2002年7月1日
黒柳「今日は山本富士子さんにいらしていただきました。どうもしばらく」
山本≪しばらくでした≫
「本当にミス日本から女優の世界にお入りになって、日本一の綺麗な方で綺麗な方というと”山本富士子みたい”っていう風に呼び付けで悪いけどもいってたんですね。美人の代名詞みたいに呼び続けて50年。来年で50年」
≪50年です≫
「本当にお変わりなくて」
≪ありがとうございます≫
「映画界が10年、あとテレビ舞台で40年。それで初めておいでいただいたときに本当に小学校の低学年で作文を坊ちゃんが」
≪そうですね何回か出させていただいてますがあれが一番最初でしたね。読んで涙ぐんだの覚えてます≫
「そう坊ちゃんの小さい時の作文だったんだけどもその坊ちゃん結婚なさいましてずいぶん大きくなってお子さんが2人いらっしゃるそうなんですよ。孫がいる。お婆さんていうとこのかたがお婆さんって言ってるみたいで申し訳ないんですけどもまあ叔母様にお成りになったわけです。(※写真登場)これご主人と」
≪去年の秋紫綬褒章頂戴いたしましてね宮中へうかがってその時の記念の(写真です)≫
「ご主人とお会いになったときも偶然といいましょうか古賀マサオさんのお家で」
≪歌を習いに行きましてねはじめて先生のお宅の玄関を入ったときにパッと出会ったんです。わた医者古賀先生のお宅にどういう方がいらっしゃるとか全然予備知識が無かったんですけどもなんか会った時に「このかたどなたかしら?」と思ったんですけども≫
「ハンサムな方でいらっしゃいましたものね」
≪なんかねえフワーと暖かい風が吹いたような、今までに経験しなかったような雰囲気があったんです。赤い糸だったんでしょうかね≫
「でもでもその時には大スターでいらっしゃたんだから結婚なさるといっても」
≪私も姉が嫁いでしまって山本は1人ですし、古賀先生が丈晴さん(※山本さんの旦那さんの名前)をすごく可愛がって養子として入ってたんですね。それで作曲の勉強をしていましてね自分の後みたいなお気持ちで≫
「じゃあ古賀って名前で」
≪そんなことで両方が(結婚に)大反対だったんですね。それと彼はちょっと胸を病んでましてね。結核をしてましてねとても結婚はできないと≫
「でも一か八かでもし手術が上手くいったらば結婚するって」
≪そうです。私がね初めての他社出演で松竹の「彼岸花」の撮影に入っておりましてですね、初めての小津安二郎監督の作品で非常に明るいおちゃめな役柄だったんです。その時に大手術をしてたんです。本当にあの時は仕事のつらさと、私的なつらさとあれだったんですけども。もし手術が成功したら結婚してくれるかって言葉を残して手術に踏み切ったんですね。もちろん大船の撮影所に缶詰でしたからお見舞いにもいけませんし、なんにもしてあげられることができなくて丈晴さんのお兄さんが手術が終った時に「成功したから」って電話をくだすったんです。≫
「本当に良かったですねえ」
≪その時は本当に泣きましたね。≫
「それからだってご結婚なさってからだいぶになりますよね?」
≪ちょうど40年。≫
「でも「彼岸花」小津安二郎監督のものにどうしてもおでになりたいということであの松竹に出たいんだと自分でいわれて」
≪ですから念願だったわけですし。すばらしい小津先生の作品に出させていただいたという事がその後の女優人生に大きな影響があったように思いますね≫
「また出てらっしゃる方が佐分利信(さぶり・しん)さんとか佐田啓二さんとか」
≪本当に素晴らしい方でね。専属制度がすごく厳しい時代だったんでそういう監督さんとの交流とか俳優さんとの交流が全然できなかった時代ですからねえ≫
「ちょっと話し変わるんですけども自然な綺麗さでピカピカされてるんですけども前にずっとジュースを飲んでらっしゃるっておっしゃってたじゃないあれは何を入れるんでしたっけ?」
≪あのねにんじんとレモンとキャベツと赤キャベツ≫
「キャベツと赤キャベツ」
≪セロリ。そんなものをミックスしてジュースにします。夜はトマトの生をしぼっていただきますしね。それから後は松葉のジュース≫
「松葉って松の葉っぱの?」
≪そうですね。それは家で作るんじゃなくて売ってる≫
「売ってるんですか?松の葉っぱを!」
≪それをいただくとすごく体調がいいですよね。仕事で地方に行ってそれを(飲むのを)忘れた途端に≫
「そんなに!冬でも青いっていうのがね。松の実もとっても良いって言われてますよね。松の葉っぱが」
≪そうですねなるたけ自然なものをいただいて舞台のときでも店屋物をとっていただくという事はしないで家からいつもいただいているお弁当を持っていっていただくと。地方に行っても電気鍋を下げていって(笑)それでホテルでお野菜とか煮物ができるように≫
