん若くなってくるとねもう戦争のことを知りませんから本当にきやすくね日本も戦争のできる国にすべきだとかね、まあ憲法改正して自衛隊を軍隊にしようとをはっきり言われるんですよ。

「20名いたそうですけども

≪そうです。委員は20人ですか。聞いているとこっちは戦争の体験がよみがえってきてねぇ。戦争というものはどんなにつらいものかひどいものかあなた方に話してあげようといってそこで初めてね戦争の語り部になりますよと言って

「お話しになった。

≪大臣があの田中

「真紀子さん?

≪真紀子さん。

「もう外務大臣でいらしたんですか。

≪それから中谷防衛庁長官もそこに座っておられるですけども30分ぐらいの持ち時間でひとりでこの特攻隊を志願したときの苦悩とかね、そういう話をしてあげたというかしましたね。4回ぐらいやったんじゃないですか。

「若い人は分かってくれたようですか?

≪いや大臣はお二人とも真剣に聞いてておられたけども若い人の中には何だという顔をしておられた方もいます。

「そうですよね。私本当につらいと思うのは戦争が終わった8月15日とかそういう時に渋谷とかああいうところ若い人たちに戦争、日本がアメリカとかと戦争したの知っていますか?というとほとんどのそこにいる人たちが「うそ」って戦争勝ったんですかなんて言っているのねぇ。そうするとその子たちは原爆は何だったの沖縄は何だったのって大空襲は何だったのっていうことを何の疑問も持ってないんだなと思うとこれは教育も学校でもちゃんと教えてないんだし

≪だから恐いと思いますね。同時にしかし考えてみるともう60年近く日本は戦争してないということはいう。だからうれしいといういいことですね。

「そうですね。普通25年たつと繰り返すと言われていたんですってね。。

≪実はで明治維新から太平洋戦争が終わるまでの間とこの終わってから今日までの間とそうちがわないですね。60年前後でねぇ。だからその間にね明治からの日清戦争、日露戦争を日本はずっと何か間欠的に戦争やってきたんですね。

「そうですねぇでもそこのところご存じない。私たちの子供のときに日露戦争始まった♪ってを言ってたんですけども今の人たちはもっと長く戦争知らないということですからね。だからそういうことでは今やってらっしゃるお仕事は大変な仕事だと思うんですけども5・15の時ももう騒ぎはご存じだったんですってね。

≪知っていました。二・二六事件の時は小学校高学年でしたからよく知っています。

「そのへんに血なんかはいたりしていたのご覧になった

≪こっちも野次馬でしたからねわざわざ見に行きましたよ。亡くなった方の高橋大蔵大臣とかね。

「是清さんですか。

≪それから斎藤実内大臣のお宅へ行ってみたら弾の跡があったりするんですよ。近くの電信柱にね。異常な時代ですね。

「そうですよねそういうのが実際に行われる中でみんなは普通の暮らしをしてたわけなんですけども。1部だったにしても大変な時代。そういうものをご覧になったりなんかしてさっきもおっしゃったように中学入学するときに日中戦争。そして高校にお入りになったときは太平洋戦争に突入したということでで学習院にずっと行っていらっしゃいまして。でも戦争が太平洋戦争が始まったときはあれだったんですって割とのんきに

≪ええ寮にいましてね。東京に家があるのに寮に入ってまして。そしたら朝早くにで隣の寮の親友がねぇ大きな声で何かを叫んでいるから窓を開けてみたらね「戦争が始まったぞ」と言っていたんですよ。でそれがまさに開戦のハワイですね。

「まぁいわゆる真珠湾攻撃とみんなが言っている。

≪ところがその朝私たちはね4人で同級生4人でテニスをやろうということになって学校が始まる前に朝学校に行ってテニスをやりましたよ。その時も

「なるほどね。昭和16年日本でいえば昭和16年の12月8日に始まったわけですよね。

≪だからそれから3年後に自分が言ったんですね大学に入ったとたんに本人が戦争に行くことになっちゃった。

「大学はそれでアレなんですよね。学習院ではなくて東大に。

≪はいそうです。学習院は大学なかったんです

「当時はなかったんですか。

≪それで高等学校を2年半に縮められましてね9月に卒業して10月に大学に入ってそれで12月に2カ月後に12月にお前たちは徴兵延期を取りやめるから徴兵検査を受けなさい。

