2003年1月14日
黒柳「よくいらしてくださいました作詞家で荒木とよひささんです。でまあさっきご紹介申し上げましたをたくさんのヒット曲がおあわり。特にテレサテンさんの「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」といったような曲を作りになって。あとでテレサテンさんが「つぐない」のことをお話スううしてらっしゃるVTRをご覧に入れるんですけども、その前にですねえなんていったって1番最初にお作りになったので学生の時のが四季の。これはなんと言ってもラッキーだと思うんですけどもこれくちづてに広がっていったんですってね
荒木≪そうですね。作ったが楽曲をですね看護婦さんに教えてあげて
「はじめ大学生時代にスキーで
≪骨折しまして。病院で寝ていてそこで暇つぶしに作っていて
「本当にこれはご存じですよね。
≪ありがとうございます。
「これ(うた)は芹洋子さん。でも10ぐらいのグループが歌ったそうですねこの曲は。看護婦さんや何かが歌うようになって
≪そうです
「すごいですねでもねぇ。病院にいる間に学生時代にお作りになったそうですけども。本当にこれ知らない人がいないくらいに。
≪そうですね。
「それに特に日本人は四季があるということ誇りに思っているところがありますのでね。そうかそういう題名・・・題名じゃないや歌詞なんですね四季の歌という題名ではあっても父や母のことが出てくる。そういうところもまた。100万枚以上売れたという大変な大ヒットだったんですけども日大芸術学部で映画学科
≪はい
「いらっしゃって。映画を作りたい
≪最初はそうですね。あの子供のときの夢が映画監督をやりたかったので
「でもスキー選手というのもあったんですって。
≪そうなんですね。だから2つ向こう道があってスキー選手、運動の方やるか悩んでいたんですけどもまあ事故を起こしていき場所がないでしょう運動ができなくなったので。
「しかも長いんですよね入院が。
≪そうですね2年半ってぐらい闘病
「すごいですね骨折でも2年半てよっぽどの。どこの骨折なんですか?
≪下半身いろいろ骨折しまして。
「すごい。じゃあがっかりしちゃいますよねせっかくいろんな夢があったのにね。
≪そうですね挫折したときにこういう楽曲ができたというか。もしそういうアクシデントがなければを今は作詩家として生きているかどうかは分かりませんけども
「映画の方にお進みになったかまたはスキー選手になってらっしゃるか。だけどたまたまの骨折で病院に2年半も出たり入ったりそういうことがあったので。看護婦さんが口ずさんでいたものをレコード会社の方が大きい気になって。不思議ですよねそれも。
≪そうですね。その当時は今ほど音楽状態が良くなかった。山の音というかいい歌だねということで広まりまして、でだれが作ったんだ?だれが作ったんだ?ということで何人か僕が作った私が作ったという人が名乗りでたんですけども
「そう!。口ずさむものはこういうことになっちゃうんですね。
≪まあ回りの人がおまえが作ったんだから出ていけということでそうなのかということで僕が作ったということに認められたんですけども。
「それで芹洋子さんをはじめ10ぐらいのいろいろな皆さんが競作になったそうなんですけども芹さんの歌ったものがたまたまラジオで火がついたといいますかね。
≪そうですね。
「それから私さっきシンノミカさんのご主人だとご紹介申し上げましたけども後で時間があったらばうがいますけども(笑)あのシンノミカさんとのご結婚おめでとうございました。ちょっと前なんですけどもまあシンノミカさんとご結婚になった。シンノミカさんは演歌歌手とご紹介して
≪そうですねまあ歌手で。
「皆さんよくご存じの有名な歌手の方。もうお年は非常にあちらがお若い。まあそれはともかくとしてですねそういうレコード会社の方から四季の歌が口づてに。それでジャーということでその後ところがその後お作りになったものはあまり売れなかったんですってね。四季の後の、じゃあこれからは作詞でやっていこうかなと思ったら
≪ちゃんと売れましたんで
「四季の歌が売れたんで
≪その当時は学校も中ぶらりんになっていましたからあの仕事もなくて印税、印税というのを初めて知ったんですけども印税というのが入りましてこれはしばらく暮らせるなということで
