本日の徹子の部屋ゲストは加藤登紀子さん

2002年10月25日

黒柳「加藤登紀子さんですよくいらしてくださいました。

加藤≪あの久しぶりといっていつも言うんですけども今回はこの間

「お会いしたばっかりでね。7月にここにきてくださったばっかりなんですけども本当に残念なんですけどもご主人の藤本敏夫さんがお亡くなりになったんですね。この先の写真なんですけどもあれは今年の5月に

≪5月の6日というのが私たちが自分たちが決めた結婚記念日なんです。その30回目だったんです。もうに入院はしていたんですけども病院から連休で外出届を出してそして鴨川に行ってこの時は田植えもみんなでした日でした。

「千葉県の鴨川で。

≪あのしませんでしたけどもみんなが田植えするのを見てそして最後の6日に2人だけ残ったんですけどもお花をいっぱい買ってきて植えたんですね。その時の写真です

「そうなんですってね。亡くなったのは7月31日。その今おっしゃったように結婚を5月6日とおっしゃってました

≪そうですね5月の6日それから5月はお休みのたびに鴨川に行きました。あのとっても

「考えてみれば連休中ですよね。

≪で6月に入ってもまだ少し一緒に外出したり外でご飯を食べたり

「今のお写真は本当にお元気そうに見えてそのどうかご病気でどこかが悪い方とは写真では全然わからないぐらいなんか一緒にお鮨を食べにいらしたんですって

≪この日の夜にお寿司屋さんで写真を撮ってもらってあの2人だけの30周年目30年目の記念日ということで

「このご主人という方はなんか非常に格好がいい高倉ケンさん風要素と、明石家さんまさんみたいな要素とおありになったそうで。このときは明石家さんまさんだったんですね(笑)

≪いつもなんかねツーショットをとろうとするとこんな変な顔をする

「恥ずかしかって

≪だから本人はもちろんすごく覚悟はできてたんだと思うんですけどもとっても明るくて元気が良くてあの撲滅宣言とか言ってがんを闘いとったぞとか言って(笑い)あの治療をするたびにもうすぐ直りますといってみんなに言ってましたから本当に最後は急だったんで残念で皆さんも驚かれたんですけども。私たち自身は本当にそうですねも7月に入ってからはも肺がんに転移と分かってからは本当に胸にいつもウっとなるようなそういう気持ちを

「お嬢さんがさんにいらっしゃるので。であの今最後のお写真を見せしたんですけどもご主人はどれだけすてきな方かというのは7年前の2人なんですけどもその写真もお持ちいただいたんで7年前無農薬の物を作ったりなんかしてらっしゃるその時のすてきな、いつもすてきな

≪ずいぶん色っぽいバーのマダムみたいな(笑)感じですね。

「あなたはねまたいらしてみたら感じでね(笑)

≪家でもよくいらっしゃいとか言って笑ってましたけども

「ああそうでも本当にこんなすてきな背の高いすてきなご主人だったんですけども。何といってもご結婚が本当にもまぁ世の中でちょうど加藤さんは歌手で東大での女性で東大出の歌手でしかも1人寝の子守歌が大ヒットというときにちょうどご主人が。

≪あれは68年の26歳のときにまだもちろん結婚はしてなかったんですけども出会って

「出会うときはあの方は同志社の

≪同志社ですけども東京に出てきていてあの学生運動のリーダーをしていたんですけどもその時に出会って出会った年68、これは69年の写真なんですけども68年という年は大変彼のすごい年で半分ぐらいは拘置所の中という状態だったんです。その間は68年の10月のあと11月につかまって翌年6月16日まで8カ月ぐらいずっと入っていた時期があったんですか

「獄中の彼にあなたが結婚したいと、あのときはものすごくマスコミがねぇ

≪その後72年に彼が正式に裁判が終わって3年近くはいちゃうというときに

「も3年近く入ってしまうことになったんですか

≪そうなんです。長いですね。それが長いので結婚をしていた方がいいんじゃないかと私が提案したんですけども3年もいないに男がねぇ結婚、昔の戦争に行くみたいなものじゃないですか。行く前に結婚してから行くなんて、それはおかしいからやめようと彼は言ってそれで入ってしまったんですね。それで入ってしまったんですけどもあの赤ちゃんができていたということが分かって私は自分の考えで決めて結婚したいといったのがあの時の結婚だったんです。