「そうするとあの東大の生徒が行進をしていく有名なニュースいつもありますよね。雨の小雨の中を。あれとだいたい同じくらいあの時と同じぐらいの年齢

≪私どもはねまだ新入生でお呼びでなかったんです。だからあれには参加していない。

「入っていらっしゃらないニュースの中には。でも大体あの時にもう東大には入ってらしたということなんですよね。

≪それでいわゆる学徒出陣ですよね。

「だって本当に何歳ですかね本当に腹立たしいと思うんですけどもね。仕方がないですけども戦争だったんですけどもまだ10代

≪20歳ほどですかね

「20歳

≪ということは徴兵検査は20歳になると受けなくてはいけない。

「そうなんですね。そして海軍の航海学校というところにお入りになって。

≪そうですね。基礎訓練をまず半年やらされましてねぇ。その後航海学校で本当だったら軍艦を動かすという航海していくその航海士というのになるんですね。ところがもう乗る軍艦が少なくなってきているから

「その時にはねぇ本当はねぇ。でもまあ日本の政府はそういうふうには言ってはいなかったんですけども。とにかくこれからは行脚になるお話しだと思うんですけどもさっきちょっと特攻隊の話が出ましたが、本当におつらい話だと思いますけどもお話ししていただきたいですがみなさんもぜひこういう特攻隊20歳、21の人がこういういわゆるなんでしょうねそういうことを自分で判断しなければいけなかったという時代があったということでぜひお聞きいただきたいと思いますちょっとコマーシャルがございますのでコマーシャルです。

黒柳「まあとにかく海軍に学徒出陣ということでお入りにならなくてはいけなくなって海軍にお入りになりました。21歳でこういう決断をもし迫られたらもう今の若い方はどうなさるだろうと思います。21歳ですよ。特攻隊に志願せよと。そして3種類あると言われたんですって。

≪全員400人ぐらい航海学校にいたんですがそれが剣道場に集められましてね何か異様な雰囲気だなと思ったんですがその学生体調という人が壇上に登ってお前の中から特別攻撃隊を募集する。種類は舟艇、船によるもの魚雷によるもの潜水艦によるものの3種類であると。希望者は明朝0800午前8時ですね、までに教官に申し出る。こう言われたんですよ。

「その舟艇というのは爆弾を積んだものでそれで体当たりをする。

≪それで結局はいったんですけどもモーターボートのような船の頭に爆薬を積んでぶつかって相手の船をしずめよう。

「でも特攻隊というものはもともとその人は死ぬんですからね。それは決まっているんですからね。それは魚雷によるというものは

≪人間魚雷。回天です。

「回転しながら行くやつですね。

≪それから2人乗りの潜水艦ですね。

「特殊潜航

≪特殊潜航艇。

「真珠湾攻撃のときはこれだった

≪そうですそうです使われましたね。

「私それが何か模型だかなんだか見た事ありますけども本当に狭いですよね。こんなものに2人乗ってそれでこれでもって向こうにぶつかってそれで死ねと行けという。21で言われてそれでみんないったんですから。いくら教育が当時はそうであってもつらかったろうなと思うんですよね

≪本当にでその日は夕方食事をして勉強して

「何人かいたんですがその時手を挙げた人が

≪結局40人いたんです。

「400人の内

≪400人の中40人。もうみんなねほとんど一睡もしませんでしたね。その日の夜は。

「そうですよね。

≪みんなが悶々としているがわかるんですよ。で階段ベットで寝ていましてね私の上にいた人は結局志願しなかった私も志願しなかった。隣が上下しました。これも2人とも死んでいますね。

「でもしなかった人も同じくらい生涯ね、私とってもそれを思うと分かるんですけども一生涯ねぇどうしてあの時志願しなかったんだろうって

≪後ろめたいようなね。最後私は戦争が終わって生きて帰ってきましたか。その時に上に寝ていた人は戦艦大和で死にました。だからこの4人で生きているのは僕1人なんですよ。何かね戦争の話をするのは嫌でしたね。

「そうですってね

≪特に特攻隊でみんな死んでいったそのことを考えるとね。

「自分が卑怯者になるのも嫌。だけどもだからといってその時にすぐにはいと言って手を挙げるでもないというつらい。

≪結局朝になるまでにもうもうとしていてねぇ走馬灯のようにという言葉が本当にこの通りだと思ったのは映画じゃなくてスチール写真で子供の時の楽しかった旅行に行った思い出とかで友達と遊んだこととかそれと天皇陛下のために命をささげなさいというそういう思いとで教育を受けたそれが功を次々次々と頭の中に繰り返して