「足もそんな具合いですからね2年半も病院に行ってらっしゃって。
≪でそんな簡単にヒットするんだったらこの道入ろうかなということで。まあいろいろ曲をもってレコード会社回ったんですけども全然ダメでね
「不思議ですよね。第1曲の四季の歌がそれだけ売れたのに何でそんなにね。
≪偶然神様が微笑んでくれたというか。
「そうですよね。そうでなかったらこの作詞家の道に。なにしろこの40年間にお作りになった曲に2,000曲以上ということですから凄い数なんですけども。そういうことをやったり弾き語りとかをやったりしてらっしゃるときに作曲家のモリタコウイチさんが学校の
≪先輩なんですけどもあのもちろん彼は作曲家としても作家としてもまあグループも売れていまして事務所にきてお前CMを書きなさいよということで。まあ仕事もなくて
「トップギャランという
≪そうですねトップギャランのときですけども。その事務所に行かせていただいてそこでCMの勉強をさせてもらって。
「そのCMをまたねいっぱいお作りになったんですよ。それでずいぶん皆さんの知っている2,000曲ぐらいお作りなった。
≪もっと作っています。
「もっと作ってらっしゃる。すごいですよコマーシャル。短いんですけどもそれでも2,000曲以上。北海道のが多いんですよねわりと
≪多いですね(笑い)
「あのおーいお-い北海道とか。覚えていらっしゃると思います皆さんね。でっかい道とか。
≪でっかい道、北海道
「でっかい道、北海道。そうそうそうそう。あれそうですよね。そういう言葉にかけている。ああいうのが売れてそれでコマーシャルの世界では随分有名におなりになった。
≪そうですねまあまあコマーシャルの世界ではね。
「そこでまたおこれは刹那的だなと。
≪いきなりこういうことをやっていていいのかなということでCMソングは確かにサイクルが早くておもしろいですね。お金にもなりますし面白いんですけどもハタと考えたときにいったいこのままこういうことをしていていいのかなということでもCMをやめようと決めたんですね。その時に最後の仕事をいただきまして。電鉄会社の社歌だったんですね。じゃあその社歌を書いて
「会社の歌ですね
≪会社の歌を書いて会社に打ち合わせに行ってで重役室に行ったんですね。社長さんからまあ重役さんがたくさんいて今度まあ新しい社歌をお願いしたいんですけども、前に書いた社歌があるのでそれをちょっと参考にしてどうぞご覧くださいとおっしゃられたんですね。それがなんと僕が尊敬する詩人のサトウハルオさんの”さんまさんまサンマは苦いかしょっぱいか”とお書きになったってあの佐藤先生がいう社歌を書きになっていたんですね。こういうことを言ってはなんですけども詩人がですね
「あれほどの詩人
≪詩人がまさか僕らみたいなねその社歌を書くとはまさか思っていませんでしたから。ものすごいショックで感動したわけなんですね。逆に。あの先生ですらそういうことをなさっているんだなとまあ1杯のお酒、飯のためにお書きになったがどうかは知りませんけどもそれで感動しまして。何だ僕なんかチンピラなのにそんなね大げさなことを飛んでもないということで、よし!何でもやろうと。とりあえずCMであろうが歌謡曲だろうが演歌だろうが何でも書こうと。そこで少し踏ん切りがねこう吹っ切れたというか。
「でもすごい出会いですね。それもね。
≪そうですね。
「まぁ社歌というのもみなさん一生懸命お作りになるだろうけども。やっぱりヒットするとかそういうものではないですしね。何か特別な人が歌ってくれるわけでもないのでね。会社の歌ですから。それをサトウハルオが書いていたという。それで決心なさってそれが縁で何でも書こうと思った第1作がなんと哀しみ本線日本海。
≪そうです
「これで大当たり。
≪ええ
「森昌子さんでしたっけ
≪浜啓輔先生からご指導を受けて濱先生は僕よりも年下ですけどもまあ歌謡曲では先輩ですから。浜先生の曲をいただきましてこれがまあまた四季の歌のようにねついているなと思ったんですけどもね。
「そうですね。生まれて初めてお作りになった四季の歌ですよ。それでまあコマーシャルもでっかい道、北海道とかいろいろあったんですけどももうこれでそうかと胸を打たれてじゃあとお書きになった第1作といってもいいものが哀しみ本線日本海。だから歌謡曲としては売れた第1作ですよね。
≪はい。
「それでその次にお作りになったのが童の