「それでまぁ子供ができたんでどうなのって、どうなのって変だけども(笑)

≪(笑)

「それで獄中の彼にそう言ってをそれで結局獄中結婚というふうにあの時言われましたよね

≪そうですねぇどうなのって弁護士さんに手紙を持たせてもらって

「面会って出来ないの

≪そう。それでイエスという返事でしたよと弁護士さんに言われたんですよね。その時もイエスってそれだけ言って。それだけでしたといわれて。もうそれからねずっと10年も20年も本当に私の結婚は略奪結婚だったじゃないって笑っていたんですけどもずいぶんたってからである人の結婚式の仲人というの引き受けていいといわれて引き受けたのね。そしたらあの花嫁さんはきれいですねいやあ僕はカミさんにこういう格好をさせてやれなかったからなってしみじみ言ってであの時はも本当に僕は天涯孤独で生きていくと思っていたのに本当にありがたいと思ってたんだっていうの10何年たってからその結婚式のあの仲人を引き受けたときにいったんですね。ですから本当になかなかそういうことがすんなりと言ってくれないという人だったんです

「そういうご性格がまた高倉ケンさん的なところってあなたがお思いになっていらっしゃるところなのかもしれないんだけどもでもとにかくその娘が2歳になったときに彼が出てこられれるようになった

≪そうですね。それから2人目ができて間3人目がちょうど1980年、2000年にちょうど20歳になる子供だっていうのね

「まぁみんなで家族の幸せなお写真もあります。ちょうどお嬢さんが

≪生まれたときですね。なかなか格好つけていてねぇをわりと偉そうなことを言うのは好きなのに気が弱くて赤ちゃんをうまくだけないというのでけして近寄らないぞとか俺はとか言って(笑い)言ってましたけどもね

「写真の時もみんなカメラの方を向いているのにちょっと赤ちゃんのほうを向いて横を向いてちょっと恥ずかしいかっていらしたんですけども。まあそういうふうに獄中結婚という感じだったんで15年たって結婚式をやろうという話に

≪そうですねいろいろあって千葉県の鴨川に彼はまあこの間の時は千葉県の鴨川のことをずいぶんお話ししたんですけども。ずいぶん農業をやる側にねぇずいぶん近い所にいたいと言ってその時に私はやっぱり一緒に移り住んじゃと歌手活動ができないからといって別に東京と両方に住んでいたんですけどもあんまり素晴らしいところだったので私ここでパーティーがしたいと言ってその時に思い切ってじゃ15周年のお祝いにしたらと言われてそれで白い服を私はこっそり作って

「そのときは娘さんに頼んで?

≪そうですね。

「実はその時のVTRが本当に短いものなんですけどもテレビ朝日に残っていたんですね。本当に短いんですけども15年目の結婚式をおとりになったときのVTRがあるんですけどもちょっとご覧ください。~VTR~

≪やこの時年絶対にねぇ僕は白いスーツなんか着ないぞとかいって私は買ってきてあったんですけどもね。蝶ネクタイとか。

「彼のために。

≪そしたらその時にイトウツヨシさんと亡くなったカトウコウイチさんが仲人をしてくださってで「登紀子さんの困ったようをを、彼は絶対に白いのなんかきないっていい張っているよう。だからちょっとあんたからねちょっと説得してよ」と言われたのね。その時に伊藤さんあなた夫婦ってわかってないはねって(笑)夫というのは妻の言うことだけは聞きたくないものなのようて。他人の言うことはそうですかって一生懸命やるけども妻に言われたことはやらないというのは常なんだから私はいっちゃダメだからね伊藤さんから言ったらて。そうかなと言って。いよいよというときに着てぱっと出てきたので私もびっくりしたんですけども