「自分がいつもいただいてるような野菜・果物中心で」
≪お米には麦を入れてできるだけ自然な形でいただいて。今はみなさん工夫されてますよねえ。≫
「でもずいぶん前からやってらっしゃいますよね」
≪薬をいただくよりも毎日の積み重ね。それがとっても大事なような気がしてます。継続は力なりってねえ≫
「前にもうかがってね山本さんはそういう風にしてらっしゃるんだって思いながらもついつい忘れちゃったりするんですけどもこの間思い出してそうだわ野菜のジュースを飲んでらっしゃるんだわって。飲むようにしてるんですけども。お肌なんかがすごく綺麗なんですけどもやっぱり長く継続。体操なんかは?」
≪ストレッチを≫
「それは自分でおやりになる体操?」
≪はい自分で。エステに行くとかジムに行くとかはお仕事の関係で今日は行けても明日は(行けない)とかどうしてもむらができてくるでしょ。だから私いつ何時でもいつどこでもできる。自分の家で毎日続ける。ということが一番やりやすい≫
「それは自分でお考えになったやつなの?」
≪いえやっぱり専門的な本だとかを見てそして教えていただいたりして自分流にアレンジして≫
「それを毎日どんなことがあっても(やる)」
≪そうですね大体。いつやるかはわからないんですけどもやる時間が無かったら寝る前にとか≫
「大体何十分ぐらい?」
≪30分ぐらい。≫
「ずいぶんながいですね」
≪それとねお散歩とかジョギングとかがいいって言いますでしょ。でも行けない日もありますから私はねえ廊下を行ったりきたり行ったりきたりします≫
「目え回りません?」
≪回りません(笑)。≫
「大丈夫ですか。そうするとエステとかジムとかにはいらっしゃらない?」
≪そうですねたまですね。とにかく毎日続けられるように≫
「召し上がり物や何かで中から綺麗になるように」
≪そうですね体調が悪いと絶対出てきますね。体調がいいと肌にもいいですしやはりもちろん外から手入れをすることもこれは絶対にね・・・≫
「パックとかをしたりするの?」
≪パックは私あまり好きじゃなくてしませんけどもパッティング≫
「叩くんですか?」
≪化粧水とかミネラルウォーターですごく時間をかけて≫
「何分ぐらい(笑)もう(笑)」
≪(笑)どれぐらいするんでしょうねえ。≫
「まあ2,3分ぐらいはする?」
≪それ以上はします≫
「昔からそうなんですけども綺麗な方にはねえ私が何でし私がしつっこく聞くかと申しますと綺麗な方にはどうして綺麗なんだろうとイシガキアヤコさんにずいぶん伺ったんですよ私。」
≪はあー≫
「どうしてあの方は綺麗なんだろうと」
≪お若かったですねえ≫
「何もしてないってずっとおっしゃってたんですけども最後の方にあの方は針をやってるっておっしゃいましたね。でもなかなかおっしゃっていただけなくてなんでこんなにお綺麗なんだろうなって思ったんですけどもね。やっぱり内面からの毎日の食べ物がいいですかあ」
≪そうですね。あとは精神的なものが大事なような気がしますね。いつでもプラス思考に物を考える。そしていろんなことに好奇心をもっていろんなことに目を輝かせてもちろん女優としては必要な事ですけども普段でもそういう自分でありたいと思いますからできるだけそういう気持ちをいつも持ち続けるということが大事なような気がします≫
「でも山本富士子あんまし外のトークショーとかにおでになってねどんな生活をしてらっしゃるかみんな分からないでしょ。誰かが家にきてマッサージしてくれたり、なんか体操を教えてくれたりとかするのかしらとかみんな思ってるかもしれないですけどもほとんどご自分で」
≪そうですね自分でやっております≫
「そうでしょうねそうじゃないと思うような時にスケジュール通りには行きませんよね。でもまあこれだけ長く第一線で40年間テレビ主に舞台を中心に。でも舞台をやってらっしゃる時に年間何ヶ月って舞台をやってらっしゃるんですねえ」
≪やってますねえ≫
「地方でおやりになって東京でおやりになってお稽古もおやりになると年8ヵ月とか」
≪8ヶ月は拘束されるという状態でずーとやってきてましてね≫
「だからご家庭をお持ちになって8ヶ月間舞台っていうのは並大抵じゃなくて朝行ったら晩まで帰ってこない」
≪そうですねそれが限度でしょうかねえ。特に自分の責任興行っていうねえ状態ですから途中でねえあの体が悪くなってやめるとかは絶対的にできませんからそれ以上は無理ですねえ。私ねえ40年間やってきてそれは熱があったり腰痛が起きたりといろんなことがありましたけども1回も休演をした事が無いということが私の誇りなんですね≫