「だから始め手をあげた方たちは潔く行くぞと。

≪しかし全部死にましたよ。

「そうですってねなくなったんですってね。そして残りの360人というものは悶々としたけれども結局最終的には特攻隊に振り分けられたんですって

≪そうですね。だから大和で死んだり特攻隊で死んだり

「さっきおっしゃった田さんが乗るべきものは何かベニヤ板でできていた

≪ベニヤ板でできていたシンヨウ特別攻撃隊。地震の震という時に太平洋の洋。25隻で1部隊で2人ずつ乗っているんです。だから52。その50人はみんな予科練を出たね18歳ですよ。本当に

「たまんないですよね。でみんな口に出してつらいなとかそんなこと、今だったらみんなわからないんと思うんだけどもとんでもない話で

≪いやいや死ぬ覚悟しているものというのはねお互いに死ぬんだなとかね靖国神社で会おうとかそんな甘っちょろいことは言いませんでした。みんなじーっとしまっているんですね。

「そうですってね。でも最後にご家族とお撮りになった写真今日はお持ちいただいたんですけどもあのご家族で多分これが最後になるだろうということで。このときのお父様とお母様の気持ちとか何かでこの時そうですよね。白の後ろのが田さんですけども。

≪海辺でね右側が兄貴です。

「でもお母さんはニッコリしていらしてやっぱり心配させまいとね。下の眼鏡をかけてらっしゃる方がお父様。

≪そうです。

「その隣がお兄様だそうですけども。まあ21歳ですよ皆さん。それで結局そのベニヤ板でできたようなシンヨウというその地震の震に太平洋の洋という字を書く震洋特攻隊というので爆弾300キロを積んで軍艦に2人ずつ。敵の軍艦に体当たりして死ぬのだと。それでさっきのお写真があるんですけどもどこに行くというようなことは一切言えなかった。

≪そうですねですから両親もね最後まで戦争終わって私が帰ってくるまでどこに行ってたか知らなかったわけです。こつ然として9月になって戦争が終わってもう半月以上たって家に忽然と現れたもんでびっくりしたようですけども。

「特攻隊ですから多分もう駄目だったろうということで

≪特攻隊にいたということも知らなかった。

「そういうこともご存じなかったんですか。

≪それも言ってはいけなかった。

「それも言ってはいけなかったんですか。それで出撃が宮崎県の延岡の近くの赤水

≪赤水という漁村ですね。

「そこに基地があったんですか?

≪そこに基地を作ったんです。ですから本土決戦と言われたんですがそうなると1番あそこ海岸線が長いですからアメリカをまずそこに1番最初に上がってくる。ということでそこに張り付いて、沖縄に行った人はみんな死にました。

「だから沖縄はもう終わっていて。本当に大変な悲惨なことが起こって終わっていた時ですよね。それで昭和20年の8月4日もう終戦の11日前それでいよいよ

≪爆装せようというね爆薬を詰めといういう命令が。

「300キロの。

≪徹夜で25隻に積んだんですけども。

「でもベニヤ板のものにですよ、まあ5メートルの長さだそうですけどもそのベニヤ板のものに300キロのその爆弾というものは詰めるですか?そんなに。

≪ちょうどそれに合わしてできているんですけどもクレーンで結構もちろん重いですよ。すると船がへさきが下がっちゃう。

「そうでしょうね。

≪それで走りだすと頭が上がってくるんですよ。27ノットということになっていましたけども相手は黙って見ているわけじゃありませんからも機銃掃射をやってきたり

「そこに爆弾300キロを積んでいるということはそれに何かがだったらこっちが爆発することになりますからね。

≪もちろん全員死ぬんですよ。

「そうですよねみなさん若い方はねぇ映画でたくさん見てらっしゃるからああやってるけどもその映画ではあの俳優は死んでないわけですけども今おっしゃってる田さんたちは死ぬんで死に行くわけですからとにかく向こうの大きなものにぶつけて死のうということですよね。

≪そうですね。

「まぁそこで待機してらしたいよいよさっきおっしゃったように出撃じゃなくてなんでしたっけ?