「あらそう。まあそういう思い出が

≪だから本当にそうですねパートナーとして私はちゃんとできたのかどうか分かりませんけどもそうですねよく言ってましたね僕は妻が欲しいようてって(笑)田舎で暮らしていると

「(東京で)お仕事をしてらっしゃるからね

≪いつも私に加藤トキコさんっていうんですね。妻に向かってなんなのって言うんだけども(笑)そういう何ていうんですかこの人を1人の社会的に活動している人だというふうに見て扱おうというようなことがあったんでしょうね。主人の中に。だから私は最後に病院で看病しているときにあのレコーディング、レコーディングというのは夜中が勝負なのでいつも9時に「お休み」といってから病院からレコーディングに行くんですね。で夜中が勝負ですからそれから歌ったりするんですけども、どうしても次の日の昼間に行くんですけども音楽の話ができなくてやっぱりやっぱりねぇ私が歌手だからというのですごく無理してたと思うんですけどもね。だから病気になっていもうちょっと楽になって私と楽にできたらいいのにって。どっか緊張があるような気がしてどうしても歌の話ができなかったしきやそうですよね最後に7月28日にあの朝面会に行ったらCDを聴いていたんですね。

「彼が。

≪そう。

「亡くなる3日前ですよね。

≪そうですね何を聞いてるのって言ったら裕次郎さんを聞いていたですね。まあまさか私だったりするはずがないんですけども(笑)であのねちょっと待って聞き終わるまでちょっと待って聞き終わってから静かにイヤホンを外してさぁゆっくりといろいろと話すことがあるなと言って向き直ったんですね。でその時に裕次郎さんの何を聞いていたかちょっとわからないですけども病院から死んでしまって全部持ってきたときにCDの中にまだ裕次郎さんが入ってましたから。たぶん彼が聞いた最後の歌だと思うんですけども、まあそれは私の歌じゃなくてもちろんをいいんですけどもずっとそういうふうにまあそのときはゆっくり話したいなと言ったのに私は飛行機に乗ってコンサートがある日だったんです。あともう5分もあと10分とか言っているうちに結局は遅れちゃって飛行機に乗り遅れちゃったんですけども、あの日本当に残念だったなと思って。ちょっとそばにいてあげればもうちょっとごめんなさい。ずっと泣かなかっのに

「でもね初めてね今まであまり涙が出ないと言ってさっきそんな話をしていたんですけども。彼はほんとうはあなたにいてほしかった。やっぱり仕事をやる女の人を理解はしていたんだけどもやはりあなたにそばにいてほしかったんだということがねあなたの後悔みたいにね。

≪私がいればもうちょっと、いるときはですよくこのいる間はアレができたこれができたと思うわけですよねぇ。いなかったときはできないままだったわけだから本当にそれを思うとねあの日のことを思い出すとすべてがちょっと切ないですね

黒柳「お亡くなりになった藤本敏夫さんは亡くなった時に58歳。

加藤≪はい

「でいらっしゃったんです。でもすごくお元気なかたで10日前に2人で会った時になんかギリシャがアジアかヨーロッパかってすごく2人で討論になって。10日前ですよ皆さん

≪なんかやっぱり私たちのでアジアの農民として農民国に生きてきたからだから環境問題を考えるときに何しても未来を考えるときにもうちょっとアジアという気持ちが欲しいのにのいつ間にかヨーロッパの精神風土の上に暮らしちゃってる。だけど元々はどっからた多文化ユダヤ人がエジプトから出たというそのキリスト教のねぇ、でもそれはアジアだったんじゃないかということになってじゃあここからヨーロッパが始まったぞというのはいったいいつなんだっていう話になって私は西洋史なもので

「学校は西洋史なんですってね

≪そうなんですよ。お前どうなんだっていうからえーとねえわかんないっていうんで年表を持ってきて7月21日の日曜日朝から晩までずっと。その時そうですねヨーロッパはどっから始まったんだろう。元はヨーロッパの元はアジアだったんじゃないかっていうことでで1日いろんなことを話しましたよね。