≪そうですねそれから少しずつ書きましたけども次に大ヒットしたのが三木先生と組ませていただいたあの童ですね。
「メダカの兄弟。
≪とかあの辺の作品になりますね。
「すごいですよね。大ヒット。その後にテレサテンさん
≪そうですね愛人とか時の流れに身をまかせ。
「そうですよねこれ有線大賞の三連覇。も独占の第1位。ダントツですよね。償い愛人時の流れに身をまかせという本当にテレサテンさん若くしてお亡くなりになって残念なんですけども。この徹子の部屋にいらっしゃった時にこの償いの話をしてらっしゃるんですね。
≪ああそうですか。
「皆さんもテレサテンさんお久しぶりでお懐かしいと思いますのでコマーシャルをはさみましてそのテレサテンさんの償いをちょっと話してらっしゃるのでコマーシャルをはさみましていたすことにしますのでちょっとコマーシャルです皆様。
≪
黒柳「テレサテンさんの償い、愛人、時の流れに身をよせてなどの作詞をなさったんですけども本当にテレサテンさんは上品な方でエレガントなところがとてもすてき
荒木≪この日本の女性がちょっと忘れかけていた、日本の女性が強くてたくましくなった分その日本の昔の女性のやさしさとか柔らかさとか控え目とか皆さんの共感を得たじゃないかと
「償いのお話しをしてらっしゃるんですがこれはなくなる10年前のVTRでございますけどもちょっとご覧くださいませ
≪
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黒柳「ま5年ぶりにお出しになった償いという有線大賞がこれは上半期に入るんですか?下半期に入るんですか?うまく行けば何かで年末にいろんなものが
テレサテン≪そうですね。年末は大賞ですね。
「それであなたは償いを日本語で歌っていらっしゃいますけどもそれは中国語でも歌っていらっしゃる
≪ええこの前香港で中国バージョンの償いをレコーディングしました。来年多分発売
「香港で出すときは北京語ですか広東語ですか
≪北京語です
「北京語で。じゃあこれからちょっと聞かせていただくのは日本語で聴かせていただきたいのでこれから~音楽~のは中国の本土で、本土といいますか中国ではあなたの曲があまりにセクシーだというので発売禁止になったことがあるんですって
≪ありました
「何の曲のとき?
≪それはね去年かな。曲じゃなくてこの人だった
「あなたが歌ったものは全部だめ。
≪そうです
「あまりに色っぽいという感じセクシーという感じ。
≪どういうわけかわからないですけども国のシステムが違うから。
「まあね
≪でも今は大丈夫です
「あ!大丈夫になりました
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「なつかしいとおっしゃっていましたけども。
≪懐かしいですね。
「であれなんですってね。今の曲3曲とも三木たかしさんの黛ジュンさんのお兄さんですけども三木たかしさん天才だよとおっしゃってたけども本当に素晴らしい曲を作りになる方なんですけども。テレサテンさんがいろんな仕事をなさっていたんですけどもこの後なくなるちょっと前にまた作ってほしいということで
≪そうですねあのずっと連続13枚ぐらいのシングル盤を作ったんですけども今まであの同じ作詞作曲家がですね連続12、13枚ということはないんですね。14枚目ぐらいになってなかなかお互いにいい作品ができなくてでやっとこできたんですね。やっと僕の仕事場に曲がきましてディレクターやプロデューサーが来ていい曲だねよしといったところにですねデスクの方に電話がかかって訃報が入ったんですね。
「テレサテンさんの
≪ウソでしょということでまあそんなうわさがで時々流れましたからまた冗談だろうということだったんですけども、僕はなんとなく今度は本当かなという感じがしましたけども。結局最後の歌はで彼女に歌ってもらえなかったというか
「残念でしたね。
≪まあ三木さんは非常に嘆きましてね僕がも少し早く曲を書いていればひょっとしたら人生が変わったかもしれないなぁとか言っていましたけどもね。
「そうですよねそうしたらそれを歌いに日本にいらっしゃっていてとか分からないですけども。でもわからないですけどもね。
≪でもまあ天が召したからどこでどうしてもそれは結果論であってねしかたがないことだったんですけども。