≪爆装せよ。爆薬を詰めということですね。

「でもそのときはアメリカの飛行機がずいぶん

≪きていました。

「でもまだそのとき21歳ぐらいでしたよね。

≪そうですね。

「21歳

≪誕生日が来て22歳になったんですか。終戦のときは22ですね。本当に18歳のその予科練出身の搭乗員という50人いたのが今思うとね高校生か大学に入ったばかりでしょ今のでいちょっと想像もつきませんね。

「そうですよね

黒柳「それでいよいよ出撃ということになるところだったんですが、そうすると8月9日の長崎の原爆のことなんか

≪それは聞きました。聞きましたけども特殊爆弾というだけでねわかりませんで実際は。

「でもそこにいらっしゃる時にとうとう爆装したんでけども出撃がなくて

≪なくて8月15日になったわけです。

「でもその時に行きましょうと

≪そうですそれはねぇ、天皇の放送を近くの漁民の家で聞いたんですよ。なぜかね。5、6人搭乗員が一緒に来ていてしかしよく分からなかったんですね。天皇のお言葉がねぇ。しかし戦争が終わったということだけは分かりました。私はねぇ瞬間これで生きていられるんだなみんなビビッと思ったんですよ。そうしたねぇ一緒に行った搭乗員の一人が艇隊長、出撃しましょうというんですよ。敵がどこにいるかも分からなくてね出撃してどうするんだといってねまぁしっかりつけたんですけども。そういう心情だった

「そのつもりでしたからね

≪決断していたから。

「もう死ぬつもりだったんですから本当にその時に上からはどうしてのみんなどういうふうにしろという命令はきたんですか?その後。

≪いや結局ね特攻隊は戦争が終わったんだから特攻隊は早く解散せよそういう命令でね。

「それも辛いですよね。早く解散しろといってもね

≪われわれは将校は後始末がありますから結局9月まで残ったんですが。

「でも広島を通りになるときに帰りの広島の大変な惨状もご覧になったんですね。

≪まあ復員列車と言ってましたけども帰ってくる列車が出てたんでそれに乗せてもらったというか乗って帰ったんですかちょうど朝方朝開ける時に広島に停車したんでと一生懸命みたら何もなかったですね。駅のそばは建物は何もなかったと。

「びっくりなさったでしょう?

≪ええ。それで復員列車というのはみんなそれぞれ陸軍も何もいっしょくたで満員で帰ってきたんですけども。で私は両親が東京の家が焼けて

「青山だったそうですけども

≪疎開していたんでそこが分かっていましたから逗子で降りて歩いてね1時間半ぐらいで家に着いたころには夜中の1時ごろだったと思います。でしまっているから雨戸を叩いたらもう本当に幽霊ができたかのようにびっくりしてね起きてきましたね。両親が

「でもお喜びあったでしょうねどんなにかね。あとでまあいろんなことがおわかりになったでしょうけども

黒柳「んまあそれから東大にお戻りになって新聞記者に踊りになって下山事件・・事件松川事件朝鮮戦争とずっと見てらしたんですけども今こうして全国行脚して戦争のことを話してらっしゃるというのはどういう

≪まあ戦争が終わったときは虚脱状態もありますし負けたということもありますがやっぱり特攻隊で私だけが生き残ったという後ろめたさがありましたね。なにか帰ってきてからも戦争の話をするのが嫌でした。それでずっと子供たちができてもう男の子もいるんですがそういう子供たちにも戦争の話をしなかったんですよ。新聞記者の間もねあまり仲間や後輩にしませんでしたね。最近になってね若い皆さんが戦争を平気で日本も軍隊もてなんて言われるのを聞いているといたたまれない気持ちでね最近になってこの戦争の話をし始めました。私だけじゃないですねあのは同じ生き残った仲間もねぇそうですね。これを本当にこのままにしておいてはいけないと思いますね。戦争の語り部というをやらなくてはいけないか

「だからほとんどの同僚というですかね同期の方たちはなくなってしまったので生きてらっしゃる方の務めとしてはやはりそれをみんなに伝える必要があるということだと思うんですよね。生かしてくださった代わりにですね。多分そう思ってらっしゃると思うんですけども。

≪いやまったくそうですよ。

「でも本当につらい話ですよねぇ。戦争の話はね。まあどうもう元気でどうぞ本当に日ありがとうございました

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