「でもそういうことで時間を持てたのはねよかった。

≪そういうふうにして大きないろんなことを語りあうのがお互いに好きでしたよね。

「でも3日前にいろんなお話しをなさったりしたんですけどもとうとうなくなる日なんですけどもお嬢さん3人がいらっしゃって

≪前の日の8時に肺炎ですと先生に言われてまあいその日もレコーディングで夜9時から行くはずだったんですけどもそのまま私は肺炎になるというと1日2日だということを言い聞かされていたので「ひょっとすると先生1日2日ということですか?」といったらその通りだとおっしゃって「今夜も?」といったらそうだってに今夜も本当に危険ですかといったらそうですとおっしゃっても本当にそういうのって突然くるんですね。びっくりしてもちろんその日横にずっと泊まってで夜中のうちにまあ娘に電話をして朝1番の飛行機で沖縄に

「沖縄にね。3番目の娘さんがお嫁に

≪すぐにいらっしゃいと言って。そして鴨川にいるうちの母と彼の母とかみんなに声をかけて次の日そうですねぇも11時半ぐらいになかなかみんなたどり着けなくてねみんなが。そして血中酸素力というのを呼吸と一緒に出るんです数字が。その酸素量が80というレベルを維持してをずっと一晩そばで本当に数字を守りながらねいたんですけども朝になってともするとちょっと70になったりするんですね。頑張って呼吸して呼吸してと言ってそうするとちょっと頑張って呼吸すると80ぐらいを超えるですね。だから本当にマラソンをしているような状態ででそれでもう1度だけ「がんばれがんばれもうすぐ着くから」と言ったときに1度だけ涙が出ましたね。1度だけ彼は1粒だけ涙を流しましたね。でもその時に頑張ってみんながをたどり着いてでも全員で別途を囲むようにしてすごく楽しいというんですか雰囲気が盛り上がって彼はスっと楽になってとってもその数字もよくなったんですよね。私はもあんなにほっとしたことはなかったです。

「でもその時にご主人がもうこれでいいだろうとはっきりと

≪それが12時ぐらいでその後さらにマラソンは続いたんですけども2時20分ごろにいよいよマスクをしてもしても苦しくてあのもいいだろうと大きな声で言って

「すごいですよねもうこれでいいだろうってやっぱり自分でお決めになるんだなと思ったんですね。聞いたときにね。

黒柳「全員がご主人のベットの回りに集まったときにもういいだろうとご主人かおっしゃってそしたら

加藤≪そうですねその瞬間にサヨナラをみんなひとりずつして。そのまま肺の呼吸が

「そしたら止まったんですって

≪とまるんです。もちろんそれはちょうどエンジンを止めていくように自然に呼吸するんですけども。言われる酸素、血中酸素量というのがも四十、三十、〇になっていくんですね。もう本当にあの初めてなんですけども娘の前で。だから私はその後いろいろな方がおっしゃってくださっていままでは生と死というのはものすごく距離のあるものだと思っていたのに本当にそこにあるということがね感じられて。だから死んでしまったんだけども距離感が感じられないですね。だからあの思ったよりずっと近くに感じ続けている。

「亡くなった後は特にそうねえ近く感じるだと思うんです。それで3番目のお嬢さんが沖縄をにいらっしゃって赤ちゃんをお産みになったんですね。ミホさんという方が。その時にあなたが何でもかんでも沖縄に行って孫を見に行こうとお誘いになったその時どんなにうれしかったかということあまりはっきりとおっしゃっていなかったんだけども亡くなった後にご主人が1カ月前にお書きになったものがお友達が。お葬式の時に