「お葬式に台湾にいらっしゃったらやっぱり彼女は本当にエレガントで穏やかなそういう何かおっしゃった日本の女性が昔持っていた良さみたいなものがあったとおっしゃったけども小さいころから苦労していた
≪そうですね回りが報道されたこととは違って凄く貧しいところでお生まれになったというか多分そうだったと思いますけども。ただ彼女の優しさのウラ側にはも鉄のような強いものが女性としてそういうものが確かにありましたね。
「なるほどね。でもずいぶんお作りになったお仕事の中でも残念な最後の詩になってしまってしかも彼女に歌ってもらえなかったというのはね。まあそういうふうにいろんな経験がおありなんですけども、面白いのはどんぐりコロコロて突然話が変わるんですが
≪(笑)
「まあメダカの兄弟も作ってらっしゃるということですからそういうものもいろんな物も手がけていらっしゃるんですけどもどんぐりコロコロて確かに2番までしかないですって。
≪2番までしかないです
「1番最後に、泣いてはドジョウを困らせた~♪までしかないんですよね。私なんて悲しいなんてドングリはかわいそう。どうしてドジョウを困らせたままで終わっちゃってって私子供のころに思っていたんですね。やっぱりそう思う人は1番2番をお作りになった方はわかってらっしゃるんですってね。
≪ええ、朝日新聞の大阪の朝日新聞のですねコラム欄みたいなところにそこに”ナゾトキタイ”というところがありましてねそこに手紙が投書が来るわけですね。
「ええ
≪あるところから手紙がきましてどんぐりのその泣いてはドジョウを困らせたで終わるんですけども2番で終わるじゃなくて3番4番はあるんですか?ということでその調べたわけですね。やっぱり調べた結果はなくて、その新聞社の方からまあ良かったら書いてもらえないかと言われましてね。だけどあんな名作品にですね手を加えるということは非常に良くないじゃないかとどうしてもとおっしゃるならばその原作者の方に、ご遺族の方にあの聞いて了承をいただければぼくも書いてもいいですということで、心地よく了承していただきまして
「あそうなんですか。これは宮城県の方でアオキアリヨシさんという旧制高校の校長先生をなさっていた方が在職中にお作りになったものなんだそうです。やっぱり調べた結果なんですけども。そうなんですか。
≪それで蛇ということでドングリが泣いたドジョウを困らせてどうしようかな。いろんなふうに作れるんですね。だけど1番その原作者が持っているちょっと大正時代にお作りになった作品なんでややちょっと文語体というかかたい言葉が所々にあるんですね。それをちょっとにおいをそのまま急に新しい形ではなくては僕なりに書いてみたんですけども
「なるほどちょっとコマーシャルをはさみましてあの新しくお作りになった3番4番こんなにどんぐりコロコロというのは有名だというのはすごいですけども、だれでも知っているみたいな歌なんですけども。3番4番新しくお作りになったものを皆様にご紹介致します。コマーシャルです
≪
黒柳「だって長いこと私どんぐりころころどんぶりこ、というのが正しいんですけどもどんぐりこが正しいんだと思っていました。ドンブリコというのが正しいんですね。1番2番はよくみなさんご存じなんですけどもそれはアオキアリヨシさんという方がお作りになったんですけども荒木とよひさ続編というものを私が口ずさんでみますね。ここまではちょっと寂しい感じがあるんですけどもあのこの荒木さんがおつくりになったものはハッピーエンドになったんでよかったなと思いますけども。”どんぐりころころ母さんが夕やけ小焼けの池の淵泣いてる坊やを抱っこしてドジョウにお礼を言いました”、”どんぐりころころそれからはやさしいドジョウの兄さんが恋しくなったら転がって時々遊びに行きました”。
荒木≪(笑)かわいいですね。
「かわいいですよね。これで安心して私も
≪眠れますよね
「親がいないのかとか私ね本当にねドングリはかわいそうと思ったんですよね。ひとりなのかなとかいろいろ思っていたんですけどもこれでお兄さんどじょうのお兄さんにも会いに行けるしお母さんもいるしということが分かってどじょうにも兄弟がいると分かったので。楽しいどじょうの兄さんがというので山から下りてまた会いたくなったらまた行けばいいということで。でもこういう歌をたくさん作ってらっしゃるんですけども歌の歌詞を作らせてもらった四季の歌もそうですけども本当の根底にあるのはお母様かもしれないんですってもしかすると。