「すごいですよね。それはもうすごいと思いますよね」
≪≫
黒柳「山本富士子さんはお小さい時は非常に水泳がお上手な」
山本≪もう大好きでした。みなさん京都出身と思ってらっしゃる方が多いんですけどもね実は大阪でしてね大阪の郊外でね本当に家の門を出たらそこが砂浜っていう。そういう環境で育ちましてね海が大好きで学校から帰りますとかばんを放り出してすぐに海へ飛んでいくという少女時代でした≫
「ですからミス日本にお成りになったときは白くておなりでしたからあまりしょっちゅう海に潜っていた少女とは思えなかったんですけども本当に海がお好きであのしょっちゅう海に潜っていた少女だったんですけども京都にいらしたときには理由があって戦争が終った時にお家がアメリカに接収された?」
※接収=①受け入れる事②権力機関が強制的に国民の所有物を取り上げる事
≪そうなんです。終戦になってすぐにアメリカの進駐軍が来ましたね。そして将校の洋館≫
※山本さんは大阪時代洋風の家に住まれていた
「お父様は当時としては珍しい。お父様は鉄工所を経営してらしたんですね。洋館で洋館のいい家っていうのはほとんどが接収されたんですね」
≪日本の各地でそういうことがありましてね。それで当時のGHQ、アメリカの最高司令部ですねえ日本の政府の方がいきなりいらっしゃってとにかく1週間以内に立ち退けと。そして家財道具も全部差し押さえのようにベタベタはって≫
「置いていきなさいっていうの?」
≪全部置いて出て行きました。家は郊外でしたので空襲では焼けなかったんですが焼け出されたのも同然で終戦間もない状態でしょう。日本全国同じ様な環境ですよね。どうしたらいいのかって両親たちも困り果てましてね。そしたらたまたま父の友人に頼まれましてね京都に家を買ってたんですね。それでそこにしか行くしかしようがないということでそれで京都にいったんです≫
※山本さんが住まれていた洋館の写真が登場
「今のお家写真で拝見してたんですけども当時としては珍しい今は珍しくも無いかもしれませんけども戦前からの洋館のお家っていうのは珍しい」
≪そうですねえ≫
「外国人の人に取られちゃうっていうことになったんですけどもペンキを塗られちゃったりしてね戻ってきた時にはひどい事になってたって。でもそれで京都にいらっしゃったために京都市役所の広報課にお勤めの方がお父様のお知り合いにいらしたの?」
≪それで読売新聞の主催だったんですけども当時日本にダラの救援物資というのがずいぶん送られてきてそれでみんな救われたんですね。それの感謝答礼使節のミス日本を選出する≫
「ああお礼の親善の。」
≪そんなことで扱ってるのが市役所なんですよ。≫
「もし京都に行かなかったら、もし市役所の方とお父様がお知り合いじゃなかったらそれを受けるという事も無く女優さんになることも無かったかもしれないんですってねえ」
≪そうですねえ本当にあのー敗戦、京都に行きましたからそれが私の運命を180度変えたっていうか≫
「お家もなくなっちゃいましたしねえ自立しなければならないという年齢でもおありだったと思いますけどもララ物資というのにお世話になりましてですねえ私なんかもララ物資の配給が東京であったんですけども一番母がねえ・・・私ぬいぐるみが好きだったの。その中にアメリカの子供が使って洗ったんだろうけどもぬいぐるみがあってね母がぬいぐるみを貰ってきてくれたんですよね。くまのぬいぐるみ。私ララ物資の中で一番覚えてるんですよ。」
≪そうですね皇后陛下の感謝のお歌。そのお歌を持ってララの救済物資本部へお届けして、そして各知事さんのとこに表敬訪問して≫
「それでミス日本だったの」
≪その時に皇后陛下の歌を手渡して。そういうすばらしい目的があったものですから≫
「日本がお礼をしようとしたこと、美女をお送りしようとする事があったんですね。あれはミス日本の顔の綺麗な人がなるのであってと思ったんですけども親善のお礼の」
≪ですから今のコンテストとは趣(おもむき)が違いましてね。非常に硬いコンテストでした。職業婦人は駄目だとかずっと父兄どう父母とどっちかが付いて行くとかね。今思えば大変な(笑)≫
「本当にそういうのがあったとは知らなかったんですがそういうミス日本でいらしてそしてそういういろんな方々にお礼にいらっしゃったという事から始まったというねえ。おもしろいですねえ」
≪そうですねえ≫
黒柳「18歳でミスに日本におなりになって19歳でアメリカの日ケイ親善使節ということでララ物資のお礼にいらっしゃっていろんな方にお会いなさったんだけども後にマリリンモンローと結婚するジョーディマジオさんともね一緒に写真撮ったりして」