≪小冊子に乗せていただいて。

「小冊子に文章書いていらしたんですそれをちょっと。そのお孫さんカヤというお名前なんですけども”どうしよう孫ができた。昨年11月まだ沖縄首里は熱かったのに肝臓がんなどものともせず登紀子さんにせっつかれて羽田からJALにのる”ちょっと飛ばして”赤ちゃんに初めて会ったときだけど立派な顔だった。まだ生まれて1カ月なのに1人前の顔に黒々とした髪が生えている。そのままはセーラー服を着れば女子高生にもなるし流行の服なら六本木の街角だ。少し変な褒め方だと思うが許してもらいたい。それから3カ月少したって今度は彼らが東京に来てくれた。ちょうどがん戦争の前線がリンパ節に拡大して入院していたので東京虎ノ門病院に孫が来てくれた。嬉しかった。3カ月たってやはり大きくなっていた。当たり前だ小さくなってどうする。カヤいい名前だ。ともかくカヤは来た。病院のベットに寝てくれた。どうしようがんが伝染病でなくてよかった。カヤは万死値することは間違いない。その日は2時間も遊んでくれた。じいさんたる僕の喜びいくばかりかカヤにはカヤのを都合があるというのにありがたいことだ。時代は1972年僕は中野刑務所7舎北下に収監されていた。レンガ造りの古くてみるからに監獄という感じのする刑務所だった。”これは1972年のことですが”風香る5月初旬某日子供ができた。結婚をしたいという加藤登紀子の申し出にかたくなだった僕の心は瞬時に溶けた。彼女の言葉は何よりも率直だった。突っ張っていた僕の前頭葉は何年もの間その言葉を待っていたのだろう。首里から空かけてきたカヤは1972年の登紀子さんのようであった。それこそ肝臓がんが最も苦手とする率直さとさわやかさそのものであったに違いないだからとてもうれしくかった。6月22日執筆”ちょうど1カ月前。ハナカミ通信というものにお書きになったものです。本当にそういうことおっしゃらなかった方なんだけどもしかもこれなくなってから

≪だからあの1日2日に密葬が終わった後に3日にコンサートがあったですね。で回りが心配してやれるんですかと言われたから私はとにかく1番いま歌いたいのよ。でその時に3日のコンサートの時にパッとみたらいつもお水を飲もうところにこんな分厚いタオルが置いてあったんです。それで私はねまあスタッフはすごく優しいねって。だけど私は絶対にこのタオルを使わない。使わないからといってもって歌ったんですね。その時ふっと思ったのは本当に思ったのは私は歌っているとき1番1番藤本のことを思えていた。と思うんだけどもその歌についての対話では本当にしてないですねだからだからもちろんレコーディングのことも全く一切いっていなかったし、だけども私はそのお通夜の後にステージの上に立ったときにすごくうれしかったんですよ。というのは私が自分の気持ちで丸ごと思うことできるのはだから皆さん歌っているときだからに今日は私のわたし自身のためにお葬式よりもなによりも私は彼のために歌はしてくださいと言って3日のコンサートをしたんですけども。

黒柳「もうちょっと旦那様のベットのそばにいられたらとお思いなりながらもCDを作らなければいけないので行ったり来たりなさった時にあのおいでになったCDができましたのであのちょっと夫へのラブレターのつもりで作ったという曲を1つ皆さんに聞いていただきたいんですけども。

加藤≪青い月のバラードという。真っ暗な中にまあこの鴨川で過ごしていたときなんですけどもいつも思うんですけども月はたったひとりで真っ暗な空の中にこう輝いていて。だからこの詩の中に花は花のようにいつも地面に咲くしかなくて、鳥は鳥で飛んでいても花と鳥が恋いをしたとしてもまあ鳥は鳥であり花は花だと。だからみんなそれぞれ1人になっていくんだなということを歌ったんですけども。

「とてもきれいな曲

≪アルバムはハナガタミというタイトルでこれはゴスペラーズの村上君が私に送ってくれた曲の中にハナガタミという花の籠という意味らしいんですけどもあの箱という字ですよね。あのその時に形見という意味もあるし棺という意味もあるというふうに村上君が言ってもそれをずっと前にもらったんですけども。それが私にはずっと心に残っていて消えなくてこのアルバムにしたんですけども

「ご主人と最後に植えたお花がお葬式の時に満開だったそうです。サルビア。

≪はい今も咲いて

「お二人の前に咲いてこの写真の前の赤いのがそうですね。数カ月後には満開だったそうです。まぁ本当にまあ貴方が歌い続けることが大切なんでしょうね

≪ありがとうございました

「本当にありがとうございました

タイトルとURLをコピーしました