≪そうですね。たぶんどんな芸術家も母親の影響が1番大きいと思いますね。やっぱりその母親が持っているこの感性とか厳しさもあるし優しさもあるしそういう、特にわれわれの年代のお母さんは今のママというタイプ元気で明るくていいママじゃなくて僕らの時代の母親はみんな悲しくて切ない母親というね。
「大連から引き上げていらっしゃったということもあって生活が必要なのでお母様は銀座でバーをお開きになった。とてもモダンなお母様で【写真】本当にきれいなお母様ですね。いつも白い帽子白いスーツをお召しになって大変皆さんお客さまがハイカラな方がいらっしゃったそうですけども。そこでずっと座っていらしたのでいろんな会話もお聞きになった。
≪そうですね。だからまあそういう話を聞いていますから多分そういうものが僕のデテールというかモチーフになったのかもしれないし影響力が強いですね母は。
「さっきもおっしゃったように戦争が入って引き上げとか、お父様とお母様のいろんな事とか、それとかお母様が仕事をしてお育てになるとかいろんなこと。そういうことずっと見聞きしているとやっぱり自分の体の中に入ってくるものがある。
≪そうそうですね多分そういうものが僕の肩にポッと母親が乗っかって書かしてくれてるんじゃないかと。
「だから四季の歌なんかそういう感じがありますものね。暖かさとか。そうなんですね。
≪
黒柳「さて作詞家の荒木とよひささんは3年前になりますかシンノミカさんとご結婚になりまして歌手のシンノミカさんですけども。あちらはずいぶんお若いんですってね
テレサテン≪若いですよ(笑い)それはもう僕から比べればずっとで22ぐらい違うんですか。
「22ぐらい。このごろ年の差なんてという感じがありますから驚くことはないんですけどもあちらにとっては逆に大先輩ということになりますよね同じ歌の世界では。
≪ああそうですね。
「それはちょっと大変だと思ったんですけどもあのアレなんですってねお互い初めからすごくいい感じを持ったというよりもシンノミカさんが
≪敬遠していましてね。
「敬遠したんですか?
≪向こうが僕のこと敬遠していました。僕は何も悪いことはしていないのにこうハスで見るんですね。何この売れっ子の作詩家が偉そうにという感じで見ていてでレコーディングも終わって1度みなさんで食事でもしませんかといってじゃそうしましょうということで、そうしたらたまたま彼女のマネジャーの方がいらっしゃらなくて、向こうがひとりで僕がたくさん連れていてもおかしいのでね2人でご飯を食べたんですね。
「ええ
≪なんとなくこれは面白い人かもしれないな
「だって子生意気にもあの子生意気と言ったら失礼ですけどもをこちらから見れば子生意気ですよ。私なんか北海道に行ってしまおうというからなんていったんですか?
≪そう年とったら私は北海道に住みたいと。僕も小さいときから北海道に住みたいと思っていてね僕も少しずつ土地を買っていたんですよ。
「そうなんですか。
≪それでそんなこと言われてね生意気だなこいつと思っていて(笑)そのへんがねちょっと
「でも面白いですよね。あの彼女はご出身は?
≪大阪の貝塚。
「そうでしょう。それなのに北海道に老後住もうと思っていて土地を買っているのって小娘が。こちらもそう思ってらしたから北海道に土地を少しずつ買っているのに何なんだって。でも、シンノさんはご存じのようにNHKのハングル講座でハングル講座でお料理とかいろんなことやっている。歌手のほかにもいろいろご活躍がある方なんですけども。とても面白い方だということが分かって
≪面白いですよ。あのハングル講座をやるようになってあの独学で勉強したんですけども
「そうなんですか。
≪ソウルオリンピックの時に向こうにいって凄い感動してね。音楽も感動してそれから独学で勉強したんですけどもだから最近では料理はですね僕はあっさり系が好きなんですけどもどうしてもそのキムチ系にサラダもそうなるし
「お肉も
≪それがちょっとヘキヘキしているんですけども。
「でもまあ歌手としては99点、恋人として100点妻としては70点というですからその30点はお料理ですかぁじゃ?
≪そうですねそれもありますね(笑)
「そうですかじゃあこれからも良い作品を待っています本当にありがとうございました。荒木とよひささんでした。