山本≪ヤンキーススタジアムでお会いしました≫
「当時大スターでしたからね。」
≪大変なものでしたね。それからルーズベルト大統領夫人その時は未亡人でしたけどもお目にかかったり。それから各州知事さん、市長さん、新聞記者だとか。その当時アメリカではテレビが盛んになりかかってましたからテレビでちょっと踊ったりしたり≫
「日本舞踊を習われてましたからね。そういう時のお写真を全部とってらしてこれが山本富士子さんのすごいところなんですけども”命燃やして”という写真集をお作りになられたんですけどもその時に全作品の写真をお持ちということはこれは写真を写してくださる方に「くださいね」って言わないとなかなかくれないものですよ」
≪そうですね。そのテレビ局でも劇場でもちゃんと撮ってくださるところもありますしそうでないところも在りますし。そうでないところは自分で頼んで撮ってもらったり。≫
「頼んで。そしてちゃんと撮ってくださった方には後で下さいねって頼んで全部議事分でやってらしたんですね」
≪今度写真集をだしましたけれど99%私の持っていたものですから≫
※山本さんは今までしてきた全ての仕事の写真を撮影されたものは貰い、撮影されなかったものはわざわざ撮ってもらって保存している。
「テレビ局には無かったんですね写真が。1番最初におでになった東芝日曜劇場の写真なんかは」
≪逆に根テレビ局のほうから今回保存用に欲しいと逆に言われたりしましてね。でもねえたくさんの写真の中から選び出すような作業がもう・・≫
「どれがいいのかっていうね」
≪大変でした。それと各1つ1つ映画・テレビに思い出がありますでしょ。エピソードとか。それ私しか知らない思い出とかは全部原稿を書きましたんでね≫
※山本さんは「命燃やして」という写真集を出された。その中の写真は山本さんが選び、写真1つ1つに思い出を書き添えた
「それでビックリするような写真をねきちんとやってらっしゃらなかったら絶対こうならないんでね。よくあるのがあの写真かして下さいとか言われても「無いんです。無いんです」って言って私は写真集は出せないんですけども山本富士子さんの場合はキチッとご自分で残してられて第一本目のテレビから全部残してあってテレビ局には無いと思いますけども。それといい方とたくさん共演されて映画のものを全部残ってるんでね。」
≪そうですね≫
「だからこれで年表も作られてるんですけども女優さんで自分の年表を作れるということも私すごいなあーと思いますけども。ねえ」
≪私今度の写真集を出すというのは長い間こうやって女優という道をやってこれたのはたくさんの方のご支援あってスタッフの方の協力だとか、いろんな素晴らしい方との出会いとかがあって自分が今ある。自分の感謝一杯の思いを何とかお届けしたいというのが大きい≫
「それから全部自分で書いてらっしゃるので正しいのね。これ1冊あれば山本富士子さんがどういう仕事してらしたか全部わかる。感想も全部そこに書いてあるので。ああこれはすごい。お写真は今手に入らないものもありますし。ちょっとコマーシャルがあるのでちょっとコマーシャル」
≪≫
黒柳「映画10年おやりになって、なんと103本。1年に10本くらい。1年に10本主役で撮るというのは並大抵の事じゃありませんけどもテレビにいらっしゃった第1本目の東芝日曜劇場の”明治の女”これもちゃんと写真がありましてね。松本幸四郎さん後の白鴎さんですがねちゃんと写真があって全部残してらして2本目が”お母さんの骨を貰って”というこれはフジテレビなんですけどもこれもちゃんと北村和夫さんとでてらして。このころね山本富士子さんが出てらしゃるという事でみんなで見てたんですよね」
山本≪それでね明治の女の時はあのあれがテレビ初めてだったんですけどもその前の映画の五社協定うんぬんで次々と仕事がフリーになった途端に壊れていくという苦しい時がありまして、ほぼ女優を辞めようと思ってたんですね。そしたら石井ふく子さんがテレビはこれからの世界だから新しい世界だから絶対に出なさいといわれてでたのが”明治の女”だったんですね≫
「東芝日曜劇場。当時は大変でしたのでね」
≪そしたらそれで大変な視聴率をいただきましてね放映が終った後夜中まで電話が鳴り止まないほど≫
「局に?」
≪自宅へもみなさんから。それで感動してもう一度女優をやっていこうと決意を固めた私にとっては忘れられない作品なんです≫
「そうですか。もしかしたらお辞めになっちゃおうかと思うくらい」
≪それぐらいいろいろな事があまりにも続きましてね今日はお話できませんでしたけども大変な時期がありました≫
「”命燃やして”の中にいろんなたくさんの方のお写真が出てるのでまた」